今月のウクライナ-77

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三教は同源、
というのは良く知られた事実ですが、
どういうわけか、
この三者でくんずほぐれつの争いをしてきたのも良く知られております。

今でもしてますが・・・。

で、一神教とか言われて多神教の世界観とは大きく異なる、
と考えられているこれらの宗教ですが、
それらの教義に関して深く立ち入ることはしませぬ。
歴史学としての宗教の本質は、
「同一の宗教を共有することでヒトはまとまり、かつ、
些末(さまつ)な教義の違いで分裂し、争うようになる」
という点に尽きると思います。ホント。

「旗幟(きし)を鮮明にする」という言葉がありますが、
宗教、言語、血のつながり、文化的一体性、思想(イデオロギー)など、
これらは「共同体」の結束に必要不可欠なものとして働きます。
「法律があれば、これらは必要ないんじゃないの?」
とかいうヒトがいるかも知れませんが、
「法律」の根底にこれらが横たわり、法律を法律たらしめているのです。

多民族国家、昔の「帝国」などが典型ですが、
これらの多種多様な旗幟を持つ連中を束ねるためには
強力な「力」が必要となります。
一旦、この「力」が弱まると、たちまち分裂してしまいます。
タガが外れる、ということです。
で、この外れたタガを元に戻そうと「力わざ」を繰り出しているのがプーチン、
ということですが、
残念ながら、自分が思っていたほどには「力」が無かったことに
今更ながらに気付きつつあるのが現状、というところでしょうか。

で、ユダヤ教などはある意味「民族宗教」であり、
ディアスポラの民としての民族的結束を維持するためにも
あのような日常的儀式やタブーに満ちた教義を維持してきたのかな?
とも素人的に考えたりします。
この点イスラム教も同じなので、ディアスポラは関係ないかな?
とも素人的に考えたりします。
要するに、分かりません。
この点、神社にお参りする際には二度お辞儀をして二度手を叩いて
ジャラジャラ鈴を鳴らしてお願い事をして
最後に一度お辞儀をすれば OK !あなたは立派なネコです!
という、おなじみの日本人の神道とは大きく異なる点です。
但し、出雲大社では四回手を叩くようですが・・・。

で、イエス・キリストも自分ではユダヤ教徒のつもりだったらしいですが、
やはり教義の内容がより普遍的なものをもっていたからでしょうか、
徐々に信徒が増え、
ギリシャ的多神教であったローマ帝国内部にも浸透して行きました。
で、第三者的視点からは些末に過ぎるようにも見える教義の違いから
当初から多くの宗派に分かれていったようですが、
これらの宗派間の論争や、ユダヤ教との争い、
さらにはローマ帝国の皇帝や将軍による弾圧などを経て、
ある時、大きな転機を迎えることとなります。

紆余曲折のあるローマ帝国ですが、
西暦 300 年辺りは内部の権力抗争が激しく、
帝国として不安定な時期でした。
この頃に登場したのがコンスタンティヌス 1 世
西暦 312 年、彼は突然にキリストの啓示を受けた結果、
神懸かり的に相手方に勝利を治めます。
これこそは神のおかげであると確信し、権力を握った彼は、
その後、ローマ皇帝として、
大規模にキリスト教の保護~普及に乗り出しました。
313 年にはミラノの勅令を発布してキリスト教のみならず信教の自由を保障
318 年には昔から行われてきたローマの伝統宗教を禁止、
325 年にはローマのとある丘に教会を作りますが、
これが後のカトリック教会の本拠地であるバチカンとなりました。
330 年には東の果てのビザンチンに大都市を建設し、
自身の名を冠したコンスタンティノープルと名を改め、ここに首都を移します。
これが後のビザンチン帝国の礎となりました。
要するに、コンスタンティヌス 1 世の統治下において、
現在の我々が知っている地中海地方の景色が出揃った、と言えるかと思います。
この後、イスラムの影響が上書きされていきますが・・・。

コンスタンティヌス1世.jpgコンスタンティヌス 1 世の像。  ウイキより
アメコミに登場するヒーローみたいですね!
アゴがザキヤマです。


以上の結果、一気に勢力が拡大したキリスト教ですが、ご多分に漏れず、
「我こそが正統派なり!」ということで、宗派争いが激しくなります。
「正しいのは我々、キミたちは異端!」という、おなじみのあれです。
キリスト教とは無縁の不信心極まりないセンセなどから見れば、
「イワシの頭を右耳の穴に突っ込むのが正統」とか、
「いやいやサンマの尻尾を鼻の孔に突っ込むのが正しい」
とかの争いに見えますが、もちろん、本人たちは大真面目です。

で、東のコンスタンティノープルと西のローマに大きく二分されたキリスト教は
互いに「はい、キミ、破門」、「いやいやキミこそ破門」と言うわけで、
お互いに破門合戦を繰り広げて大騒ぎ WWWWWWWW!

その後、ローマ帝国そのものが東西に分裂することとなった結果、キリスト教も
西のローマと東のコンスタンティノープルとの分断が深まっていきますが、
これが現在のカトリックと東方教会~ギリシャ正教の分裂の始まりです。
基本的教義には大した差はないんですけどね。
イワシの頭かサンマの尻尾かの違いくらいで・・・。

で、西暦 380 年、東西の皇帝が共同してキリスト教を国教とする旨を宣言し、
ここにめでたくローマ帝国=キリスト教国家となりました。
この 380 年代には神殿を含む伝統的ローマ宗教の残滓を徹底的に破壊したり、
代わりにキリスト教の荘厳な教会の建設を行うなどした結果、
キリスト教の司教らの地位と権力が飛躍的に高まる結果となりました。
どうやらここら辺に、
後の中世ヨーロッパを特徴づける王権と教権の確執問題の芽がありそうです。

先に、
「多種多様な旗幟を持つ連中を束ねるためには強力な「力」が必要となる」
と書きましたが、
多種多様な民族を内包し、反乱も絶えることのなかったローマ帝国において
キリスト教を強力に推し進めていった背景には、
国教を制定することによってナントか帝国をまとめ上げたい、
という思惑もあったのかも知れません。

この点、「民族宗教」では収まりが付かず、まとまらないため、
キリスト教やイスラム教、あるいは仏教などの普遍性を有する宗教は
国教として用いるに適していた、ということなのかも知れません。
戦争中の日本が「八紘一宇」の名のもとにアジア各地に神社を建てて
異民族の人々にお参りを強要したところで全く持って上手くいかなかった原因は
どうやらここにあるようです。