今月のウクライナ-55

後漢の時代に匈奴が分裂し、弱体化し始めると、
モンゴル高原の地には新たな戦闘的遊牧民の連中が台頭してきました。
それが「鮮卑(せんぴ)」です。モンゴル系です。
現在の中国の内モンゴル自治区、ホロンバイル周辺が連中の故地です。

ホロンバイルと言えば、ノモンハン事件の舞台となった場所です。
ノモンハン事件と言えば、普通、
日本軍がソ連軍に一方的にやられたという通説がまかり通ってますが、
必ずしもそうではない、と思います。
もちろん日本軍は勝つことはできませんでしたが、
死傷者の数は五分五分です。
第一次と第二次に分けることができますが、
第一次ノモンハンの時には日本兵士の放つ火炎瓶が功を奏し、
相手の戦車は面白いように炎上して、その多くを破壊しました。
この時のソ連戦車はガソリンエンジンでしたので、
ジーゼルのものと比べて燃えやすかったようです。
で、燃える戦車からナカナカ戦車兵が飛び出てこない・・・。
変だ?と思って調べてみると、外からハッチに鍵が掛かっていた、
という状況にしょっちゅう出くわしたそうです。
つまり、ソ連の督戦隊が、
自国の戦車兵が逃げないように鍵をかけていた、ということです。

こういう督戦隊の話はソ連だけでなく、
中国軍、特に国民党の軍にも多くありました。
上海事変当時、上海周辺には当時のドイツ陸軍の指導の下に
数条にわたってトーチカによる防衛線が敷かれておりまして、
日本軍がこれを攻撃する時にはトーチカ内部から機銃掃射が行われますが、
これがナカナカ熾烈で、かつ勇敢。
やっと沈黙させて中に入ると、足を鎖で繋がれた少年兵であった、
と言うような話を昔によく聞いたものです。

第二次ノモンハンの時にはジーゼルエンジンの戦車が現れて
日本軍の地上部隊はボコボコにやられるわけですが、
それでも空戦においては日本軍が圧倒し、
当時の最新鋭、陸軍 97 式戦闘機がソ連のイ-15 やイ-16 を
面白いようにバタバタ撃ち落としたお話は有名です。
ホロンバイルはひたすらなだらかな草原ですので、
その後の太平洋での空戦とは異なり、
被弾しても地面に着陸し、
これを助けんと味方の戦闘機も着陸して負傷した仲間を乗せ、
再び飛び立って基地に戻った、という逸話も数多くあります。
落としても落としても数を補充してくるソ連に対して、
結局は完全に制空権を確保できず、
これもまた一つの要因となって勝てなかった、ということなのでしょう・・・。

97式.jpg陸軍 中島 キ27  97式戦闘機  ウイキより
ホロンバイルの荒鷲です。


イ 15.jpg対するソ連製 イ-15 複葉機  ウイキより


イ16.jpgイ-15 の後継機、イ-16  ウイキより
その姿形(すがたかたち)から、日本軍からは「アブ」と呼ばれてました。


関東軍はこの後、
ソ満国境に強力な陣地を作るなどして防御の増強に努めるのですけど、
英米と戦争し始めたものだから、結局は全て失い、
今では知床や稚内の目と鼻の先で軍事演習をやらかされる始末・・・。

やれやれ・・・。

というか、肝心の鮮卑はどうなった~~~!!!