今月のウクライナ-90

712 年、うんざりするよな宮廷内のゴミ掃除を終え、
晴れて皇帝となった若き玄宗(則天武后の孫にあたります)は、
開元の治(かいげんのち)と後に呼ばれる立派な政治を行います。
彼を補佐する有能な宰相たちにも恵まれ、内政~外政ともに充実。
名実ともに「世界に冠たる唐」の時代を迎えることとなりました。

玄宗皇帝.jpg玄宗皇帝の像  ウイキより
期待と実物が異なることは、よくあることです・・・。  


唐以前からも、対異民族政策として
いわゆる羈縻政策(きびせいさく)がしばしば行われておりましたが、
太宗の時代に西域拡大のために置かれた安西都護府でもこれが採用され、
西域諸国の軍を各個に撃破し、服従させたのちは
彼らの王を唐の長官として任命して国や地域を治めさせるという、
ある意味「懐の深い」政策です。

羈縻の羈は馬を制御する用具、縻は牛の鼻綱、とのことです。

657 年には西突厥も唐の羈縻下に入った結果、
突厥帝国は実質的に滅んでしまうこととなります。
さらに西に拡大した唐はササン朝ペルシャと接する形となり、
ここに中国史上最大の版図が現出することとなりました。

唐の最大版図.jpg唐の威風が及んだ地域  ウイキより
右端に当時の日本が描かれておりますが、
蝦夷地は毛人、九州は隼人と熊襲が記されており、
ナカナカ正確な図ですね。

その後、ササン朝はイスラム・アラブによって滅ぼされますが、
勢力拡張を狙うアッバース朝と唐の軍は天山山脈西北麓のタラス河で衝突!
唐軍の一翼を担っていたトルコ系のカルルク族がイスラムに寝返ったため、
唐軍は大敗を喫してしまいます。
この時に捕虜となった中国兵の中に製紙業に携わるものが居たため、
ここから紙が西方に伝わることとなりました。

西方世界と直結するようになった唐にはソグド商人やペルシャ商人、
さらにはインド洋を渡って多くのアラブ商人が広州に到達し、
エキゾチックな商品は隋の煬帝が築いた大運河を通って長安まで達し、
花の都、長安は、世界第一の都市として、栄華を極めることとなりました。

文化的には李白、杜甫、白楽天などの有名詩人を輩出し、
唐三彩、青磁、白磁などの焼き物も大変有名です。
センセも彼らの詩が好きで、
中学時代は暗記して、よく諳んじていたものです。今でも結構覚えてます。

で、好事魔多し!

さしも栄華を誇った玄宗皇帝下の開元の治ではありましたが、

漢皇色を重んじて傾国けいこくを思ふ ぎょ多年求むれども得ず

の状況となってまいります!