今月のウクライナ-82

ウクライナ軍による冬季反転大攻勢はあるのでしょうか?
ここしばらく大きな変化の見られない戦線状況です。
バフムトで砲撃戦があったとか、
ドニエプル川東岸に橋頭保を築いたとか、
ロシア国内の空軍基地を長距離ドローンで攻撃したとか、
細かな情報は色々入ってきますが、
今のところ、大きな動きに結びつくものではありません。
一方のプーチンも、恒例の年末記者会見をキャンセルするなど、
ジリ貧を隠しようもないカンジです。


さて、もとは柔然と同じく戦闘的遊牧民であった鮮卑ですが、
北魏王朝を打ち立てた後は
さも昔からの正統的な中国王朝みたく振る舞います。
で、柔然と北魏の関係ですが、
昔の匈奴と漢王朝の関係をそのまま踏襲するようなカンジです。
要するに、侵攻と討伐の繰り返しです。

で、西暦 402 年頃、社崙(しゃろん)という
ナンかカッコよい名前のオトコが柔然の族長となり、
周りの諸国を次々と征服!
あっという間に中央アジア第一の遊牧民国家に成り上がり、
一大帝国を築いた彼は、鮮卑譲りの可汗(カガン)を号するようになります。
この時の柔然の版図に関しては「今月のウクライナ-81」を参照して下され!

柔然-2.jpg戦闘的遊牧民は外見から判別するのは難しいかも・・・。  
「我愛歴史ナントか」という中国のサイトから無断でお借りしました。謝謝!
https://www.52lishi.com/article/46759.html


で、社崙が死んだ後も南朝の斉と共謀して北魏を攻めようとするなど
相も変わらず何かと暴れてますが、
鉄工職人奴隷としてこき使っていたトルコ系の突厥(とっけつ)が力をつけ、
柔然に反攻するようになると、これに対抗できなくなってきます。
西暦 534 年、北魏は東魏と西魏に分かれますが、
突厥に追われて西魏に逃れた柔然は突厥の要請を受けた西魏の軍に大敗を喫し、
中央アジアでの地歩をほぼ失う羽目に陥ってしまいます。

で、西へ西へと逃げた柔然の残党ですが、突如として北コーカサスに現れます。
西暦 558 年のことです。