今月のウクライナ-59

さて、すでに皆様もご承知のように、
プーチン氏、部分的動員とやらをしかけました。
予備役兵の招集です。「嫌だ!」と言えば、刑務所送り・・・。
だもんで、反対運動や国外逃亡も相次いでいるようです。
加えて、これまで弟分だと思っていた連中からも舐められつつあるようで、
アルメニアとジョージア間の紛争の再発に加え、
キルギスとタジキスタンとの間でも軍事衝突が発生!
ロシアによる「タガ」が完全に外れているようです。
あせったプーチン氏、ウクライナ東部と南部の住民投票を急がせてます。

選挙結果は見え見えですが、
選挙後、これらの州にゼレンスキーが攻撃を仕掛けた場合、
プーチンはこれをロシア国家に対する攻撃とみなして
「全面戦争」に本当に踏み切るのでしょうか?
その場合、NATO は参戦するでしょうか??
その結末は???
その際、円は上がるのか下がるのか????

いやいやいやいや・・・あんまし想像したくないです・・・。


さて、西暦 316 年に匈奴によってが滅ぼされた後、
中原の地は五胡十六国によるしっちゃかめっちゃか時代に突入します。
従いまして、これの説明は避けて、例の鮮卑による統一から始めます。

西暦 386 年、鮮卑拓跋部(たくばつぶ)の王により(ぎ)が立てられ、
ここに漸く中国北部に安定した王朝が成立することとなりました。
曹操時代の魏と区別するため、これを北魏(ほくぎ)と呼びます。

北魏.jpg紀元 5 世紀中ごろの中国大陸  ウイキより


晋が滅んだのち、
長江流域の都市、建康(けんこう=現在の南京)を首都として、
司馬氏の一族が新たな晋の国を打ち立てます。これが東晋です。
で、以降、東晋と王朝が続きます。
で、以降、
この時代の北の王朝は北朝、南の歴代王朝は南朝と呼ばるようになりますが、
南朝最後の王朝である陳は、西暦 589 年、
北に興った(ずい)によって滅ぼされます。
日本においては、
卑弥呼さんの死以降、雄略天皇を経て聖徳太子の時代直前、といった頃です。
大和朝廷も一通り安定し、大陸からの先進文化を積極的に受け入れていこう、
と言った雰囲気になりつつある頃、と言っても良いかな?

北魏にはシルクロードを通して中央アジアの文化が流入してきますが、
中でも隆盛を極めたのが仏教で、
「起き上がり小法師(こぼし)」で有名な達磨大師(だるまたいし)なども
この時代の北魏の首都である洛陽に来て「本来の仏の教えに戻れ!」と唱え、
のちの「禅宗」につながる教えの開祖となりました。
敦煌(とんこう)と並んで有名な雲崗(うんこう)もまた、
この時代に作られた石窟寺院です。現代の山西省大同市にあります。

で、一方の南朝ですが、以前にお話した禅譲(ぜんじょう)と呼ばれる
「血なまぐさい茶番劇」によって次々と王朝が変わっていきますが、
他方、詩歌や清談などに代表される文人文化が花開いた時代でもありました。

センセも「廬を結びて人境にあり」で始まる陶淵明の詩などは大好きです。
引退したら、この詩のままに生きていこうと考えてます。

陶淵明.jpg陶淵明=五柳先生(ごりゅうせんせい)の図
東晋の終わりから宋の時代にかけての典型的な文人です。
中国の幽霊サイトから拾ってきました。
いわゆる「南画」の世界は、
センセ(この場合は私のこと)が理想とする世界でもあります。


さて、この時代、中央アジアからウクライナを経て欧州に至る地域においては、
ビリヤードの玉つきのごとく、民族の大攪乱が生じて行くのです!次回!