今月のウクライナ-107

ウイグルの崩壊以降、ウクライナの地は
色々なトルコ系遊牧民によって代わる代わるに支配されていきますが、
それぞれの部族の名前を時系列的に覚えるだけでも大変ですし、
その頃のその他の地域の情勢がどうであったか、
その関連の中で理解していかなくてはならないので、
確かに「歴史を書く」という行為には結構難しいものがあります。

で、ハザールと同時代、
ハザールに抑えられていたのがペチェネクという連中。
ペチェネクという名前は義兄弟という意味らしいので、
色んな部族の集合体みたいなカンジだったらしいのですが、
主体となっていたのはオグズ語群に属するトルコ族でした。

で、ハザールやオグズに押されてウクライナに移動する途中で、
ウラル山脈の南部辺りを出身地とする
元々は N 系であったマジャール人の連中を圧迫し、
これをハンガリーのパンノニア平原へと追いやります。

で、その後にハザールが
キエフ・ルーシスヴャトスラフ1世に敗れて 965 年に滅亡すると
ペチェネクの連中がこれに取って代わることとなり、
ウクライナの地に覇を唱える形となりました。
で、相も変わらず、キエフ・ルーシ、マジャール、ブルガールなどとの戦さに
日々これ明け暮れするわけですが、
971 年、スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻時には
時のビザンツ帝国の要請を受けてブルガリアに加勢し、
スヴャトスラフ1世のキエフ・ルーシ軍を壊滅!
戦死したスヴャトスラフ1世の頭蓋骨を盃とし、祝杯をあげたと言われてます。

この打ち負かした相手方の将の頭蓋骨を盃とするのは
色んな戦闘的遊牧民の話の中でしょっちゅう出てくる逸話ですが、
日本の織田信長も浅井長政の髑髏(どくろ)を酒杯としてますので
必ずしも戦闘的遊牧民に特徴的な話とは言えないと思いますけれども、
歴史において、彼らの間でよく見られることは確かです。
これに加えて老人を邪険にする一方で血気盛んな若者を称える風潮も指摘され、
儒教の影響が大きい中国の史書では、この点、しばしば野蛮視されています。

で、一時は隆盛を誇ったペチェネクでしたが、
1036 年にはキエフ・ルーシに、1091 年には東のキプチャクに大敗を喫し、
12 世紀には雲散霧消の態となり終わんぬ・・・。

ペチェネク-2.jpg10~11 世紀頃  ウイキより改変
この中で、
ブルガール、ペチェネク、キプチャク、オグズ、カラハン朝がトルコ系、
マジャールとフィン・ウゴールが遼河文明由来のアジア系です。


で、ペチェネクに代わってこの地に覇を唱えたのがキプチャク。
12 世紀の頃です。
キプチャクは、ルーシではポロヴェツ
ビザンツやハンガリーではクマンと呼ばれていた連中で、
キプチャク語群に属するトルコ系部族です。
その後にモンゴルがこの地にやってきてキプチャクハン国
別名ジョチ・ウルスを建てますが、その名の元となった部族です。
ご多分に漏れず、戦争ばっかししてますが、
特にキエフ・ルーシとは何度も戦い、
ボロディンの曲で有名なイーゴリ公とも戦っています。
13 世紀、モンゴル軍によって、最終的に、キエフ・ルーシ共々、
その軍門に降ります。

モンゴルとキプチャクとの戦争に関してはそのうちお話しますが、
一点、興味深い話をしたいと思います。

イスラムの王朝に奴隷兵士として仕えた連中のことをマムルークと言いますが、
モンゴルに敗れたキプチャクの一部がマムルークとしてエジプトに行き、
そこで頭角を現して自分たちの王朝を作り上げます。

いわゆるマムルーク朝、いくつかあった奴隷王朝の一つです。

遠くバイカル湖の湖畔に居た連中が
数世紀後にはウクライナからエジプトに渡り、
そこで王朝を打ち立てた、というお話です。

キプチャクハン国.jpg13 世紀頃のキプチャクハン国最大版図  ウイキより
結構大きかったんですね!

キプチャクの兜-3.jpgキプチャクの兜  ウイキより
ハザールの兜も同じようなタイプです。
同時代の日本の鎧兜の作りとは、基本的概念が異なるようです。
戦闘方式の違いからでしょうけど、
どっちが強かったんでしょうかね?
状況次第でしょうかね?
海に囲まれていてよかった、というのが偽らざる思いですが・・・。