日々のお話: 2020年3月アーカイブ
4) の、「長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた」説は農学者の佐藤洋一郎氏に多くを依拠するもので、以下、簡単にまとめます。
1) 水稲の温帯ジャポニカ種の遺伝子分析を行った結果、中国にはa からh までの8 種類の遺伝子型が存在する。一方、朝鮮にはb の遺伝子型が存在せず、日本にはa とb が存在する。仮に朝鮮半島から日本に伝わったとすると、日本にはb の型は存在しないはずである。
2) 朝鮮~日本共に中国から養蚕(ようさん)が伝わったが、朝鮮のカイコは華北由来の種しか存在しない一方で、日本のカイコには華北由来のものと華中~華南由来のものの二種類が存在する。
3) 鵜飼(うかい)の風習は長江流域由来であり、中国南部と日本には現存するが、朝鮮半島~台湾~沖縄にはない。
以上、長江下流域より朝鮮半島を経ずに日本列島に伝わった農事がいくつか存在することが明らかなので、水田稲作技術も同様に半島を経ずして列島に直接伝わった可能性が高い!とするものです。
で、この問題に関してはすでに多くの人々が取り上げて、ああでもないこうでもないとネット上でもかまびすしく議論されてますが、そんなに難しい問題でもなかろうと思います。
上記の一連の事実は事実であろうと思います。問題は、何も「米の a~b とカイコと鵜飼が一度に来なくてもよかろう!」ということです。
前回、菜畑遺跡や板付遺跡、あるいは長崎の支石墓群の年代の古さを見る限りにおいて、朝鮮半島南岸に橋頭保を築いた連中は、半島を北上するよりもむしろ対馬~壱岐を経て北九州に向かう方を選んだのでは?と述べました。そしてその理由として、朝鮮半島よりもよっぽど水田稲作に向いている気候に気づいたからでは?と指摘しました。
で、一旦、日本列島にも橋頭保を確保し、生活の基盤が確保され、ある程度の安全も確保できるようになれば、その後は半島を経由せずに直接に長江下流域からの往来も確保できるようになったのでは?と考えます。
「今月の書評-67」で指摘したように、水田稲作技術が伝播するためには、それに特化した技術家集団が少なくとも 1 年程度の食料を保持して断固たる決意で移住する必要がありますので、これはボートピープルレベルでは務まらない所業だと思います。
例の「徐福伝説」でも繰り出してこない限り、長江下流からピンポイントで北九州沿岸に米とカイコと鵜飼の三セットを同時に持ち込むのは、センセの妄想レベルすら遥かに超えるものだと思いますが・・・。
加えて、列島に伝わったこれらの農事がその後に半島に伝播しなかった理由を考えるのも、謎を解くカギとして、逆に興味深いのでは?とも思います。
岐阜市漫遊より https://www.gifucvb.or.jp/sp/ukai/ 美しい写真ですね!
本日は季節外れの大雪。
南からの湿った雪ですが、未だ(午前10:30)深々と降り続いていますので、下手すると30 cm くらいまで積もりそうなカンジです。
でも、これでみんな外出を控えると思うので、コロナの拡散を防ぐ意味では、ことによると、恵の雪となるかもしれませぬ。
神風ならぬ神雪となるかも・・・。
さて、「稲の来た道」をもう一度おさらいします。以下。
1) 大陸を陸伝いに一旦満州方面へと伝わり、そこから朝鮮半島を南下した。
2) 山東半島から直接に黄海を渡り、まずは朝鮮半島中西部、その後に南部へと伝わった後に日本に伝わった。
3) 山東半島から長江下流域にわたる地域のどこかの沿岸から、黄海を渡り、朝鮮半島南部~北九州にほぼ同時に伝わった。
4) 長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた。
「今月の書評-67」で述べたように、1)を省いてまずは2)と3)の可能性を比較し、最後に4)の可能性について考えたいと思います。
2)の「山東半島からの南下説」にはいくつかの弱点があると思います。以下、例によって箇条書き。
1) 水田稲作技術が当時の山東半島にまで到達していたのは事実だが、基本的に山東半島は乾燥しており、現代においても農作の主体は畑作である。いわんや「乾燥化により民族の移動が生じた」と考えられる当時において、わざわざ乾燥地を通過して水田稲作が伝播するのは不自然である。
2) 支石墓の形式などからも明らかなように、山東半島はむしろ北方の文化の影響をより強く受けているように思われる。
3) 水田稲作文化が山東半島から朝鮮半島を南下したのであれば北から南への水田稲作遺跡が時系列的に見られるはずであるが、事実は逆である。
4) 松菊里遺跡(しょうきくりいせき)などから出土した多くの炭化米は、年代もさることながら、陸稲の可能性が高い。
5) 石包丁などの形式から長江~山東省~朝鮮半島~半島南部の経路が指摘されるが、石包丁は水稲の穂のみを刈るものではない。
6) 以前に唱えられていた「長江下流域から直接半島南部~北九州に稲作が伝わったのであれば、当時すでに長江流域で使われていた青銅製の農具が同時に伝わったはずである。それが出土しないのは直接伝播ではないからである」という説は、紀元前1000 年の菜畠遺跡の発掘により、論破された。
これまでに出土した朝鮮半島の水田稲作跡を時系列的に羅列すると、
オクキョン遺跡(BC1100)
↓
ムアラファト遺跡 (BC800)
↓
マジョルリ遺跡(BC500)
となります。地図で見ると、
ウイキペディアより改変
オクキョン遺跡とムアラファト遺跡は半島東南の蔚山市にあります。
一応、時系列的には南→北の方向性が見られますが、如何せん出土例が少なすぎるので、決定的とは言えません。特に、長江下流域から来たとすれば、当然、南西部の全羅道辺りから最古のものが出て欲しいところですが、未だ出土されていません。
南下説、北上説共に、今後の出土次第でひっくり返る可能性は十分にありますので、「水田稲作跡」のみにこだわって議論するのは、少なくとも現時点では、あまり実り多いものとは言えないかと思います。
それよりも、やはり菜畑遺跡や板付遺跡の年代の古さに注目すべきだと思います。仮に今後朝鮮半島から水田稲作の跡が見つかったとしても、両者を大きく上回る年代のものが出土する可能性は低いのではなかろうか?と考えてます。
それよりも、やはり、水稲というものの植物学的~農学的な特質に注目した場合、どうあっても半島南岸に橋頭保を築く経路が合理的であり、その後、程なく、より温暖湿潤である日本列島に新天地を見出した、そしてそこがまさに豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)=すなわち水田稲作により適した土地であることが分かった!という流れを想定する方がよろしかろうと思います。
相変わらずの妄想だけど・・・。
次回は4)の「半島を介さず直接伝播した」説について考えてみたいと思います。
一か月前には夢想だにしなかった展開を見せているコロナウイルスですが、皆様はいかがお過ごしのことでしょうか?
幸いにも上田ではクラスターとやらも未だ発生しておらず、スーパーの店先に行列ができるようなこともありませんが、マスクやトイレットペーパーなどの定番を除き、商品の種類によっては、確かに品薄のものも出始めているようです。
センセが毎週欠かさずに食べていたレトルトのタイ式カレー(赤)が、棚から消えていました・・・。
でもこれは「売れないから」消えた可能性が高いです・・・。
センセの味覚は、よっぽど特殊なのでせう・・・。
さて、「ひいふうみい」数詞圏で生まれたと思われる日本語ですが、その日本語を話す連中の出自に関して、さらに突っ込んで行きたいと思います。まず初めに「お墓」を手掛かりに探っていきます。
「今月の書評-76」でご紹介した「支石墓」ですが、おおよそ半島半ばを境として北方型と南方型に分かれます。で、この南方型は紀元前1700 年頃の中国浙江省の支石墓に起源を有し、そこから半島西南部~九州北部に伝わった可能性が高いと考えられています。
であるとするならば、この流れと共に水田稲作も伝わった、と考えるほうが自然です。
和順支石墓群 화순 支돌 무덤군 ふぁすん 34.976142,126.93015 wikimapia より改変
和順支石墓群 화순 支돌 무덤군 ふぁすん 34.976142,126.93015 wikimapia より改変
また、列島最古の支石墓群が佐賀県や長崎県から多数見つかっており、特に長崎県の原山支石墓群や大野台支石墓群のものは縄文晩期に相当すると見積もられ、形態的にも中国浙江省で見られるものと大変よく似ているそうです。
半島における南方型支石墓の年代に関しては典拠によって異なり、ウイキでは紀元前500 年前と書かれています。仮にこれが正しいとすると、縄文晩期に長崎に伝わった南方型支石墓が海を渡って半島西南部に伝播した可能性も生じますが、支石墓そのものから「正しい」年代を測定すること自体が基本的に困難な作業であるため、ウイキの年代もそのままに信じることは出来ませぬ・・・。
中国浙江省の支石墓が紀元前1700 年と見積もられているところをみると、半島南部の支石墓群を紀元前500 年とするのは、いかにも年代が離れすぎているカンジがします。
ということで、例の菜畑遺跡の水田跡が紀元前1000 年くらいの縄文晩期に相当することを考えると、中国浙江省~支石墓~水田稲作~朝鮮半島南部~九州北部~縄文晩期という一連の流れは、ストレスなく、喉元を通ります。
ということは、「今月の書評-67」で述べた「稲の来た道」ですが、個人的には、「山東半島から南下してきた」説は分が悪いのでは?と考えています。
以下、次回!
さて、朝鮮数詞の音読みが日本同様に中国由来であるのは明らかですが、訓読みの方はいつ~何処に由来するのでしょうか?
東アジア史で習う高句麗(こうくり)とか百済(くだら)とか新羅(しらぎ)とかですが、色々あって、最終的に新羅によって半島が統一されたことは皆さまもよくご存じのことかと思います。で、言語学的にも、現代朝鮮語の源流は、この新羅語にあると考えられています。ということは、現代朝鮮語の数詞の訓読みは、新羅の言葉に由来する可能性が濃厚です。
で、前に戻って日本語の「ひいふうみい」と比べていただきたいのですが、全く似ていません。
で、日本語の「ひいふうみい」と高句麗数詞の偶然とは思えない類似性と現代朝鮮語数詞の訓読みとの違いから、次の仮説を導くことができます。すなわち、
「古代朝鮮半島に君臨した諸国家の支配層の出自としては、基本的な言語組成を異にする少なくとも二つの系統があった!」
ということです。
で、ここで中国の「三国志」やら「魏志」やらの文献を見ると(ウイキなどからの引用ですよ!)、扶余(ふよ)~高句麗~濊貊(わいばく)~沃沮(よくそ)の連中はおおよその言語~風俗が同じ。東の挹婁(ゆうろう)~粛慎(しゅくしん)~靺鞨(まっかつ)などは扶余とは異なる言語を使っていた、とのことです。
見たことも無い漢字の羅列でスミマセンが、下の地図にまとめました。
ウイキペディアより これは後漢の頃の勢力図 (たぶん、紀元後1世紀ごろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E8%B2%8A
で、この扶余(ふよ)とか高句麗とか濊(わい)とか貊(はく)とかの出自ですが、ツングースともモンゴルとも、あるいは両者の混合であるとも言われてますが、挹婁(ゆうろう)~粛慎(しゅくしん)~靺鞨(まっかつ)の連中は、ほぼ確実にツングース100 %であろうと思われます。
で、ここからはおなじみの妄想タイムとなりますが、上の図の辰韓(しんかん)が後の時代の新羅となりますので、たぶん、古代の半島は、大別して、今の沿海州から東海岸に沿って南下してきた連中と、満州から遼東半島の基部を通って鴨緑江を渡り、半島の西部を伝って南下していった連中がいたんじゃないか、そしてそれぞれ言語~風俗も相応に異なっていたんじゃなかろうか、と考えてます。
で、後の世に馬韓~弁韓~辰韓の三韓時代となりますが、「三国志・東夷伝」には「馬韓と辰韓とは言葉が異なる」との記載があり、馬韓は半島西部に、辰韓は東部に位置することから、馬韓、後に百済となる国ですが、これの支配層の連中は扶余~高句麗の流れをくむものであり、後に新羅となる辰韓の支配層は、よりツングースの血が強い連中であった、そして、ここが重要な点ですが、後に日本語を話すようになった連中は、紀元前の相当の昔、この満州から南下して半島西岸~南西岸に勢力を拡大した部族国家~部族社会に一旦取り込まれ、相応する年月をおくった結果、本来の数え方をさっさと捨て、度量衡~行政権に属する北方由来の数詞の言葉、「ひいふうみい・・・」を必要に迫られて、あるいは半ば強制的に、取り入れた、あるいは取り入れざるを得なかった、と考えてます。
ここまでくると、もはや妄想と言うよりも「幻想」と言うべきかもしれませんが・・・。
もしもご先祖さまが東海岸に移住していたなら、今頃は「ぼく、いくつ?」「セッ、ニダ!」← (出鱈目ですよ!)と話していたかも知れませぬ・・・。
相変わらずのコロナウイルスですが、リンダさんがブラタモリを卒業してしまいました・・・。
さみしいですが、出世コースということで・・・。
さて、数詞は度量衡に属し、度量衡は行政権に属します。分かる?
要するに、手や鼻や目などといった言葉に比べ、支配層、あるいはより強い文化の影響を受けやすい単語です。
春秋戦国時代の秦の始皇帝が数ある国家を統一した後に真っ先に行ったのが、度量衡の統一でした。
現代のわが国では尺(しゃく)だの寸(すん)だのを用いて寸法を測りませんが、明治以前は尺~寸一辺倒でした。これでは文明に乗り遅れるというので、明治以来の政府が大改革を行ったわけです。
因みに、現代においてすら全世界が統一的な度量衡を用いているわけではないことは皆さんもご承知の通りでして、世界で最も生意気な国の代表格である米国は、今でも堂々とヤードやらフィートやらガロンやらを用いております。
因みに、10000 を10,000 と、千の位でコンマを打つ習慣ですが、あれ、ホントに何とかなりませんかね?日本語の位取りにおいては全く無意味かつ有害そのものなんですけど・・・。
さて、「ひいふうみい」が元々の日本人が使っていた数詞ですが、実のところ、現代の我々は、あまり使いません。せいぜい「ぼく、いくつ?」「みっつ!」とか、あるいは10 個以内のものを数えるときに「ひとつふたつみっつ・・・」と言うくらいでしょう。11 個以上のものを数える場合に「ひととう」なんて言ってるの、聞いたことがありません。
落語の「ときそば」でも、
「ひいふうみい・・・おいオヤジ、今なんどきだい?」
「へえ、やつ(八)でございます。」
「ここのつ、とう、じゅういち、じゅうに・・・」
と、十一以降は「いちにっさん」の世界となってしまいます。
要するに、中国由来の「イーアルサンスー」の方がよっぽど便利だったのでしょうね。「ひいふうみい」では、たぶん、算術も進化しなかったと思います。
で、この「ひいふうみい」が今から2000 年くらいも前の高句麗で使われていたのは間違いのないところで、これを手掛かりにして日本語のルーツを探そうという無謀な試みを画策しているセンセですが、ここで現代朝鮮語の数の数え方をご紹介します。
興味深いことに、現代朝鮮語においても日本語の「ひいふうみい」と「いちにっさん」に相当する二通りの読み方があるようです。以下。
日本の音読み | 朝鮮の音読み | 日本の訓読み | 朝鮮の訓読み |
いち | イル | ひい | ハナ |
に | イー | ふう | トウル |
さん | サム | みい | セッ |
し | サー | よ | ネッ |
ご | オー | いつ | タソッ |
ろく | ユッ | む | ヨソッ |
なな | チル | なな | イル |
はち | パル | や | ゴプ |
きゅう | クー | ここ | ヨドル |
じゅう | シッ | とう | ヨル |
ちなみに、この朝鮮語の 1 の訓読みである「ハナ」ですが、日本語でも「ハナっから話にならない!」などと言うときの「ハナ」は、このハナから来ている可能性があるそうです。
ハナハダ興味深いですね!
さて、語順などの基本的文法体系が同じであるにもかかわらず朝鮮語と日本語はお友達では無いとする理由は、体の各部の名称(目、鼻、手足など)や数詞、色の名称、身近な事柄(空、日、月など)などの「基本単語」が、「お友達であれば、その後に変化はしても、共通する元の言葉が存在する」という原則にのっとっていないためです。
朝鮮語は、歴史的に見ても中国からの影響が非常に強く、ちょっと考えてみても名字や地名など、ほとんどが中国読みです。
名字などは「石を投げればキムに当たる」というくらいですし(ホントに投げてはいけませぬ)、地名なども釜山(プサン)、仁川(インチョン)、平壌(ピョンヤン)、大邱(テグ)など、中国読み以外のものを探すのに骨が折れます。
唯一、韓国の首都であるソウルのみ、どうやら本来の朝鮮語を表すもののようです。
ソウルは漢字では京城~漢城などと書き表す場合がありますが、ソウルの「音」を表す中国語は「首爾」であり、珍しくもわずかに残った本来の朝鮮語の地名であるようです。
これを日本と比較しますと、東京や北九州や希望が丘などの近年に名付けられた地名は省き、江戸~横浜~沼津~清水~静岡・・・と、東海道をちょいと下るだけでも大概は訓読みの地名です。
名字においても同様に、高橋はタカハシであってコウキョウではありませんし、山田はヤマダであってサンデンではありませぬ。
絶対音感を有してドビュッシーの「月の光」を即興で弾ける林田さんは、リンダさんではなくってハヤシダさんです。
キムくんやパクくんも実は昔はキムパクではなかったようでして、古い時代には「ちゃんとした」朝鮮語の名前(各部族に特有の)を有していました。
たぶん、新羅の頃にキムパクになったんじゃないかと思います。
さて、ならば中国の影響を被る前の両者の言葉を比較するともっと面白いことが分かってくるのではなかろうか?と思いますが、如何せん、昔の朝鮮語がどのようなものだったのか、皆目分からないのが現状です。
と、ここで一つの手がかりがあります。それは、紀元前4 ~50 年頃に現在の満州から北朝鮮~朝鮮半島中部を制圧したC2 の国家、高句麗で話されていた言葉の断片が残っているという事実です。
それはホント断片に過ぎず、ここから高句麗の言語を構築することなど全く不可能ではあるのですが、まさにこの断片が、日本語の由来に関してゾクっとするよなインパクトを有しているのです。この断片は高句麗語の数詞に関する記録であり、そこには、3 は「密」、5 は「于次」、7 は「難」、10 は「德」と、漢字で書き表されているとのことです!その他の1、2 と4、6、8、9 は、残念ながら残っていません。
3 は「みつ!」、5 は「いつつ!」、7 は「ナン!」、10 は「トク!」
これは、単なる偶然として見過ごすわけにはいかないくらいのインパクトがあります!
一向に終息の気配を見せないコロナですが、マスクのみならず、トイレットペーパーまでスーパーの棚から姿を消してしまいました!
センセの周りにいる身近な方にも、「お母さん、トイレットペーパーがなくなっちゃった!」との遠方に住んでる息子ちゃんの悲痛な叫びに答え、数個のトイレットペーパーを数千円かけて宅急便で送ったという奇特な方もおられます。
「クール便でお願いします!」
さて、現代朝鮮語と現代日本語、両者とも語順は同じで、広い括りで言うところのアルタイ系に属します。また、単語や言い回し、ことわざその他、両者には共通するところも大変に多いです。
にもかかわらず、言語学者によれば、両者は基本的に異なる言語である、とのことです。そこのところ、もっと妄想力を発揮して突っ込んでいきたいと思います。以下、大野晋氏の「日本語の起源」並びに大野敏明氏の「日本語と韓国語」を参照しました。
朝鮮語と日本語、両者とも、広い括りでいうところのアルタイ系言語に属するにもかかわらず、近傍のアルタイ系諸語にもお友達がいないという「ボッチ言語」に属します。
世界に数ある言語ですが、インド~ヨーロッパ語族などと呼ばれるように、多くは「お友達」がいます。その一方で、朝鮮語と日本語は「孤立語」と呼ばれ、お友達がいない言語に分類されます。しかも朝鮮語と日本語、この二つも「お友達」ではないとのことです。色々な意味で「別にお友達でなくてもちっとも構わない」とも言えますが www、純粋に学問的な立場(言語学的~人類学的~歴史学的その他)から見ると、非常に不思議に思えます。
一方で、現代日本語の中には、我々が普段から当たり前のように使っている単語や表現の中には、朝鮮由来のものも多く含まれます。
その中には朝鮮由来であるのが明らか、かつ、日本人もそれと分かって使っているもの、例えば「チョンガー」など、もありますが、知らずに使っているものもあります。例えば「チャリンコ」や「ツッパリ」、背が高いヒトを表す「ノッポ」という言葉も半島由来である可能性が高いです。
いわゆる「ヤンキー」を意味する「ツッパリくん」ですが、これは日本人に対するよろしくない表現である「チョッパリ」から来た言葉だと、個人的に思ってます。たぶん、ジャバラの連中とサンペンの連中との心温まる交流の中で生まれてきた言葉かな?と思ってますが wwwwwwww。
センセが何言ってるか分かったヒトはアブナイ過去をお持ちの方です!
ヤンキー、いわゆるDQN を意味する言葉ですが、これはもちろん本来的には米国南北戦争時の北軍を意味する言葉です。
で、なんでDQN を意味するようになったかと言うと、これはファッションから来てます。
昭和30 年代から40 年代にかけて、アイビーファッションが流行りました。
同時期、あるいは少し前、横須賀発のジーパンファッションが生まれました。
くるぶしのところをミシンでキチキチに細めた横須賀マンボ、いわゆる「スカマン」です。
で、当初、スカマンにオープンの綿シャツ、足元はコンビの靴、髪型はクルーカット、という横須賀発のスタイルが流行りましたが、その後、くるぶしが見えるくらいのショートめのシングルの綿パン + スニーカー + アメリカの労働者あたりが着ていそうなチェック柄の綿シャツ + BVD の丸首のT シャツ + リーゼント、というスタイルが登場します。
これがヤンキーと呼ばれたスタイルで、そこから意味合いが変化し、現在に至りました。
これは一部始終を目の当たり(というかその中を生きてきたというか)にしてきた本人が言うことですので、間違いありませぬ!
さて、「今月の書評-66」でご紹介した夏王朝ですが、商の攻撃による夏王朝の滅亡と当時の東アジアの擾乱との間には、何らかの因果関係があるのではなかろうか?と考えています。
一昔~二昔前の説の中には「周により倒された商王朝の遺民が九州に渡ってきて稲作を伝えた」などというのがありましたが、この当時は放射性炭素による年代測定が未だ不正確であり、稲作開始年代が500 年くらい遅く見積もられていたため、このような説もある程度説得力を持ちました。
最新の測定値によれば、上記開始年代は紀元前1000 年あたりに見積もられますので、「商の難民説」の可能性は高いとは言えません。商が滅びるのが紀元前1046 年ですから、わずか4~50 年で一気に華北から九州へと当時の最先端技術が到達したと考えなくてはならず、また、商に関連する遺物なども全く伴わないため、現実味は極めて乏しいと思います。
そうなりますと、センセの「夏王朝崩壊説」は俄然現実味を帯びてきます。
というか、「商が夏を滅ぼした背景にあったものが当時の東アジアの擾乱をもたらし、その結果、半島の南に、後の世に韓とか倭とか呼ばれる国家群が生まれることとなった」説を提唱したいと思います。以下、例によって箇条書き。
気温の低下によってC2 が大規模に南下した。
↓
これに押されて商が夏を滅ぼした。
↓
商と東夷の確執が激しくなった。
↓
これを嫌気して、東夷の半島への移住が始まった。
↓
東夷は、先に半島に拡散していたC2 の社会に組み込まれることとなった。
↓
数百年かけて、C2 + O2 + O1b2 が高度にブレンドされた社会が出来上がった。
ここで当時の商王朝の政治の有り様について見ていきます。
大体、狩猟採集文化から農耕文化になって数世紀もすると、世界各地に王を頂点とする巨大文化が生まれます。ワンパターンみたいなカンジで、どれもこれも同じような経緯で生まれ、同じようなことをしでかします。すなわち、農耕と祭祀と政治の一体化です。これに天文と軍事を加えても良いかもしれません。
で、ほぼ必ずと言っていいほど、人身御供みたいなことが行われます。
たぶん、天文と気候の規則性と、それと密接に関連する農事というもの、気候変動による凶作、そして人間に生得的に備わっている因果律を感知する能力、そこから発生する「神」の概念、そして自己犠牲により神の怒りを鎮静化する試み、といったものが関連しているのだと思います。
で、商の時代、神の意向を知るために占いが多く用いられ、祭事には数多くの人身御供が捧げられました。遺跡からは、総計およそ14000 体にものぼる人身御供に捧げられた人々の人骨が発掘されています。
自己犠牲なのですから王自ら、あるいは少なくとも自分たちの代表を人身御供として捧げるのが筋だと思うのですけど、そこは都合のよい解釈をして、大概は他部族の戦争捕虜をこれに充てたようです。しばしば、戦争目的そのものが、これら人身御供用の生贄を確保することにあった、とも考えられます。
で、商の場合、生贄の多くは姜(きょう)と呼ばれる部族から得たそうですが、たぶん、足りない時なんかは東夷の連中を代わりに用いたかも・・・。
蒲焼を作る際にウナギが品薄だから代わりにアナゴを使ったりするようなもんでしょうかね?
史実としては、商と東夷の確執は長く続いたそうで、これに嫌気をさした東夷の連中が半島を目指して移住した、というシナリオは、十分あり得るかな?と思います。
で、周辺部族の怒りを買った商ですが、東夷との戦争で居城を留守にしている間に、姜族出身の太公望呂祥(たいこうぼうりょしょう)を宰相に据えた周の文王によって滅ぼされてしまいます。
・・・商もない連中だったんですね・・・
首を刎ねられた殷墟の人骨 C.P.C のサンプル画像より http://www.cpcjapan.com/china/history/iseki/photo2/inkyo_jyunshi003.html
「今月の書評-71」でもお話したように、遼河文明の最盛期に用いられていたのが櫛目文土器(くしめもんどき)と呼ばれる土器で、これは半島南岸を経由して九州の縄文土器にまで影響を及ぼしました。
その後の気候の寒冷化に伴ってC2 が南下、遼河流域からN の人々を駆逐し、鴨緑江を渡って半島をさらに南下して行きました。今からおよそ3500 年くらい前の頃です。
このような流れの中、土器の形式も変化します。いわゆる無文土器の形式がここら辺から始まります。
無文土器というのは、その名の通り、縄文土器のような荘厳華麗な文様を持たない、のっぺりとしたタイプの土器で、その後の弥生式土器につながるものです。この無文土器の初期のタイプとして突帯文土器(とったいもんどき)がありますが、この土器のプロトタイプは満州~沿海州地方で生まれ、その後に半島を南下していき、最終的に九州の夜臼式土器(ゆうすしきどき)につながった、と考えられています。この夜臼式土器が水田稲作の明らかな遺構を伴って板付遺跡から出土したことから、従来は縄文晩期の土器とされてきた夜臼式土器は、現在では最古の弥生式土器を代表するもの、ということになりました。(2021年1月31日:夜臼式土器が縄文式土器なのか弥生式土器なのかに関して、「今月の書評-104」でより詳しく書いてます。ご参照ください。)
突帯文土器の特徴をよく表す夜臼式土器
稲作渡来民「日本人」成立の謎に迫る よりお借りしました。
また、支石墓(しせきぼ)と呼ばれる墓の形式からも、北から南への流れが見て取れます。
支石墓は別名ドルメンとも呼ばれ、この時代の世界各地で建てられた大きな石造りのお墓です。ヨーロッパなどでも盛んに作られました。
東アジアにおいては、遼東半島から見つかった今からおよそ3500 年くらい前のものが最古であると見積もらています。
半島の支石墓は北方型と南方型とに分かれ、おおよそ北方型は漢江の北、南方型は漢江の南に分布しています。また、南方型の方が時代が新しいことから北方型が進化して南方型になったとも考えたくなりますが、研究者によれば必ずしもそうではなく、両者は独自の出自を持つものだ、とも言われています。
南方型は半島南西部に集中して数多く分布し、その数は世界一。
さらに興味深い点は、山東半島の支石墓は北方型である、という事実です。
ということは、やはり、東夷(O2 とO1b2 のハイブリッド)の半島への移住経路は一つではなく、山東半島ルートと南方ルートの少なくとも二つはあった、と考えるのが合理的です。たぶん、もっとあったと思いますけど・・・。
支石墓の状況などから言っても、当時の山東半島は、すでに北からの影響と南からの影響が相当に混じた状況であった、ことによると、アルタイ系の言語を用いる素地が移住前にすでに整っていた、そういう可能性すらあるわけです。
一向に止む気配の無いコロナウイルスですが、ま、これによって人類が絶滅することはないと思いますので、センセのブログでも読みながら、忍耐強く、気長に構えていきませう。
さて、中国や欧米からの文化的影響下に晒された~晒されつつある日本ですが、それでも日本語はビクともしない、というお話をしました。
漢族系やオーストロアジア系の比率がC2 を凌駕する朝鮮半島ですが、それでもアルタイ系の語順に従う言葉が話される、その理由について、センセお得意の妄想力を発揮してみたいと思います。以下、列挙します。
1) O2 やO1b2 の比率は最初から高かったわけではない。時代が下るにつれて徐々に人口を増やし、最終的にC2 を凌駕した。
2) 当時の気候の寒冷化に伴い、まず初めにC2 の南下が始まった。その後にそれに影響されてか、あるいは他の理由により、東夷の連中の移住が始まった。
3) 歴史的に見てもC2 の軍事力~統率力~政治力には侮りがたいものがある。従って、半島に林立したであろう当時の諸部族の支配階級はC2 が独占した。
4) 東夷といったところで様々な部族に分かれていたことであろう。いくつかの部族がそれぞれの経路で別途に移住したのであろう。そして移住先でC2 の社会に組み込まれ、労働者階級として、漁労や農作に従事したのであろう。
5) C2 としたところでツングース系あり、満州系あり、モンゴル系ありで、様々であったことであろう。これに様々な東夷の部族が混じることにより、当時の半島は相当にmotley crew な状況となったと考えられる。このような「吹き溜まり」状況は、現在のバルカン半島やコーカサス地方、あるいはインドシナ半島などにも見られるものだ。朝鮮半島の場合はその後に強力な統一国家ができたおかげで、言語も統一されたのであろう。
6) 時代の推移に伴い、労働者階級の言葉は支配階級の言葉に沿った形に変貌を遂げていったであろう。にも関わらず、彼らがもともと使っていた単語や表現、発音などは形を変えつつも生き残り、支配階級の言語体系の中に組み込まれていったことであろう。
というカンジ。
それでは以降、この仮説を検証していきたいと思います。