今月の書評-139

神楽が盛んな地域として、も一つ、
宮崎県の高千穂(たかちほ)地域がありますね!
出雲と高千穂、共に古事記や日本書紀で重要な位置を占める場所です。
もちろん、記紀に大きく掲載されたから、その後に二義的に多くの神社が建ち、
神楽も盛んになった、と言うこともできますが、
実際に重要な場所であったから、一義的に、当然のごとくにこうなった、
と言うことも可能です。

ま、高千穂にある天岩戸神社は前者であることは間違いないわけですが
WWW・・・。

で、「今月の書評-2」の図を今一度見ていただくと、
人口希薄な縄文時代の西日本にあって、
出雲地方と南九州には比較的大きな縄文社会が存在していたことが
見て取れます。
そのうちの一つである出雲地方の立地を見ると明らかなように、
のっぺりとした山陰地方の海岸線において、
宍道湖(しんじこ)や中海(なかうみ、なかのうみ)の存在が大きいです。
現在の斐伊川(ひいかわ)は宍道湖に注いでますが、
当時は西に流れ、
神門水海(かんどのみずうみ)と呼ばれた湾に注いでおりました。
名前からして汽水のラグーン湖かと思われます。
現在では土砂の堆積によって湾は埋まり、平野となってしまいましたが、
当時は日本海と内陸部を結ぶ港湾として機能していたと考えられます。
すなわち、半島から最も船の便が良いのは北九州地域であるのは当然ですが、
そこから日本海に沿って東進する場合、
船着き場としてとっつきの良い最初の場所が出雲地方、ということです。

神門水海.jpg                       縄文~弥生時代の出雲の地形


従いまして、半島からの文化が、北九州以外にも、
出雲地域に比較的多く伝播するのは必然であると思います。
レプリカ法という
土器の製作時に生じた稲モミの圧痕から稲の伝播を知る方法がありますが、
これまで得られたなかで最も古い稲モミの圧痕は
北九州ではなく、
出雲から出土した土器から得られています。
また、ヤマタノオロチのモチーフとなったと考えられている暴れ川、
斐伊川の河口域は、
当時、水田稲作に適した絶好の場所であったと思われます。

出雲地方の遺跡には
縄文時代からそのまま弥生時代に続くものが多く見られることから、
縄文人が水田稲作や陸稲文化を受け入れ、
これを発展させていった可能性が考えられます。

また、人類学者である斎藤成也氏の「日本人の源流」によれば、
「現代の出雲地方の人々には縄文由来の DNA が比較的多く認められる」
とのことですし、
言語学の大野晋氏によれば、
東北地方のズーズー弁は出雲地方でも認められるとのことです。

東北と出雲、両者共に縄文 DNA が比較的多く見られる地域です。

さらには人類学者の篠田謙一氏によれば、
鳥取の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から多く出土した
西暦 2~3 世紀頃の
殺傷人骨から得られた DNA を解析した結果、

YDNA のハプロタイプの多くは縄文由来であった
とのことでした。

これらの結果を総合的に解釈すると、
古代出雲の繁栄の基礎を築いた連中は縄文人であり、
かれらが積極的に半島由来の文化とヒトを受け入れ、
これを発展させていった結果、
ここに天照族が欲しくてたまらなくなるくらいの国ができあがった、
ということになるかと思います。

オオクニヌシノミコト、
国津神(くにつかみ)の代表選手であることを、忘れてはいけませぬ・・・。