今月のウクライナ-42

さて、ウクライナの地をスキタイが闊歩していた時代は、
ギリシャ文明が隆盛を極めた時代でもあります。
アケメネス朝ペルシャとの覇権争いの時代でもありました。

で、無礼極まるスキタイを追ってウクライナまで侵攻していった
ペルシャのダレイオス一世でしたが、
スキタイの「暖簾に腕押し」戦法により諦め、
サッサと戻ってきてしまいます。

その後はギリシャがペルシャを押すようになり、
アナトリア沿岸から黒海沿岸~クリミア半島からさらに内陸にまで
自分たちの植民地を開発していきました。

紀元前 336 年、マケドニアのアレクサンダー大王が即位すると、
彼は大規模にペルシアに侵攻して行きます。
これを迎え撃つペルシャの王、
ダレイオス三世との二度にわたる会戦に勝利した彼は、
瞬く間に中央アジア~インド~メソポタミア~エジプトを支配下に置き、
これまでの歴史上では最大の版図を有する一大帝国を築き上げました。

イッソスの戦い.jpgアレクサンダー大王とダレイオス三世、イッソスの戦い  ウイキより
あまりにも有名な、灰で埋もれたポンペイの壁画(モザイク画)です。


おかげで当時の最先端であったギリシャの文化が
インドを経て、遠く東アジアにまで影響を及ぼす結果をもたらしました。
ヘレニズム文化とかガンダーラ美術とか、世界史の授業で必ず耳にしますね!

ガンダーラ美術.jpgガンダーラの仏像   ウイキより
ちょっとちびっ子のお釈迦様です。


アレキサンダーはスキタイとも戦火を交え、これを打ち負かします。
ただし、ウクライナを領土に組み入れることはしなかったようです。

マケドニア王国.jpgアレクサンダー大王の最大版図 ウイキより


で、大王は大帝国を築いた後、程なくして死去。
帝国は、彼の部下らにより分割統治されることとなります。
ペルシャの地は、部下の一人であるセレウコス一世が引き継ぎ、
セレウコス朝を打ち立てますが、
程なくして中央アジアのサカ~スキタイ系の遊牧民であるパルニ族
イラン高原北東部で優勢となり、紀元前 247 年、
彼らにより、この地にアルサケス朝パルティアが打ち立てられます。

アルサケス朝は、中国の史書で言うところの「安息」のことです。

セレウコス朝は、西からはローマ帝国、東からはパルティアによって押され、
最終的に、ローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。

パルティア.jpg当時の情勢です。  ウイキより


で、長きにわたってウクライナの覇者であったスキタイですが、
このころにはドニエプル川西岸をケルト人に奪われ、
東からはサルマタイによって圧迫され、
弱体化していきます。

サルマタイもまた、スキタイやサカの一種ですが・・・。

そして紀元前 3 世紀中ばころ、サルマタイはドン川を越えてスキタイを攻め、
スキタイ王族はクリミア半島に追い払われて、
ここにスキタイの時代も終わりを告げることとなりました。

その後はしばらくの間、ウクライナはサルマタイ族の地となるのですが、
センセの世代では、サルマタイと聞けば、どうしても、
松本零士の「男おいどん」を思い出してしまいます・・・。

ググって下され!