今月のウクライナ-48

秦の始皇帝と言えば万里の長城ですが、
皆様ご存知のように、現在の万里の長城は明の時代のものです。
センセも昔、北京に旅行した際、登りました。
めちゃくちゃ蒸し暑い真夏の旅でした。

万里の長城.jpg明の時代の万里の長城 ウイキより

で、長城までの長い坂道は車で渋滞しておりノロノロ運転状態。
で、当時の中国の車、ドイツ製が多かった。
で、ドイツ車はアウトバーンは軽快に走るのでしょうが、
どうやら低速走行は苦手のようで、
道端にはオーバーヒートになってボンネットを開けたドイツ車が
ゴロゴロしてた・・・。
長城に着くと、中国も夏休みだったのか、ヒトが蟻のごとく群れをなし、
長城の至る所でかまわず家族連れが昼飯を食べるものだから、
何と申しましょうか、
ナカナカのリアルチャイナを体験してまいりました。

で、これらの長城が遊牧民対策であったのは良く知られておりますが、
一方で、最近、これらの長城は遊牧民の侵入を防ぐ目的だけでなく、
自国の農地拡大のための「囲い込み」を目的としたものであったとか、
あるいは、国内の農民の逃亡を防ぐためであった、
とかの説も見受けられます。
確かに、匈奴と漢の関係を見ると、
互いに相手方に逃亡する例が頻繁に見られます。

前にも述べましたが、基本、遊牧民は交易がないとやっていけないので、
好むと好まざるとに関わらず、
中国歴代の王朝とは何らかの形で接触を継続する必要があります。
一方の中国側としては、農地の拡大を図る、という至上命題があります。
となりますと、黄河北辺の大地は、
中国側農民と遊牧民との間での争奪の的となります。
遊牧民は自分たちでは農耕を行わず、農耕民を軽蔑してます。
けれども冬場の家畜の餌としても農作物は必需品ですし、
絹織物などの服飾品、飾り物などの工芸品も欲しいので、
一旦両者の関係がこじれると、
中国側にさっさと侵入して家畜や穀物を略奪するだけでなく、
中国農民や工芸人を拉致し、連れ去って奴隷とし、
自分たちの土地を耕させたりしてました。
中国農民の間でも、王朝の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に耐えかねて、
「あっちの方が楽じゃワイ」とばかりに
積極的に逃亡したような例もあったようです。
匈奴側でも、仲間内でケンカして中国側に寝返る例も見られます。

結局のところ、漢と匈奴との関係は、懐柔と懲罰の繰り返し、
言葉は悪いですけど、「腐れ縁」みたいなところがあります。
匈奴優勢となると漢から女性を含む様々な贈り物が届けられますし、
漢優勢の時は軍を送って蹴散らしたり、の繰り返しです。
漢の王朝に嫌気がさして漢の将軍が匈奴王の参謀となる例も
一つ二つではありません。

ナカナカ複雑です。