日々のお話: 2020年8月アーカイブ

今月の書評-99

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「倭」の生業は「半農半漁」であり、「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた?

これまでの議論から、倭人と漁労とが強く結びついているのは明らかです。
で、古墳時代から大和政権あたりに登場する一群の人々の中に、「安曇氏(あずみし、あずみうじ)」というのがおります。古事記などでは阿曇氏と書かれています。長野県の安曇野の地名の元となった人々です。

この安曇氏の由来ですが、漁労に携わっていた連中の大将みたいな人々であったと考えられ、「あずみ」の言葉のそもそもは「あまつみ」、あるいは「あまみ」であると思われます。

「あまつみ」の意味にはいくつかの解釈があるようですが、個人的には「あま」は「海」あるいは「天」を意味し、「み」は「民」を意味し、「つ」は「の」に相当する言葉、すなわち「海の民」を意味する言葉だと思います。「わだつみ~わたつみ」は兄弟語です。

これに関連する言葉は日本列島には数多くあり、天草、奄美島、沖縄の「あまみきよ」伝説などがすぐに連想されます。伊豆半島の熱海も関連語です(後の時代に付けられた「漢字」に惑わされてはいけませぬ)。
多くは島や海岸部の名前ですが、安曇野などのように、北アルプスの麓にも残っています。安曇氏の影響力が科野(しなの)に及んだ結果です。

この、倭人の中の大きなパーツを構成していた「海の民」ですが、後に沖縄のお話をする際にも重要となる人々です。


さて、半農半漁の半魚人が「あまみ」であったとすれば、半農人はナント呼ばれていたのか?

ここからはセンセの妄想の嵐が吹き荒れます。


日本人の起源を言語学的観点から探る方々の一人に、以前にも紹介した金平譲司氏が居られます。氏のブログ、「日本語の意外な歴史」は相当に専門性が強いのでセンセなんぞはナカナカついて行けないのですが、氏の話の中で非常に興味深い点の一つが、「我々が普段日本語そのものであると思っている言葉の中には古代の他の言語に由来する可能性があるものが少なからず存在する」ことを明らかにしつつあるところです。これはカタカナ言葉や「漢字熟語」などの明らかな外来語を指しているのではなく、例えば「水(みず)」など、いわゆる「訓読み」の、日常的に普通に「日本語そのもの」と考えながら使っている言葉の中にも古代の他の民族の言語から転嫁した可能性があるものが多い、ということなのです。

要するに、「訓読みだから日本本来の言葉である」とは限らない、ということです。最も分かりやすい例としては、多くのヒトがすでにご存じだと思いますけど、「馬」などが挙げられます。訓読みが「うま」、音読みが「ば」、あるいは「ま」ですので、別種の言葉のように思われますが、元は同じです。


で、この伝で、センセも一つ、倭人における半農人がなんと呼ばれていたか、考えてみました。

で、結論。それは、「たみ」です!以下、狂瀾怒濤の妄察です。

「たみ」の「た」は「田」。音読みは「でん:den」。訓読みは「た:ta」。「d」と「t」はお友達。倭人はそもそも大陸で稲作を行っていた。従って、「た」は移入された言葉ではなく、「た」と「でん」は同源だ!

「たみ」の「み」は「民」。「み:mi」と「みん:min」はとっても近いお友達。

従いまして、倭人は「田民:たんみん」と「海民:あんみん」とで構成されていた。その後、「たんみん」の重要性が「あんみん」を凌駕していったので、一般民衆のことを「たんみん → たみ」と呼ぶようになった。「海民」は「あんみん → あまみん → あまみ」と変化。因みに、「あま=うみ」で、同源です。

さらに、「民衆」のことを古語で「たみくさ」というが、これは「たくさんのたんみん」のこと。同様に「あまくさ」は「たくさんのあんみん」のことを意味する。

入り組んだ「天草」の地は、今も昔も多くの漁労関係者が暮らすところである。


どうです!目からマナコでしょう!!! ← HD





今月の書評-98

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さて、紀元前後の中国の史書の中ですでに「倭人~倭国」という独立した名称が冠されていた一群の人々ですが、その理由が「この時代にはすでに列島の少なくとも西半分を版図に収めていた」ためであることは明白です。要するに、この時代において、すでに「倭国」は、少なくとも当時の半島南部の列国にとって、無視しえない「強国」となっていたことを意味します。

では、紀元前1000 年頃に北九州に水田稲作をもたらした人々は当初から「倭人」だったのか、あるいは倭人はその後に列島に入植して勢力を伸ばした連中なのか、あるいは色々な移住者が居たが、入植後、時間を経るうちに列島において混ざり合って「倭人」となったのか?

個人的には、「倭人は当初から倭人であった。その後に色々混ざるが、列島においては倭人文化が首尾一貫して優越~拡散し、その後の古墳時代へと移行していった」と考えています。さらに言うならば、北部九州~半島南部に水田稲作の技術を伝えたのも倭人そのものだ、と考えています。

以降、その理由を述べていきます。例よって、妄想です。
まずは大雑把に、あらすじを述べます。


入れ墨の風習その他の記述や人類学的証拠などから、倭人はそもそも「呉」の勢力圏であった江蘇省沿岸部に小国を形成していた部族であったと考えられ、その生業は「半農半漁」であったと思われる。
「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた。
呉の滅亡よりもはるか以前に、少なくとも一部が、半島南部に移住する。直接日本列島ではなく、まずは朝鮮半島に移住した最大の理由は、先行する東夷の部族により「海を横切れば、そこには移住できる場所がある」ことがすでに明らかとなっていたからである。
地理学的にも明らかなように、朝鮮半島は北部と南部では気候風土が大きく異なる。半島中北部は大陸的な冷涼乾燥地帯である一方で、南岸部は対馬海流の影響で温暖湿潤な気候である。また、海岸部はいわゆるリアス式海岸であるため、海士漁を含む漁猟にはうってつけの場所である。
これまでの議論から、陸稲は山東半島から伝播したかもしれないが、水稲は半島南岸部より北上したと考えられる。
水稲の半島北上開始時期と列島への伝播時期とには大きな隔たりはない。
むしろ列島伝播の方が古い可能性がある。
水田稲作は、単に「稲モミを持ってくればよい」というものではない。すなわち、当時の最新技術を有する一群の専門集団が断固たる決意をもって移住することが必要である。このことを考えると、いきなり北九州の地に呉の沿岸地域から移住することは考えられない。まずは半島南岸部に居を構え、拠点を確保した後に、対馬~壱岐~北九州へと向かったと考えられる。この時、半島南部に居住していた縄文人が大きな役割を果たした可能性がある。
付帯する土器などの要素からも、大陸から直接伝播したのではなく、半島南部に、一定程度の期間、居を構えた後に伝播した可能性が高い。
半島南岸部、特に半島東南部から北九州の地が、これ以降、分かちがたく一つの文化圏を形成する点こそが、当初から「倭人」が列島に関わってきたことを強く示唆するものである。

次回、各々に関して、より詳しく突っ込んでいきたいと思います。




今月の書評-97

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さしもの長雨もようやく明け、待ちに待ったお盆休みを迎えた日本列島ですが、例年とは大きく趣が異なる夏の日々です。

相変わらずのコロナではありますが、これに加え、昨年~一昨年に体験した、あの猛烈な暑さが、少なくとも梅雨明け後の長野では、今年は幾分薄らいでいるようです。
今後に猛暑となるのかもしれませんが、今のところは涼しくて助かります。
けれども、残念ながら、昨年~一昨年に体験したあの強烈な熱波と紫外線で一気にコロナがコロナっと死滅しますように!とのセンセの願いは、雲散霧消の態であります・・・。

さて、前回、すでに紀元前後には「韓人」と「倭人」とは別種であるとの認識がもたれていた、というお話をしました。
また、「今月の書評-86」で示した王充(おうじゅう)の「論衡(ろんこう)」中に、「周の成王の頃(紀元前1055-1021 年)、越の国と倭の国から使節がやってきて、越はキジを、倭は暢草(ちょうそう)を献じた」という記載があることも指摘しました。

論衡が書かれたのは紀元1 世紀内ですので、周の成王の頃に「倭」が「倭」と呼ばれていたのかどうかは実は不明ですが、紀元前後に「倭」と認識されていた人々が紀元前1000 年頃にも同一のアイデンティティーを有して存在していたことは認識されていた、と見なして然るべきだと思います。難しい物言いだけど・・・。分かる?

また、「今月の書評-94」で紹介した鳥越憲三郎氏の著作、「古代朝鮮と倭族」の中には、春秋時代、江蘇省から山東省にかけて東夷による多くの小国が存在していた事実が書かれていることを紹介しました。残念ながら「倭国」の名前はその中にはありませんが、論衡の記載からも明らかなように、「倭」と認識される一群の人々が小国を形成し、より大きな「呉」の勢力圏に収まっていたのは、その他の文献的証拠からも、相当に確実視されると思います。

あの有名な魏志倭人伝(西暦280~300 年)には「倭人の男子は、老若貴賤を問わず、顔~体に入れ墨をしていた」と記されてますが、老荘思想で有名な荘子(そうし)が書いた荘子内篇第一逍遙遊篇(紀元前369 年頃 - 紀元前286 年頃)には、「海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化がある」との記載があるそうです。
さらには近年の発掘調査の結果から、往年の「呉」の版図から出土した当時の人骨からは縄文人とは異なる形式の「抜歯」が施された人骨が多く見つかるとのことで、これらの抜歯の形式は弥生人人骨に見られるそれとほぼ完全に一致する、とのことです(日本人の起源:中橋孝博)。
「三国志」や「後漢書」の東夷伝には当時の朝鮮半島南部における各部族の様子が描かれていますが、倭人が半島南部に数多く居住していた事実と共に、彼らの特徴の一つとして、しばしば入れ墨が特筆特記されています。

で、これらの中国の史書によって描かれた紀元前後は馬韓、弁韓、辰韓による三韓時代であり、各々が数多くの小国で成り立ち、さらにこれらの三国では風俗、習慣、言語もまた異なることを記していることから、「韓」という共通項でくくられる「民族的まとまり」が当時の半島南部に存在した、と考えるのは無理があると思います。

おそらく、「韓」というのは、当時の帯方郡やら楽浪郡やらの中国王朝の出先機関の役人が半島郡南の地を指して名づけた「地名」である、と個人的には考えています。で、「韓人」の中には箕子朝鮮以前に住んでいた満州由来の連中も居たであろうし沿海州あたりが由来のツングース色の強い連中も居た、山東半島や徐州あたりから流れてきた東夷の連中も居たであろうし呉や越の滅亡後には長江下流域から半島南西部に向かって流れてきた連中も居た、と考えるのが自然です。

これらの住民が異口同音に「俺たちゃみい~んな韓なのさ!友達なのさ!」などと唱えるほどのココロ優しい連中であったとは、とてもじゃないが思えまへん!

彼らを一緒くたに「韓人」という「民族的名称」でくくってしまうのは誤解を招くものである、と思います。民族的に捉えても、せいぜい、扶余や後の高句麗に代表される北方系の民族、あるいは特筆特記された南方系の倭人、に対峙する概念、と捉える方がよかろうと思います。


それではなぜ「韓」なのか?という疑問ですが、これは分かりませぬ。


戦国の七雄の一つに「韓」がありますが、関係があるようには思われませぬ。
一方、当時の楽浪郡の中国系住民の多くが「王」と「韓」の姓を有していた、という話がウイキに載ってます。

従いまして、ことによると、「韓」姓を持つ人々が郡南の地に移住したために当時の役人がこの地を「韓」と呼ぶようになった、という推測も成り立ちます。
結構ありがちな話かな?とも思いますが・・・。

さて・・・。