日々のお話: 2020年4月アーカイブ

今月の書評-88

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倭人がもともとは長江下流域に住んでいた連中であったことのもう一つの典拠として、唐の時代に書かれた「晋書」や「梁書」があげられます。これらには、「倭人が言うには、自分たちの祖は太伯(たいはく)である、とのことである」との記載があるそうです。太伯は周の文王の伯父にあたり、春秋時代の江南の覇者の一つである「呉」の国を興した人物であるとみなされています。以下、ウイキから引用。

周の文王の祖父にあたる古公亶父(ここうたんぽ)には長子・太伯、次子・虞仲(ぐちゅう)、末子・季歴(きれき:文王のお父さん)がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥(えんぎの良い兆候)があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮(けいばん)の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。

とのことです。
いくつか面白いことが読み取れると思います。
ここで書かれている荊蛮の人々とは野蛮人の意味ですが、これらの人々を統治したのは中央からやってきた「異民族の貴種の系譜に属する人々」であり、また、荊蛮の人々も、少なくとも良い統治が行われる限りにおいて、進んで支配下に組み込まれていった可能性が見て取れるところです。
「自分たちの祖は太伯である」という文言から、「倭人の先祖は周の支配層である」と勘違いしてはいけません。ここで言うところの「荊蛮の人々」に含まれる様々な部族の一つが倭族であった、ということでしょう。
また、わざわざ「自分たちの祖は太伯である」と言っているところをみると、自分たちが当時の大国の一つである呉に属していたことに対して強い誇りを持っていたことも明らかです。

従いまして、以上から、先の論衡(ろんこう)において倭人が越人と共に周に朝貢していたことが書かれている事実とも併せ、倭人の故郷は春秋時代の呉国の領域内にあったという可能性は相当程度に高いと考えます。
倭人は、呉の版図の中でも、専ら沿岸部に居住していた連中だと思われます。
また、以前にも述べましたが、呉国が滅びるのが紀元前473 年ですから、呉の滅亡と水稲の伝播とは無関係であるのは明らかです。


呉の最大版図-2.jpg
呉王夫差の頃の呉国最大版図:世界の歴史マップより改変


今月の書評-87

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帝都のみならず、とうとう全土に戒厳令が敷かれてしまいました!
なにやら市ヶ谷界隈がきな臭くなってきた模様です・・・。 ← って、嘘ですからねっ!くれぐれも拡散しないように!!!


さて、コロナとは無縁の倭人ですが、まずは倭(わ)の名前の由来について考えてみたいと思います。

あ、でも、長江流域にしばしば定期的に発生する感染症と、これに対応する何らかの遺伝子型との関連に関して、そのうちいつか述べる可能性があります。
倭人を特徴づける要因の一つになるかもしれません。
中国武漢は長江中流域の大都市ですが、コウモリであるのかセンザンコウであるのかはたまた某国政府による実験の失宜によるものであるのかは置いといて、拡大先の欧州や米国の方が被害が圧倒しているのは皆様もご承知のところです。
BCG の接種の有無、過去における結核の蔓延などによる影響の可能性も当然ありますが、ことによると、東アジア人種と欧米人との間に、今回の感染症に対する抵抗力に関して、何らかの遺伝的違いがある可能性も考えられます。
特に米国などは当初日本のクルーズ船への対応などを小馬鹿にしていましたが、いまや死者数だけに限ってみても日本の数百倍にのぼっています。

数百倍ですよ、数百倍!!!

人口差を考慮に入れても、単なる公衆衛生上の差によるものだけではないように思えます。

中国政府が発表した数字はそのまま鵜呑みに出来るものではありませんが、大陸に隣接し、感染時期も早かった韓国、日本、台湾、香港、シンガポールの死亡率が軒並み低いところをみると、少なくとも一段落した時点において、上記の可能性について調査研究を行う価値は十分にあると思います。たぶん、遺伝学者さんたち、今からやる気満々だと思いますけど・・・。


さて、倭(わ)の名前の由来です。
諸説あります。
以下。

1)矮小(わいしょう)説:倭の字が矮小の矮(わい)に似ている。
日本人は小さい。
だから倭人。
2)おとなしいヒト説:倭の字の「ツクリ」は委員長の委(い)。
意味はゆだねる
「ヘン」はヒトを意味する人偏(にんべん)。
すなわち、「ゆだね従い、柔順かつ慎み深いヒト」を意味する。
日本人は大人しい。
だから倭人。
3)自らの呼称説:倭人は自らを「わ」と呼んでいた。
だから倭人。


その他にもいくつかあるようですが、大体こんなところが代表的です。

で、1)の矮小説ですが、これは完璧に間違ってます。なぜならば、当時の倭人、ちっちゃくなかったからです!
縄文人と弥生人の人骨を比べてみると、頭蓋~顔面~骨格その他、色々に異なる点が多々ありますが、その中の一つに「身長」があります。
弥生人>縄文人です。
弥生人骨で興味深い点の一つは、初期のものであればあるほど身長が高い点にあります。これが時代が下るにつれて徐々に低下していき、江戸時代末期で最低となりますが、その後、先の大戦後に欧米の食文化を取り入れることによって再び伸びだし、4~5 人兄弟で長男長女が戦前生まれの家族の場合には(中山家がそうです)、絵で描いたように長男長女 →次男次女→ 末っ子の順で身長が高くなるのが普通です。

2)のおとなしいヒト説ですが、これが間違っていることは歴史が完璧に証明してくれてます。

で、センセの一押しが、3)の「自らの呼称説」です。

第一人称としての「あ」、「わ」、「あし」、「わし」、「あっし」、「わっし」、「わっち」、「わたし」、「あたし」っていうような連想はすぐに浮かびますし、「あれ」、「われ」、「なれ」、「かれ」、「たれ」なども連想されます。
また、矮小に秘められた侮蔑的なニュアンスを嫌ったのであれば、大和政府はそもそも当初から「倭」とは名乗らないはずです。その後に中国から漢字を教えてもらい、色々と勉強しているうちに「矮小」の文字を見つけ、「これは倭の文字に似ているから嫌だなあ・・。」と感じたのでまずは字を変えて「和」にした、その後にもっとカッチョいい「日本」にした、というのが正解だと思います。



最初に倭人と遭遇した周の役人、「おまえは誰だ?」と聞くと、倭人は人差し指で自分の鼻の頭を指して曰く、「わ、だよ。わ!」と言った。役人、「そうか、おまえはか!わかった。ではお前たちは倭人ということに・・・。」と言ったとか言わなかったとか・・・。

昔にオレオレ詐欺があったなら、当時は「ワワワワ詐欺」と呼ばれていたかもしれません wwwwww。





今月の書評-86

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いわゆる倭人に関してはウイキを始めとして色々な所で書かれていますので、とりあえずはこれらをまとめる作業となるかと思います。もちろん、所々にセンセの妄想を織り込んでいきますけど・・・。

中国後漢時代の思想家である王充(おうじゅう:西暦25 年~1 世紀くらい)が表した大著、論衡(ろんこう)中に書かれた一文が、最も古い倭人の行為に関して書かれた記録となります。そこには、「周の成王時、天下太平にして、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢ず」と記載されているそうです。意味は、
「周の成王の頃(紀元前1055-1021 年)、越の国と倭の国から使節がやってきて、越はキジを、倭は暢草(ちょうそう)を献じた」ということです。

暢草が何を意味するのか不明ですが、霊芝(れいし)あるいはウコンという説があります。要するに、「不老長寿の薬草」というニュアンスです。

いずれにせよ重要なのは年代で、紀元前1000 年頃ということですし、加えて「」と並んで記載されていることから、これは倭の使いは北九州からわざわざ大陸まで来たのではなく、長江下流域から、隣人の越人と共に、当時の周の都である豊京(長安)に来たというのは確実です。

王充が書いた論衡という書物は全30巻85篇にのぼる大著で、その内容は自然哲学、天文、人間論、歴史、思想などなど多彩であり、また、ウイキによれば、非合理的な思想は迷信論として徹底的に批判していたそうなので、相当に信頼できる書物なのではなかろうか?と考えます。

仮に論衡の記述が正しいとすれば、紀元前1000 年ころに長江下流域に倭人の国が存在していた可能性が生じると同時に、ことによると、朝鮮半島~北九州に水田稲作技法をもたらしたのは倭人そのものなのではないのか?という説も、大いに信憑性を増すこととなります。




今月の書評-85

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ブラタモリ、新人アナウンサーの浅野里香さんですが、いきなり

タモリ 「柿食えば・・・。」
浅野さん 「鐘が鳴るよ法隆寺・・・。」

とやってくれましたので、いっぺんでファンになりました www!



さて、未だ拡大に歯止めがかからないコロナですが、志村けんさんの件に関しては、さすがにセンセもショックを受けました。

コロナとは関係ありませんが、その後には「昭和40 年代:時代と音楽-19」でご紹介したアメリカのソウル歌手、ビル・ウイザースが死んでしまいました。Ain't No Sunshineの他にも数多くのヒット曲がありますが、センセが特に好きなのが 80 年のグローヴァー・ワシントン・ジュニアとの名曲、「Just the Two of Us」です。センセは当時25 歳。吉祥寺は井の頭公園の近くの下宿に住みながらも将来へのヴィジョンを未だ描けず、ひたすらもがきながらバイト暮らしに明け暮れていた、ま、いわば「良く居る若者」の一人ではありました。バイト先から戻って四畳半の下宿で「Just the Two of Us」のレコードを聴いていたあの当時の「心のありよう」を還暦もとうに過ぎた今現在から振り返ると「俺にもそんな時代があったのだ・・・。」という想いが生じますが、恐らくは、多くの方々もそれぞれの時代の中でそれぞれの想いを持ち、共感されることも多かろう、と思います。

昨日は映画監督の大林宣彦氏が亡くなられました。

いずれの方々にも、謹んでお悔やみ申し上げます。





さて、北九州に水稲を持ち込んだ連中ですが、一旦ここでこれまでの流れをまとめてみたいと思います。以下。

朝鮮半島~東アジア~日本-1-2.jpg
今から5~6000 年くらい前の状況。朝鮮半島南岸には縄文人が漁猟に勤しんでいた。半島は、たぶん、C2 の狩猟採集民が、広く~薄く、住んでいた。


朝鮮半島~東アジア~日本-2-2.jpg
今からおよそ4000 年くらい前、寒冷化に伴って、民族移動が生じた。
遼河文明を築いたN 系の連中はC2O2 の圧力に抗しきれず、拡散。一部は山東半島へ。
ツングース系のC2 と満州系のC2 が半島を南下。多くの小国を形成する。
O2O1b2 が幅広く混交する。
O1b1 はさらに南方へ駆逐される。


朝鮮半島~東アジア~日本-3-2.jpg
民族分布は大体こんなカンジとなる。
朝鮮半島は、まずはC2 が優勢となる点に注目!(証明されてないけど)


朝鮮半島~東アジア~日本-4-2.jpg
今からおよそ3600 年くらい前から3200 年くらい前にかけて、商との確執に嫌気した東夷の連中が半島に移住。
山東半島から渡った一派は陸稲を、より南の長江下流域から渡った連中は水稲を持参した。
南から渡った連中は、より水田稲作に適した土地を求めて半島南岸を伝っていき、南東岸で縄文人と出会う!これが大体3000~3100 年くらい前。


朝鮮半島~東アジア~日本-5-2.jpg
半島南岸で漁労に従事していた縄文人は、対馬~壱岐~北九州ルートを教えてあげた。すなわちこの時点において、半島南岸部にC2 + O1b2/O2 + 縄文系ハイブリッド地域が生まれた。


朝鮮半島~東アジア~日本-6-2.jpg
一旦列島に新たな文化が根付き、大陸からの直接的なルートも確立すれば、その後は半島を経由せずとも色々なものが流入したであろう!



というカンジ。
そろそろ倭人が登場するか?!・・・な?