今月のウクライナ-56

ウクライナ軍が東部でいくつかの集落を取り戻した、
との報道がありました。
一方で、ウクライナ側は武器弾薬が圧倒的に足りず、
大きな損害を出している、
との情報もあります。
ロシアが北朝鮮から多くの弾薬を購入する=北にルーブルが流れ込む、
ということですから、北の増長いや増します。
天然ガスパイプラインの供給を上手くコントロールして、
EU の分断を図ることも可能です。
中国においては、習近平は間違いなく三選されるでしょう。

やれやれ・・・。

さて、鮮卑(せんぴ)です。
鮮卑はモンゴル系であり、
秦の時代に言うところの東胡(とうこ)の一つです。
東胡には、他に烏桓(うがん・烏丸とも書きます)とか柔然とかがいます。
烏桓と柔然は同じ部族である、との説もあります。
同意してます。

匈奴の最盛期には、これらの東胡の連中は匈奴の支配下に置かれ、
過酷な税を徴収されて、恨みつらみを募らせておりました。
良くある話です。
で、後漢になって匈奴が内部分裂を起こして勢いが弱まった頃、
檀石槐(だんせきかい)という傑物が現れて匈奴を攻撃し、
これを遠く西方に追いやっただけでなく、
これまで匈奴が占めていたモンゴルの地を占有することとなります。
おおよそ紀元 160~180 年ころです。
今月のウクライナ-49」を参照して下され。

鮮卑.jpg鮮卑の騎士  令鲜卑族强大起来的檀石槐是一个什么样的人?
という中国のサイト https://www.sohu.com/a/369226971_388741
から引っ張ってきました。謝謝。
この図では木製の鞍(くら)とあぶみが描かれてますが、
これらはこの時代の中国で発明されたようです。
これが戦闘的遊牧民に採用され、
彼らが欧州にまで遠征することで世界中に広まった可能性が指摘されてます。


分裂して追われた匈奴の連中を北匈奴と呼びますが、
後漢、南匈奴、鮮卑、烏桓、丁令の連中みなを敵にまわした結果、
故地のモンゴルからどんどん西方に追われていきます。
最終的に、
現在のカザフスタン辺りに勢力を占めていた国、
康居(こうきょ)辺りまで移動し、この地で一応は落ち着いたようです。
その後の行方は杳(よう)として知れないわけですが、
さらに西へ行き、欧州の地で大暴れした可能性があります。

これに関しては、また後ほどに・・・。