日々のお話: 2020年1月アーカイブ

今月の書評-67

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さて、水田稲作技法が江南の地に生まれたのは確実ですが、これが日本列島に伝播する経路に関しては諸説あります。大別して、

1) 大陸を陸伝いに一旦満州方面へと伝わり、そこから朝鮮半島を南下した。
2) 山東半島から直接に黄海を渡り、まずは朝鮮半島中西部、その後に南部へと伝わった後に日本に伝わった。
3) 山東半島から長江下流域にわたる地域のどこかの沿岸から、黄海を渡り、朝鮮半島南部~北九州にほぼ同時に伝わった。
4) 長江下流域から東シナ海を横断し、半島を介することなく、直接に日本にたどり着いた。

というカンジ。

1) の説は、もともと熱帯~亜熱帯の植物である稲の本質を考えると、最もありえない経路だと思います。また、裏付けとなる考古学的証拠も全く出ていません。
4) の説には裏付けとなる状況証拠がいくつかありまして、そのうちにお話したいと思います。

最も可能性が高いのが2) と3) の説で、考古学的証拠もしっかり存在します。
また、仮に確かな裏付けがなくとも、地図をつくづく見ていると、「この経路こそが highly likely であるなあ~」と、思わざるを得ません。以下、理由。

菜畑遺跡を嚆矢として、続く板付遺跡からさらに後の時代に至るまで、北九州から弥生時代の全てが始まっているのが明らか。仮に長江下流域から日本列島に直接至るルートがであったとするならば、天草から有明海~熊本~鹿児島あたりにも当時の水田跡がいくつか見られてしかるべきだが、全くない!
 水田耕作って、当時の最先端技術であったはず。
数人~十数人の「流れ者」がたどり着いていきなり出来る代物ではなかったはず。 しっかりと予測~計画をたて、準備万端おさおさ怠らず、各種の情報その他も手に入れ、当時最先端の土木工具を伴い、確固たる技術を持った一定数の連中が、断固とした決意のもとで渡来したはず。
 仮に首尾よく水田に適した地を見つけても、先住者が居れば耕作もできない。
仮に首尾よく水田ができたとしても、収穫までの少なくとも半年間の食料をあらかじめ確保しておかなくてはならない。従って、少なくとも最初の移住者は、最低でも半年~1年間は生き延びられるくらいの量の食料を持参した上で移住したはず。さもなければ、短期間で確実に往来できる距離の場所に移住したはず。

こう考えると、仮に他の証拠がなかったとしても、半島南岸~対馬~北九州沿岸の経路が最も現実的だ!と言えると思います。
また、「戦乱を逃れてきたボートピープルのような連中が移住したのだ!」的な発想は、以上の推論からありえない!少なくとも初期の移住とは無関係だと思います。

ただし、定着が進み、食料増産~人口増加も進んだ弥生も後の時代ともなれば、そのような戦乱を逃れてきた人々を受け入れた可能性は当然あったと思います。あるいはそれらの人々との争乱もまた、頻発した可能性すらあるわけです。

2) と3) の違いですが、現在大相撲で正代か徳勝龍かどちらが優勝するか大事な状況なので、一旦お開きといたします!・・・直ぐに戻ります。




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お待たせいたしました。ナ、ナント、徳勝龍が初優勝
幕内の中でも幕尻のベテラン古参力士が優勝!!
見れば「あ、このヒトね」レベルの、ジミ~な存在だった「あのオトコ」が優勝!!!

おまけに男泣きはするわ優勝インタビューでは笑わせるわ泣かせるわで、これは来場所から一気に人気沸騰は間違いなし!!!

ナンカ、ン年前の旭天鵬が優勝したときの雰囲気を彷彿とさせるひと時でありました。

ん~~~、今場所は、時代の交代も予感させて、ナカナカ面白かった。
ま、センセの一押しは、何と言っても「朝の山」だね!
大関どころか「ケガさえなければ」の条件付きで、「白鳳を継ぐ力士」とまで見ているが・・・・・・。

過去、押し相撲で横綱を張った力士はセンセの記憶にはないし・・・・・。

さて・・・・・・・。



弥生人ですが、大相撲の余韻に押されて来週に回します。
悪しからず・・・・・・。



今月の書評-66

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さて、「日本最初の弥生人」を語る場合、中国最初の王朝と考えられている「夏(か)王朝」の存在がナンカ怪しいんじゃないか?と、センセは考えてます。

今月の書評-57」でご紹介した商(しょう)、いわゆる殷(いん)ですが、殷に先立つ王朝として夏王朝が実在したとの説は、たぶん、相当に確実かと思われます。

で、夏王朝存在の証拠としては、黄河中流域にある有名な二里頭(にりとう)遺跡が挙げられますが、王宮を有する都市文化であったのは良いとして、ヒエやアワなどの北方系の穀物を栽培していただけでなく、水稲栽培も行われておりました。
今月の書評-64」でも述べたように、長江下流域のオーストロアジア系の良渚(りょうしょ)文化は、漢民族系である北方の龍山(りゅうざん)文化と相互に影響を及ぼしあった結果、前回で述べたように、この地方の住民は北方系と南方系が入り混じるハイブリッド民族を形成した可能性が高いと思います。で、そのハイブリッド人は弥生人に形質学的に瓜二つであり、さらに、抜歯の様式も共通していることなどから、基本的な弥生人の祖型はここで生まれた、と考えて間違いないと思います。ここからがハナシが面白くなるんですけどね。

で、夏王朝の時代区分ですが、今からおよそ4000 年くらい前に起こり、商によって滅ぼされたのが3600 年前です。

で、滅ぼされた夏の人々は、中原(ちゅうげん)を追われ、古巣の地域に移動して行きました。今で言うところの山東省から江蘇省~浙江省にかけての地域です。この地域の人々は、後に「東夷(とうい)」と呼ばれる人々ですが、これは「中原から見て東に住む野蛮人」という意味あいが込められた言葉です。中原を制するものが将に中華というわけで、中華自身の出自は、実はどうでもよかった、というカンジですね。

で、日本で初めての稲作の跡として認定されているのが今からおよそ3000 年前の北九州の菜畑(なばたけ)遺跡ですから、夏王朝の滅亡からはおよそ600 年の差があります。

で、この怪しい600 年の間に何があったのか?

山東省から朝鮮半島にまたがる地域で、この間、色々とあったんじゃないかなあ~、と、妄想を膨らませるセンセです。

夏王朝.jpg
夏王朝の版図 ウイキペディアより



今月の書評-65

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ここからはしばらく、中橋孝博氏の「日本人の起源:講談社学術文庫」の一部をもとにして、センセの妄想を膨らませていきたいと思います。

1996 年から1999 年にかけて、日本と中国の人類学の先生たちが共同で、長江下流の南岸から江蘇省にかけて出土した多くの人骨の調査を行いました。その結果、以下のような興味深い事実が得られました。

1. 今からおよそ5000 年くらい前の人骨は、縄文人とも弥生人とも、または同時代の華北人とも、全く異なる。
2. ところが2800 年から2500 年くらい前の「春秋~前漢」時代の人骨は5000 年前の人々とは大きく異なり、弥生人と瓜二つである。
3. mtDNA 分析では、弥生人と全く同じパターンが得られたケースもあった。

調査の時代が古いこともあり、DNA 分析もミトコンドリアに限られ、しかも数が少ないので決定的とは言えませんが、少なくとも形質学的な結果からは、弥生人と当時の江蘇省から山東省にかけて住んでいた人々は「専門家ですらビックリするほど」酷似していた、ということです。驚きですね!

上の結果を素直に読み解くと、以下のようなシナリオが描けるかな?


5000 年くらい前、
長江下流域には水田稲作技法を発明したYDNAO1b の連中が
稲作を土台とした長江文明を築いて大いに栄えていた。
数千年かけて
より北の黄河文明の連中(YDNAO2) と文化的~肉体的に混交した結果、
江蘇省から山東省にまたがる地に、
両者を主体とするハイブリッド民族が生まれた。
気候の寒冷化により、人口の減少、人々の移動圧が生まれ、
同時に戦争圧も高まった。
一部は海を渡り、一部は留まって国家を形成し、残りは南下した。
より南の、O1b 色をより強く残した連中は、水田稲作技法を伴い、
ところてん式に、
東南アジアから東インドにかけて幅広く拡散して行った。


たぶん、こんなカンジでしょうか。

仮にこれが正しいとすると、弥生人=江南のハイブリッド人となりますが、いやいやナカナカそうは簡単におろす問屋はござりませぬ、という気もします。

その理由は、また後程に・・・。



張作霖.jpg
張作霖 ウイキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96

周恩来.jpg
周恩来 ウイキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

ボーグエンザップ.jpg

アジアの、いずれ劣らぬ英傑です。




今月の書評-64

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さて、今からおよそ5000 年くらい前の大陸では人口が急激に増加し、その原因の一つとして、長江流域に端を発した水田稲作の成功があった、と述べました。

たぶん、間違ってないと思います。

いわゆる長江文明で有名なのが下流域の河姆渡(かぼと)文化ですが、ほぼ同時期の長江中流域には大渓(だいけい)文化があり、ここでも大規模に水田稲作が行われておりました。
前者は後のベトナム人などの祖とみなされるオーストロアジア系の人々、後者は別系統の、いわゆるミャオ族(苗族・モン族)が作り出したと考えられている文化です。
両者共に今からおよそ7000 年くらい前の文化で、大体この頃には水田稲作技法は完成の域に達していた、と考えてよいかと思います。

このような稲作技法はその後に山東半島あたりにまで伝わり、漢民族による黄河文明の一つ、龍山文化に引き継がれます(今月の書評-51を参照)。今からおよそ5000 年くらい前のことです。同時期の長江にはオーストロアジア系の良渚(りょうしょ)文化が栄え、両文化は互いに影響を及ぼしあい、人口もピークを迎えることとなります。

ところがほどなくして両文化共に衰退、人口が激減してしまいます。

何が生じたのか?

世界的規模の気候の寒冷化です!

この時代の寒冷化現象は様々な民族移動を誘発したようで、「今月の書評-55」でも述べた南ロシアの欧州系の連中の東西アジアへの拡散もまた、寒冷化による内陸アジアのステップ化と無縁ではないようです。
その結果、西からの欧州系の流入~遼河文明を作った一部のN系の人々の南下~ツングースやモンゴル系やチベット系の移動その他その他、一気に中国大陸はキナ臭くなってきました。

そのような流れの中、長江流域で水田稲作を展開していたオーストロアジア系の人々もまた移動を開始、東南アジアからインド東部に至るまで、水田稲作技法と共に、拡散して行きます。

インドにはこの時に稲作が伝わった、と考えられています。

ベトナム女性.jpg
平均的なベトナム女性の図。     ・・・と思いたい・・・。
ベトナムTTC人材株式会社HP http://ttchr.vn/ja/ より頂きました。




今月の書評-63

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みなさまこんにちは!「今月の書評」のお時間です。

昨日11日は「今月の書評-60」で予告した大学対抗ラグビー「早明戦」の決勝戦が行われました!で、早稲田優勝!!! イエイッ!!!


・・・で、当然センセは見ていたかのように思われますが、見ていない・・・

・・・なぜか・・・

・・・忘れて12日だと勘違いしていたから・・・

ヤバイっす・・・

先日、買い物に行くとき、忘れないように買うものを紙に書いて、
ポケットに入れて出かけた。
で、書いた紙をポケットに入れていたことを忘れて、
買うべきものを買って来なかった・・・。

すんごくヤバイっす・・・・・・・。

先々月、忘れないように手の甲にマッキーで買うものを書いて出かけた。
で、手の甲を見ないで買わずに帰ってきた・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・。


和歌を詠みます。

   
            忘れじと
       書いたメモすら忘れきて
            物を買わずに散歩した日々     雅仙



ええっと、さて、弥生人です。
今からおよそ6000~4000年前の頃、たぶん、大陸で、ナンカ重大な出来事が生じていたカンジです。

それは何か。人口の増加です!たぶん・・・。

この頃、東アジア地域で「民族の大移動」が生じています。
まず、福建省あたりからオーストロネシア系の人々が台湾に渡り、そこからさらにフィリピン~インドネシア方面に船で移動を開始します。
この時、一部は熱帯ジャポニカの種と共に日本列島を目指して北上した可能性があります。
その後、オーストロアジア系の人々が長江流域から東南アジア地域~インド亜大陸に向けて拡散していきました。
現在の東南アジアからインドにかけて幅広く見られる水田稲作文化は、彼らの拡散の結果広まった、と考えられます。

で、それではなぜ人口が増えたのかというと、明らかに稲作の発展によるものでしょう。特に温帯ジャポニカによる水田稲作法の発展により、この地方の人口が爆発的に増加したのだと考えられます。

このような人口増加は日本人のmtDNA 分析からも指摘されており、前々から何度も登場されている国立科学博物館の篠田謙一氏によれば、「mtDNA 分析が示すところによれば、今からおよそ5000 年前に大規模な人口の増加が生じた可能性があり、それは日本列島以外の場所で生じたと思われる」とのことです。
mtDNA分析による人口増加の証明法に関しては省略しますが、日本列島での縄文中期以降は人口が急減するわけですから、列島で人口増が生じた可能性はゼロです。その一方で、海の向こうは人口がブレイク!技術革新と人口との関連をもimply すると同時に、それが現代日本人の遺伝子分析から分かるという事実は、ものすんごくexciting ですね!

また、今年の干支であるネズミクンは米食ってチュー!ということから北大の先生が日本在来の野生マウス二種、カスタネウス亜種とムスクルス亜種のDNA分析を試みたところ、前者は今からおよそ4500~3300 年前に中国南部より流入し、後者は2000 年前くらいに朝鮮半島から流入したことを証明!さらには両者ともに関係のない南アジア由来のDNA情報も得られたことから、4500 年前よりも古い時代に南アジア由来のネズミクンが列島に到達した可能性もあるとのこと!

で、ヒトに戻って台湾先住民であるオーストロネシア系の人々のmtDNA のハプロタイプにはB4 が多いわけで、じゃ、と言うんで列島の縄文人のmtDNA ハプロを追うと、沖縄~宮崎~関東という列島の太平洋岸沿いに比較的明白に認められるわけです。
で、1万2000年前の鹿児島の遺跡はとりあえず脇に置き、縄文時代における熱帯ジャポニカの存在が確実視されるのは6000年前の岡山の遺跡ですから、年代的にも妥当かと思われます。特に宮崎では熱帯ジャポニカ+B4 のペアで検出されるので、あそこら辺の連中には台湾先住民の血が結構流れているんじゃないかなあ~、そういえば、センセのM大時代のお友達にもそれを彷彿とさせる連中がいたっけなあ~、と感慨にふけるセンセです。

オーストロネシアの若者-1.jpg
台湾ツアウ族の若者 ウイキペディアより        ✖✖クンの写真ではありませぬ・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91


今月の書評-62

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「縄文人が育てていた熱帯ジャポニカ米は陸稲である」とのことですが、では、熱帯ジャポニカは水田では育たない?との素朴な疑問が生じます。

答え:育ちます。

そもそも陸稲と水稲の違いは、「陸稲は陸でも湿地でも育つが、水稲は陸では育たない」というのが正解です。

ですから縄文時代人も、たぶん、湿地でも陸でも山の斜面でも、播いて育つところならばどんなところでも熱帯ジャポニカ米を播いて育て、実がなったら収穫していたと思います。

じゃ、なんで、弥生人はわざわざ「水田」なるめんどなもんをこさえて水稲を一所懸命に植えたのか???「陸でも湿地でも育つ稲をそのまんま適当に直播して収穫していた縄文人の方が賢いジャン!」とおっしゃるあなたにセンセは親近感を感じます。

お答え:なんだかんだ言って、結局、水田稲作の方がコスパが良いから!です!以下、理由。

1. 陸稲は乾燥に弱い!
2. 連作に弱い!!
3. 雑草がはびこる!!!

陸稲.jpg
陸稲のイメージ:畑の作物なんでも実験 http://ononomugi.seesaa.net/article/452552218.html
より拝借させていただきました!

そもそも稲の原種は森の中でほそぼそと生きていたようです。
これが湿地にニッチェを獲得した理由の一つとしては、「競争相手が少ないから」で説明できると思います。
観葉植物にせよ何にせよ、植物を育てるヒトが注意しなければならないことの一つとして「水をやりすぎない!」ということが挙げられると思います。
水をやりすぎると根は酸素を吸収できなくなり、いわゆる「根腐れ」を起こし、最終的に、その植物は枯死してしまいます。

でも、湿地に育つ植物は根腐れを起こしません。
詳しいメカニズムは知りませんが、合目的的な説明をすると、「競争相手の少ないニッチェを探した結果、湿地を選び、根腐れを起こさないような形質を獲得した」ということになるかな?

いずれにしましても、純然たる水稲種である「温帯ジャポニカ」は、競合する相手の少ない湿地に特化した結果、「湿地である限りは繁栄する。けれども湿地以外では生育できない」という選択肢を選んだ種である、と言えると思います。

で、陸稲である熱帯ジャポニカは、未だ選択肢に自信がない「中学生」のような存在、といえるかも・・・。

1. の「陸稲は乾燥に弱い」ですが、これも中途半端なニッチェ選択の結果を反映するものだと思います。

2. の「連作に弱い」ですが、これは熱帯ジャポニカの特性と言うよりも、むしろ「水田」という特殊な条件によるものだと思います。
水田と畑を比べてみて一目瞭然なのは、水田は、少なくとも稲を栽培している期間は水を張っている、ということです。
で、多くの場合、現代においてすら、水田に水道水を引いている農家は居ないと思います。もし居たら、居ないと思うけど、お金の問題もさることながら、やめたほうが良いと思います。
普通は、川やら沼やらの水を水路で引いて落とし込みます。
で、これらの水には土壌中のミネラルを始めとして、山の木々の葉が微生物によって分解された様々な種類の養分などが含まれています。
そのため、水田は、畑作と比べ、施肥が少なくて済むと言われています。

その他にも水田の利点は数多くあります。

水は「比熱」が大きいため、田んぼは「夏は涼しく冬は暖かい」状況となります。その結果、稲にとっては「温度的」に安定した状況がもたらされます。

秋には刈り取られるので、冬の温かさはどうでもいいと思うけど・・・。

また、水を張ったのちの水田の「泥」には多くの微生物が住み着きますが、これらが稲の根との間に一種の「共生関係」を築くことにより、稲の生育を助ける働きをすることも分かってきました。

3. の「雑草がはびこる」に関してはすでに述べたも同然ですが、根腐れを起こさない競合植物は限定されるので、畑作よりも雑草駆除は圧倒的に楽、という訳です(しょせん農作業とは無縁のセンセがほざくだけの世迷言だとお考えください)。


このような特殊な条件に特化してきたジャポニカ栽培米ですが、これをsystematic に domesticate したのが古代長江流域の人々だった、と指摘して、令和二年初のブログをお開きにしたいと思います。

では皆さま、よいお年を!


・・・って、冗談が過ぎるよね ✖



今月の書評-61

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つづきです。

縄文人が稲作をしていたいなかったに関しては未だに論争があるようですが、稲作をしていたと考える方がはるかに合理的だと思います。

というのは、「今月の書評-32」でも述べたように(「農!と言える縄文!」石原珍太郎著)、縄文時代は単なる狩猟採集だけに頼っていた時代ではすでになく、人工的な栗林(くりばやし)を作り出したり、大規模な野焼きを行ってそこから様々な食物を得ていた証拠があるからです。
縄文時代にはすでに、ヒエやアワ、ソバ、大豆、さらにはエゴマやヒョウタンなどが栽培されていたと考えられています。
これらに加えて、南関東以西にかけてはサトイモなどの栽培も行われていた可能性があります。サトイモなどは証拠が残りませんが、「証拠がないやってない」という図式ではつまらないブログしか書けませんので、縄文人は大いにサトイモを食べていたことにしときます。

で、稲ですが、縄文人が栽培していた稲は「熱帯ジャポニカ」と呼ばれる種類の稲で、これはいわゆる「陸稲=おかぼ」方式で栽培されていたと考えられています。証拠としては、縄文土器の土の中に見出された稲のプラントオパールが挙げられます。プラントオパールに関してはググってくだされ!

で、この稲のプラントオパールですが、6500年前の岡山の貝塚から出土した土器から発見されたものが確実視されています。
一方で、未だ疑問視はされているのですけど、最古のものは、ナント1万2000年前の鹿児島の遺跡から発見されています。

この1万2000年前の鹿児島の遺跡というのは「今月の書評-20」でお話した喜界カルデラの大噴火前の遺跡ですから、稲が列島に伝わったのは少なくとも縄文早期までさかのぼる可能性もあるわけです。確実視はされていませんが・・・。

でも、仮に、本当に稲の伝達がこの時代にまでさかのぼる可能性があれば、この1万2000年前という年代の微妙な雰囲気が引っ掛かります。要するに、スンダランドの水没と関連する?という妄想がニョキニョキと生じるわけです。

で、前ページ「今月の書評-60」でお話したように、スンダランドの水没に伴ってヒトの移動が生じたのは明らかですので、前ページの図で示したように、スンダのオジサンやオバサンは栽培稲の原種に近いものを伴って一部は日本列島に、他の一部は現在のインドネシア島嶼部に、他の一部は現在のインドシナに、そして他の一部は長江下流域に移動していった、と考えても違和感はありませぬ。

喜界カルデラ噴火前の層から出土する縄文早期の鹿児島の遺跡に関しては他の地域の縄文遺跡とは異なる独特の文化様式が指摘されており、貝殻で文様をつける形式の土器、船を作る道具、あるいは燻製品を作る工房跡など、海洋の民に由来する可能性が指摘されています。

であるとすると、朝鮮半島並びに樺太由来の縄文主流派とは別に、スンダの水没に伴って琉球弧を飛び石伝いに渡って鹿児島から紀州~関東に至る太平洋岸には、少数かもしれませんが、スンダ直系の民が列島に居ついた可能性も想像されます。
実際、関東の縄文人の遺骨から得られたmtDNA分析の結果においては他地域ではあまり見られないハプロタイプが多く検出され、その中にはB4 というハプロタイプも見出されています。
このB4 は石垣島の白保遺跡から出土したおよそ2万年前と目される人骨が持っていたタイプであり、東南アジア由来の、非常に古いタイプのハプロタイプであると考えられています。
喜界カルデラのアカホヤ火山灰下層から出土した鹿児島の縄文早期の遺跡からはDNA情報は全く得られていないと思われますが、ことによると、彼らはこのB4 を持つ人々であったのかも知れず、彼らこそが、熱帯ジャポニカのモミを列島に最初に持ち込んだ人々であったのかもしれません!

・・・妄想だけど・・・。




今月の書評-60

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みなさまあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

毎年恒例の箱根駅伝は下馬評通りの青学優勝!
一方の大学ラグビーは、久方ぶりの早明対決と相成りました!
決勝は今月11日。
新年早々、ワクワク感が止まらないセンセです。

さて、例年でしたら長野の厳冬を口実に引きこもりになってブログの更新に励むセンセですが、今年の冬は今回が初めての更新。
縄文系も一通り終了しましたので、本格的に弥生に突っ込んで行きたいと思います。


今月の書評-47」で定義したように、今からおよそ3000年くらい前に北九州で水田稲作が始まったのをもって、弥生時代の開始といたします。
この開始年代も今もって議論が継続されているようですが、本質論ではないと思いますので、ここでは3000年前として話を進めていきます。

水田稲作の開始をもって弥生時代と定義するわけですから、それ以前に「稲作」があっても、それが「水田稲作」でない限り、弥生時代と認定する訳にはいきませぬ。

その理由も今月の書評-47」で述べました。

で、「稲作」がまさにキーワードとなりますので、そこからお話を開始していきたいと思います。稲作に関しては、ご多分に漏れず、佐藤洋一郎氏の著作に多くを負うこととなります。

稲の伝播ルート-3.jpg

現在、アジアにおける稲の栽培品種としては、大きくジャポニカ米、インディカ米、ジャバニカ米の三つに分類されます。ここではジャバニカを省き、ジャポニカとインディカ、特にジャポニカ米について述べていきます。

今月の書評-50」でも書きましたが、ン十年前に一世を風靡した稲作の「照葉樹林帯発祥説」は、現在では吹っ飛んでしまいました。これは、長江中下流域の、より古い地層から、炭化米を始めとする明白かつ大規模な水田稲作の跡が見つかったからです。

このような考古学的証拠から、「水田稲作はおよそ1万年前の長江中下流域で始まった説」は、現在幅広い支持を得ています。

ここで一つ、水田稲作の太字にご注意ください。

おそらく、九分九厘の確率をもって、水田稲作が長江流域で「発明」されたのは間違いないと思います。
けれどもそれは、水田稲作で用いられた稲もまた長江流域が起源であることを直接的に意味するものではありませぬ。

近年のDNA分析による結果から、ジャポニカ米の原種はオセアニア北部~ニューギニア~インドネシア~フィリピンにまたがる東南アジア地域で生まれた、と考えられるようになってきました。
いわゆるスンダランド~サフルランドに起源を持つ、と大雑把に言ってもよいかもしれません。スンダランド~サフルランドに関しては「今月の書評-3」をご参照ください。

これらの広大な大陸棚は1万年前前後の最終氷期の終了に伴ってジリジリと海面下に沈んでいった訳ですが、そこに住んでいた住民は、海面の上昇に伴い、あるものは北へ、あるものは南へと移住していったと考えられます。当然そのとき、彼らの生活のたつきもまた、共に北進南下していったことでしょう。

で、水田稲作が北九州で始まる前、縄文時代人もまたすでに、稲作をしておりました。