W 杯の決勝戦、凄かったですね!
寝てたけど・・・。
さて、西暦 558 年に突然北コーカサスに現れた柔然ですが、
以降、欧州の間ではアヴァールと呼ばれるようになります。
名前の由来に関しましては、前々回にお話しました。
北コーカサスに到達した彼らは、
「今月のウクライナ-70」で登場したアランの残党に仲介してもらい、
東ローマ帝国と同盟関係を結ぶなどして勢力を拡張!
ウクライナを経てドナウ川に至り、
フランク・メロヴィング朝とも一戦を交えます。
その後、現在のハンガリーに相当するパンノニア平原に到達し、
567 年にはランゴバルド王国に代わってその地を制圧して、
ここにアヴァール可汗国を建国するに至ります。
アヴァール騎兵軍団の図。
フランクの騎士から奪った兜をかぶっていたり、
欧州人的特徴を持った兵士も居たりで、
アヴァールの特徴を良く表している絵画です。
想像画ですけどね、もちろん。
現代の騎馬では無くてはならない鐙(あぶみ)もまた、
この時代にアヴァールによって欧州に伝わった、
と言われてます。
例によって、中国のサイトから無断でお借りしてきました。謝謝!
以前のフン族もそうでしたけど、アヴァールもまた
欧州唯一ともいえる広大なパンノニア平原に居を構えたということは、
やはり彼らが基本的に遊牧の民だったからなのでしょうね。
この地は後にマジャールの土地となり、現代に至ります。
赤がアヴァール可汗国、カスピ海東の薄青が西突厥。 ウイキより
ブルガリア人は、この頃はまだウクライナに留まってます。
そもそも突厥(とっけつ)に追われて欧州にやって来たアヴァールですが、
突厥もまたしつこく、
東ローマ帝国とよしみを結んでアヴァールに圧力をかけ続けますが、
東ローマの方は突厥と組んだりアヴァールと組んだりしてどっちつかず。
しばしばアヴァールに貢納(税を納める事)するなど、
情けないこと甚だしい・・・。
で、時を同じくして丁度この頃、スラブ人もまた移動し始めます。
故地のポリーシャからバルカン半島へ南下する連中が現れ、
アヴァールと共に、東ローマ帝国を悩ませるようになります。
彼らが後に南スラブ人と呼ばれるようになる連中で、
一部はギリシャの地まで南下して行きます。
ナントかチッチとかカントかビッチとか、
色々なスポーツでおなじみですね!
多くの紛争のネタを提供することでも有名です。
アヴァールの侵入がスラブの移動を促したのかどうかは分かりませぬ。
623 年にはアヴァール、スラブ、ササン朝ペルシャの三者が連合し、
コンスタンチノープルを攻撃するに至ります。
東ローマはからくもこの攻撃を撃退し、アヴァールに反撃を開始!
スラブ諸族に加え、当時はウクライナに居たブルガールの連中とも同盟して
アヴァール包囲網を形成します。
791 年にはフランク・カロリング朝のカール大帝が軍を進めて
ブルガールやスラブとアヴァール可汗国を挟撃した結果、
9 世紀初頭、アヴァールはついに欧州から姿を消すに至りました。
で、
「今月のウクライナ 80~81」で柔然の連中を超興味深い!と指摘しましたが、
近年のパンノニアでの発掘調査において、
アヴァールが支配していた 7 世紀の人骨から得られた DNA を分析したところ、
驚くべきことに、その多くから YDNA のハプロタイプ N が認められた、
とのことでした!
また、mtDNA のハプロの多くもまた、東アジア由来であったとのことでした。
この当時のウラル山脈周辺には既に
ハプロ N を有する多くのウゴル語族が居住していたわけですから、
柔然が「アヴァール」と欧州の連中に呼ばれるようになるまでに
彼らと交わった結果そうなった、という可能性もゼロではありませんが、
アヴァールの移住経路を考えるとウラルを通った可能性は低く、
そうなりますと、
彼らはもともと N の人たちであった可能性の方がよっぽど高いと思います。
となりますと、彼らは、過去ログで何度もお話した遼河文明の生き残り、
である可能性が生じてきます!
遼河文明を打ち立てた連中がそのまま移動してフィン・ウゴルとなったのか、
あるいは
一派が遼河に、他の一派がフィン~ウラルに行ったのかは分かりませんが、
少なくとも遼河文明崩壊後にその地に留まった連中も居たはずで、
この発掘調査の結果は、実は烏桓こそが遼河の残党であり、
その後に彼らは、追われたためとはいえ、遠路はるばると欧州に到達し、
そこで派手に暴れまわった、ということになります!
個人的には、アヴァールが当時のフィンランドの連中と連携を果たして
欧州を北と東から席巻していたら歴史はさらに面白くなったであろう!
と思いますが・・・残念です・・・。
で、「にょんにょんが柔然語であったら非常に興味深い!」と言った理由は、
これも過去ログでお話しましたが、
古代の高句麗の数詞が日本の「ひい~ふう~みい・・・」と一致するという
驚愕的な事実から、
遼河文明~高句麗~百済~ヤマトという一つの流れが読み取れるのでは?
と考えたためであります。
倭人に関しては、このような北方からの流れと共に
水田稲作的な南方からの流れの両者が見て取れますので、
この両者のハイブリッドが倭人の原型だ!
と、個人的に考えてますが、これは今月のウクライナシリーズが終わってから
今月の書評シリーズに戻った後に再度お話しよう、と考えております。
では本日はこれまで!シャロン!
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