日々のお話: 2021年7月アーカイブ

今月の書評-124

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で、崇神天皇、まつりごとを始めて程なく、民の間に大疫病が広がり、クニの人口が半減!それだけでなく、人口流亡に加えて造反も生じ、大混乱となってしまいます。以下、原文。

五年に国内に疾疫(えのやまい)多くして、民(おおみたから)死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。六年に百姓(おおみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背反(そむ)くもの有り。その勢い、徳(うつくしび)を以て治(おさめ)むこと難(かた)し。

で、天皇、朝から晩まで一所懸命に神様にお祈りするだけでなく、「天照大神さまと大国主命(=大物主神。別とする説も当時からあり〼)さまがお怒りになっておられるからこんなにも国が乱れるのだ」と考えた。これまで天皇は両神を自身の寝殿内に祀っていたが、両神と共に起居するのが怖くなり、別の場所に分祀することとした。で、天照大神に関しては、娘の豊鍬入姫命(とよすきいり ひめのみこと)、略して「トヨちゃん」、を担当に任命した。大国主命に対しては別の方を担当させたが、その方、体が衰弱して仕事にならず。

このように色々手を尽くすのだけれども、国の乱れは一向に収まる気配がない。

で、天皇は考えた。以下、原文。

「恐らくは朝(みかど)に善政(よきまつりごと)無くして、咎(とが)を神祇(あまつかみくにつかみ)に取らむや。なにぞ命神亀(うら)へて災いを致す所由(ことのよし)を極めざらむ」

意味。「たぶん、自分の政治が悪いので、国がこうまで乱れるのであろう。これは一つ占いをして、その原因を探ってみよう」というカンジ。

で、ここの「咎(とが)を神祇(あまつかみくにつかみ)に取らむや」という文章ですが、神祇という言葉は「じんぎ」と読み、「あまつかみくにつかみ」という意味です。当然これは「天つ神」と「国つ神」を意味し、いわゆる「八百万(やおよろず)の神」と同義です。

で、日本書紀~古事記を読んでいてすぐに気づくことの一つに、これらの「神」さまは、キリスト教やイスラム教で言うところのGOD やアッラーなどとは大きく性質の異なるもので、非常にしばしば単に「偉いヒト」を意味します。

要するに、半島由来の偉いヒトが「天つ神」であり、土着の偉いヒトが「国つ神」なのです!従いまして、いわゆる八百万の神というのは、広い範囲から集まってきた豪族連中を意味するのです!

ですので、上記の「咎(とが)を神祇(あまつかみくにつかみ)に取らむや」とい個所を「国がこうまで乱れるのであろう」と訳すのは良きかな!と思います。





今月の書評-123

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何だかんだ言ってるうちにコロナも第五派に突入したと思う間もなくオリンピックが始まったら女子ソフトの連中がいきなり手に汗握る好試合で二連勝!!!

これで一気にしらけ鳥も南の空へ飛んでいってくれるでしょうか?



さて、卑弥呼さんを倭迹迹日百襲姫命(やまと ととび ももそ ひめのみこと)に比定する説は、戦前の笠井新也氏に始まります。

で、はっきし言って、この説を知らずに日本書紀を読んでも、このお方が卑弥呼であるとは全く分からないと思います。センセもそうでした。最初にすらっと1回読んで、ナンカ、山の神様が夜這いしたけど夜で顔が分からない、でもあそこが小さなヘビみたいにちっちゃくってカワイかった、それを話したら、神様、恥ずかしくなって山に引きこもってしまった、みたいなカンジの話だけが印象に残ってた。ちょっと間違ってるかもしれないけど・・・。

で、ではそうなのかな?と思って読んでみると、なるほど!これは!というカンジ。以下。

倭迹迹日百襲姫命(やまと ととび ももそ ひめのみこと)、略して「ととびちゃん」としますが、ととびちゃんは日本書紀の崇神(すじん)天皇のところに出てきます。神武(じんむ)天皇のじんむとか崇神天皇のすじんとかは後代に付けられた中国風の名前、いわゆるおくり名(諡)ですが、便利なので、基本、こちらを使用していきます。

因みに崇神天皇の本来の名前は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑのすめらみこと)です。舌かみそうですね!

で、ととびちゃんは崇神天皇の先々代の孝霊(こうれい)天皇の娘として生まれ、崇神天皇のおばさんにあたります。

因みに、崇神天皇の娘には豊鍬入姫命(とよすきいり ひめのみこと)が居ます。後に出てきますので、覚えておいてください。

現在の奈良県にヤマト政権の根拠地を作ったのが神武天皇で、橿原宮(かしはらのみや)にて即位されたわけですが、崇神天皇のときには磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に都を移されました。前者は現在の奈良県橿原市、後者は桜井市にあたりますが、隣同士のご近所です。

以上が予備知識です。




今月の書評-122

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あまりにも簡単すぎて拍子抜けしてしまうくらいですが、取り合えず、以下に理由を書いていきます。まずは、考古学的観点から。

近年の纏向周辺の発掘調査の結果から、紀元2 世紀末から4 世紀にかけて、この地が当時の列島においては稀に見る大規模都市の様相を呈していたことが分かりつつあります。発掘の規模は未だ数%程度に過ぎませんが、それでも以下の事が明らかとなってまいりました。

● 竪穴式住居跡がほとんど見られず、高床式の住居跡が多く見つかる。
● 大規模な二本の水路跡が見つかった。この水路は大和川に結びつくことから、最終的に瀬戸内海に至り、国内のみならず、海外との交易も可能な、当時としては大規模な、人工の水上交通路であった可能性がある。
● 大量の土器が出土したが、地元のみならず、列島各地から持ち込まれた土器の割合が高い。特に、伊勢~尾張などの東方からのものが目立つ。
● 大規模な祭殿跡が見つかり、しかも、何らかの宗教的な思想の元に、計画的に作られた可能性が指摘される。
● 集落全体を囲むような環濠は認められず、開かれた「都市」であった可能性が指摘される。
● その規模は、この当時の列島において唯一無二である。

以上から、この地に紀元2 世紀末~4 世紀頃に存在した大集落は、ある種の政治的意図のもとに人工的に作られたものであり、都市と呼んでも過言ではない大規模なものであった、また、広く東西からヒトが集まり、海外との交易も行われ、市が開かれ、宗教的色彩を色濃く帯びた政治がなされていた、などということが想像されます。

で、その時代とは、魏志倭人伝によれば、まさに、卑弥呼さんが「女王」として君臨していた時代を包含するのです!


纏向遺跡-2.jpg
纏向遺跡の絵。奈良県桜井市のHPより。
http://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/soumu/zeimuka/sakurai_furusato/jigyou.html

魏志倭人伝の7万戸の記載から想像すると、もっと規模が大きかったと思います。
控え目に描かれている気がしますが・・・。

次回は、日本書紀と魏志倭人伝の記載を逐一比較してみたいと思います。



今月の書評-121

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長野の梅雨が明けました。
で、いきなりピーカン36℃・・・。

先日、ボクチンも、一回目のワクチンを受けました。
で、翌日は左三角筋の筋肉痛で腕が上がらない・・・。

腕があがらないといえば、先日のゴルフ。玉が全く捕まらない。
で、ショボ玉を怖がるあまり、右肩が突っ込んでチーピンのオンパレード・・・。
全米オープンの笹生優花のスイングに魅了され、スイング改造に取り組んだ結果、この始末・・・。

ああ~っ、ゴルフって、ホント、難しい・・・。

で、今日も午後から36℃の炎天下、討ち死に覚悟でゴルフの練習に行ってまいります!



さて、投馬国=出雲と決定したからには、自動的に、邪馬台国=近畿の大和地方となります。この場合、帯方郡の使者らは、日本海側を伝って奈良盆地の内陸側へ向かったこととなります。

で、次の問題は「奈良盆地のどこに当時のヤマト国があったのか?」ということですが、これももはや決まったも同然です。

纏向遺跡(まきむくいせき)を中心とした一帯です。オシマイ。

じゃ、卑弥呼さんは誰?

記紀で言うところの倭迹迹日百襲姫命(やまと ととび ももそ ひめのみこと)です。オシマイ。

では卑弥呼さんの墓は?

箸墓(はしはか)です。オシマイ。

簡単でしたね!

箸墓古墳.jpg
箸墓古墳の遠景 ウイキペディアより