今月のウクライナ-49

さて、匈奴が強勢となる以前は、
東胡(とうこ)とか月氏(げっし)とかが優勢でした。
東胡とは「東の遊牧の異人」くらいの意味で、
モンゴル系の烏丸(うがん)とか、後の鮮卑(せんぴ)とかの連中です。※
匈奴の北には丁令(ていれい)とか呼ばれたトルコ系の連中が、
西には印欧語族のトカラ系である月氏が、
そして秦の西には(きょう)と呼ばれた正体不明の連中が居りました。
は印欧系ともチベット系ともいろいろ言われてます。
現在のの末裔はチベット系の言語を話すようですが、
古代の連中はまた別であった可能性も指摘されてます。
系統不明、としときます。
下図は秦の頃の状況です。
およそ紀元前 3 世紀くらい前です。
烏丸(烏桓とも書きます)はモンゴル系ではなく、
遼河文明を打ち立てた YDNA N の残党である可能性があります!
柔然~アヴァールのところでお話します。

紀元前3世紀-3.jpg
センセが個人的に「匈奴はトルコ系なのでは?」と考える理由の一つは、
有名な冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)の「ぼくとつ」とか、
その父親の頭曼単于(とうまん・ぜんう)の「とうまん」とか、
これらの言葉はトルコ語に由来する、との説があるためです。
「ぼくとつ」とはトルコ語で「勇者」を意味し、
「とうまん」とは「万人の頭」、すなわち隊長を意味する、
とのことなので、なるほど、意味的には説得力があります。

但し、前に述べたように、
これらの言葉がモンゴル語から借り入れた可能性も指摘されてますので、
決定的ではありません。
さらに言うならば、「とうまん」が「万人の頭(かしら)」を意味するならば
これは中国語と言ってもよいわけで、
ならば中国語の「頭」とか「万」とかはトルコ~モンゴル語由来なのか?
という疑問も当然出てきますし、あるいはその逆の可能性も生じるわけです。
加えて、
後の時代のウクライナ・コサックの隊長は「アタマン」と呼ばれてましたが、
ユーロアジアの遊牧民の文化的伝播力を考えると、
ことによるとこれも「とうまん」と何らかの関係があるような気がしてきます。
「ア・タ・マン」、「ア」は接頭辞、「タ」は「とう」、「マン」は「万」、
と分解できるかも・・・。
さらに言うならば、昔のいわゆる「ゾク」、
すなわち暴走族のリーダーも「あたま」と呼ばれておりましたが、
これら全部関係があるのか???
それともセンセの「あたま」に問題があるのか???

いずれにしましても、その他、後のフン族に関する記述の中にも
トルコ系をにおわす描写がありますし、
他にも理由がありますので、ここでは言わないけど、
やっぱしトルコ系なんじゃないのかなあ~、と思ってます。
自信はないけど・・・。

さて、単于(ぜんう)というのは「王」という意味で、
匈奴以降、しばらく他の遊牧国家の王の名称としても用いられます。
その後、柔然(じゅうぜん=アヴァール)※が出てきて
可汗(カガン)という名称を用いるようになると、
それ以降は押しなべてカガン、カン、ハン、ハーンという名称に
取って代わられます。
単なる流行だと思いますが、
ユーロアジアの遊牧民文化の伝播を知るうえで興味深いです。
「ゼンウよりハーンの方がクールじゃね?」
ってことなんでしょうけど・・・。

※柔然はモンゴル系だと思います。
烏丸=柔然、の説もあります。
個人的には、同意してます。※
※米印の連続で申し訳ないのですけど、烏丸=柔然であってかつ
烏丸=YDNA N 系であるならば、当然、柔然= N 系となります。
この先、ハッキリとさせていく予定です。

で、冒頓単于の時に匈奴は非常に強力になり、領土を東西に大きく広げます。
紀元前 2 世紀半ばごろです。
東の東胡をまずは支配下におき、返す刀で西へ進出。
西域に大きな勢力を誇っていた月氏に圧力をかけます。
冒頓の子の老上単于も父の意思を引き継ぎ、攻撃を加えた結果、
さしもの月氏も故地を捨て、さらに西のサカ・スキタイの領土に侵入、
これを滅ぼして一旦はこの地に留まります。
一方で執拗な匈奴は隣国の烏孫(うそん)に圧力をかけ、
烏孫は否応なく月氏を攻撃した結果、
月氏はさらなる移動を余儀なくされます。
因みに烏孫は印欧系です※。

※トルコ系という説もありますが、たぶん、印欧系です。

最終的に月氏はバクトリア、すなわち
現在のウズベキスタン~アフガニスタン北部辺りに侵入し、
まわりのサカ・スキタイ系の部族と連合して、
その地に未だ存在していたギリシャ系国家、
グレコ・バクトリアを滅ぼしてしまいます。
紀元前 130 年頃です。
この地に地歩を築いた月氏は大月氏と呼ばれ、さらに発展していきます。
一方で、匈奴に追われた後も、故地の楼蘭には未だ少数の月氏が居残りますが、
これは小月氏と呼ばれるようになります。

月氏の移動.jpg
ここら辺にたくさん居たサカ・スキタイ系の連中は月氏に追われてさらに南下、
現在のパキスタンあたりに小国家を林立するようになります。
サカ・スキタイの侵入により力を失ったマウリア朝は、
マガダのシュンガ朝によって滅ぼされます。

サカ・スキタイの一部はインド西岸を南下し、
インド亜大陸のドラヴィダ系王国と争うようになりますが、
これらのサカ・スキタイ系の影響は現在でも色濃く認められるようで、
インドの多様な地域文化~言語が生まれた原因の一つとなってます。

で、バクトリアに居を構えた大月氏ですが、
その中の有力氏族の一つにクシャン(クシャーナ)というのがありました。
このクシャン家の連中はその他の月氏の有力氏族を滅ぼして統一を果たし、
その後、大月氏の勢力拡張に邁進します。
彼らは、アレキサンダー大王以来、
この地に根付いていたギリシャ系の小国家をことごとく滅ぼしただけでなく、
現在のパキスタンにあったサカ・スキタイ系の小国家群をも追っ払い、
カスピ海沿岸部からインダス川~インド洋に至る領域を占有し、
強大な国家、「クシャーナ朝」を建設することに成功します。
およそ紀元後 1 世紀くらいの時代です。
その結果、この国家は、当時、アナトリア東部からペルシャを占めていた
アルサケス朝パルティアを介することなく
カスピ海経由でローマと交易を行うことができるようになっただけでなく、
当時、西域に強い影響力を及ぼし始めていた漢との交易ルート、
すなわちシルクロードの要衝をも占めることとなった結果、
東西の交易によって大いに栄えることとなります。

その後、紀元 2 世紀ころ、
クシャーナ家からカニシカ王という名前の君主が登場し、
この国家は最盛期を迎えることとなります。

カニシカ王は矛先を東に向け、
ガンジス川に沿って侵入して行きます。
最終的には当時のマガダ王国の奥深くまで版図を広げることとなりました。

クシャナ朝.jpg紀元 2 世紀中ごろの状況。目まぐるしいです。