喜源テクノさかき研究室: 2021年4月アーカイブ

今月の書評-115

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さて、魏志倭人伝の中でも、研究者の間でほとんど異論の見られないいくつかの記述を以下に列挙してみます。

● 卑弥呼は「姫の命(ひめのみこと)」を意味し、個人名ではない。
● 朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国にたどり着くには、まず海を渡り、対馬(つしま)~壱岐(いき)を経て、末盧国(まつらこく:佐賀県松浦市)に到着する。その後、伊都国(いとこく:福岡県糸島市)を経て奴国(なこく:福岡市)に至る。
● これらの国にはそれぞれ王が居るが、いずれも邪馬台国の統治下にある。
● これらの国々の多くは千戸から数千戸の人家を有するが、奴国は二万戸を有する比較的大きな国である。また、ここから船でしばらく行ったところには投馬国(読み方にはいろいろな説があるので、あえて今は記載しません)があり、これは五万戸以上もの人家がある大きな国である。さらにそこから結構な距離を行ったところに邪馬台国があるが、ここには七万戸の人家がある。従って、国の大きさは、邪馬台国>投馬国>奴国>その他、となる。

上記に異論を唱えるヒトはほとんど居ないと思います。たまに居るけど・・・。

次に、いくつかの異論はあるが、大勢(たいせい)妥当と認められている解釈を列挙します。

● 上記の国々の多くには中央(邪馬台国)から派遣された長官と副官が常駐し、長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)と言う。卑狗は取り合えず置いといて、卑奴母離は鄙守(ひなもり)であり、地方を守る役職、という意味である。
● 特に伊都国は半島からの使者の玄関口であり、ここには先の卑狗や卑奴母離とは別格の、強力な権限を持った役人が派遣される。彼は定期的に北九州域を検察し、邪馬台国に謀反致さぬように常に目を凝らしているので、北九州諸国はこれを恐れ憚(はばかって)っている。

その他、邪馬台国の人々の特徴や習慣、風土や因習などの記載、魏とのやりとりなどに関しては取り合えず置いといて、地理学~地誌学的な点から大きな論点のあるところを列挙します。

● 奴国から少し行ったところに不弥国(ふみこく)があるが、これが確定されていない。北九州、あるいは北九州に近い山口県のどこか、と主張される。
● 不弥国から船で20日くらい行ったところに投馬国がある。先に述べたように、読み方によって比定される地域が異なる。

人家数が五万戸もある点がヒントになる、と、個人的には思ってます。

そして、この投馬国を確定することで自動的に邪馬台国そのものも決まる、と思います。で、色々なヒトが色々な事を言ってますが、あ、なあ~るほど!という説を紹介し、加えてセンセお得意の妄想力を駆使し、ひどくきわどい説を展開してみようと思います。次回!


今月の書評-114

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「あ~~も~~ヤバイよヤバイよ!オリンピック、ヤバイよ!」
というカンジの第四波ですが、ワクチン接種もようやく始まりましたし、ナントか開催できそうかな?どうでしょうか?

何とも言えませぬが、池江さんらの気持ちを考えても、ここはナントか開催できるようになって欲しい!と考えてるセンセです。


さて、方位や距離をガン無視して考えた場合、邪馬台国の所在を決定するための最大の手がかりの一つが、まさにその名を表す邪馬台(ヤマタイ)ですたい!
じゃっどん、邪馬台なのか邪馬壱なのかで早速論争が生じますですばってん!

まずは簡単に、この問題の発生原因を見てみます。

そもそも現在伝わっている魏志倭人伝中の文字は、邪馬壹国です。
このという文字は、常用漢字におけるに相当します。
ですから、素直に読むと、「ヤマイコク」、あるいは「ヤマイチコク」となります。

ところがその後の後漢書ではの文字がに変わり、邪馬と記載されます。の文字は、常用漢字におけるに相当します。素直に読むと、「ヤマタイコク」、あるいは「ヤマトコク」となります。

以下、分かりやすく、常用漢字であるに直して書いていきます。

前にも書きましたが、後漢書の倭人の項は、魏志倭人伝からおよそ150 年後に魏志倭人伝を下書きにして書かれたものです。で、ほとんどの部分で、それこそコピペでもしたかのごとく、一字一句、同じ記載です。倭人に関する記載量に大きな違いがあるだけ、と言っても過言ではありませぬ。
で、そのような後漢書ですが、わざわざ文字を直して邪馬台国と書いてます。

なぜ直したのか?
直す必要があったから、直した。
というのが、普通のヒトの合理的な感覚です。

じゃ、なぜ、陳寿さんは邪馬壱国と書いたのか?

実は、陳寿さんが本当にそのように書いたのかは分からないのです。
ただ、陳寿さんが書いた魏志倭人伝は、なが~~~い間、人の手によって「書き写された」ものが流通しておりました。印刷ではないのです!

で、これが木版印刷されたのが13 世紀くらいで、この時の印刷本の手本となった「書き写されて伝わっていた文書」の中では邪馬壱国と書かれていた。なので、そのまま印刷した、ということです。

で、書き写すヒトも当然間違えないように慎重に書き写していたに違いありませんが、神ならぬヒトの身の悲しさよ、当然写し間違いもあったであろうことよ。
さらには「取るに足りないあづまえびすの事柄」の部分においては、注意力も散漫となったであろうことよ。

ですから、ことによると、もともとの魏志倭人伝には邪馬台国と書かれており、後漢書を編纂した范曄(はんよう)さんは、これをそのまま書き写したに過ぎない、という可能性だって十分にあるわけです。

この場合は、陳寿さんの原本はその後にいつしか散逸してしまった、ということになりますね。

いずれにしましても、まずは何と言っても魏志倭人伝が書かれてからわずか150 年後の後漢書において邪馬台国と記されているという事実を考慮に入れると、仮に陳寿さんが万が一に邪馬壱国と書いていたとしても、後漢書が記載された紀元 4世紀のヒトにとってすら、「これは明らかな間違いである」と認識されていた、とみて間違いないと思います。

仮に「ヤマイコク」と読んだとして、いったいこれは何処の地を指すのか、かえって途方に暮れてしまいます。

これを「ヤメイコク」と呼んで、お茶と温泉で有名な佐賀県の八女市(やめし)に比定するヒトなどもおりますが、そんなことはヤメにしたほうがよかろう、とセンセなんぞは考えます・・・。




今月の書評-113

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さて、中国の正史の中で倭人について書かれているものの初見が、いわゆる魏志倭人伝です。
正式には、三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)の中の一項目、という位置づけなります。
陳寿(ちんじゅ)という、西暦 233~297 年の間に活躍した西晋の官僚によって書かれました。卑弥呼さんと同時代の方です。

で、正史における倭人に関する初見が魏志倭人伝、ということになりますが、正史でなければ、すでに「今月の書評-86」に記した王充(おうじゅう:西暦25 年~1 世紀くらい)の論衡(ろんこう)など、倭人に関して書かれたものは他にもいろいろあります。

じゃ、正史ってなに?ということですが、次々と変わる中国の王朝、これらはしばしば直前の王朝を攻め滅ぼしたあとに自らを立ち上げて作られますが、これら新たに立ち上げた王朝が、前の王朝の歴史を委細事細かに筆まめに記して、「これが正しい歴史です!」と、自らの正当性をアピールするものが、正史というものであります。

従いまして、基本的には正史は王朝順に書かれているはずですが、いわゆる魏志倭人伝の場合、どゆわけか陳寿さんが魏志倭人伝を書いた後に正史「後漢書」が書かれまして、そして、後漢書の中にも倭人伝が登場します。魏の前が、漢です。もちろん!

で、正史の場合、新しい知見が加わらなければ、前の時代の正史の文が、基本、そのまま引用されたりします。従いまして、後漢書の中の倭人に関する文は、その多くが魏志倭人伝からの引用になります。実際に読んでも、ほとんど同じです。従いまして、こういう点から言っても、陳寿さんが書いた魏志倭人伝は歴史的資料価値が高いのです。また、卑弥呼ちゃんと同時代という点にも、意味があると思います。

で、実際に両者読んでみました。白文で。嘘です。

ほとんど同じでした。
でも、いくつか異なる点がありました。
それはやっぱし、方位です。
いわゆる狗奴国(取り合えず「くなこく」と読んどきます。例の、邪馬台国と仲が悪い国です)の方位が異なります。
後漢書では狗奴国は女王国の東の海の彼方に存在しますが、魏志倭人伝では狗奴国は邪馬台国の南に位置します。

また、後漢書では、魏志倭人伝でこまごまと書かれている例の邪馬台国までの道のりの記述が一切省かれてます。

また一方で、例の侏儒国(こびとのくに)と黒歯国(くろいはのくに)の位置は両者共に邪馬台国の南の果てに指定されており、さらに、倭国の基本的位置に関しては、これも両者共に「おおむね、会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東にあり、海南島に近い」と書かれてます。

後漢書の倭人伝を書いたのが南朝宋の范曄(はんよう・西暦 398~445 年)ですから、陳寿のおよそ150 年後、ということになります。
この 150 年の間に陳寿さんの方位に関する記述の間違いが改められたのかどうなのか、ホントのところは分かりませぬ・・・。
また、邪馬台国に至るまでのこまごまとした記述が全て省略されている点も、その後の「調査」から削除されたのかも知れませんが、これも、ホントのところは分かりませぬ・・・。

けれども両者共に、倭国は相当に南に位置する、と考えていたことは明らかです。会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東」というのは、緯度にするとおおよそ北緯26° くらいの現在の福建省の福州市、沖縄本島と宮古島の間くらいになります。

「海南島に近い」ってえのは何をかいわんや、かと・・・。

中公新書 2012 年初版の渡邉義浩というヒトが書いた「魏志倭人伝の謎を解く」という本が手元にありますが、彼が言うには「陳寿さんは儒教の理念に基づいて書いたため、このような記述となった」とのことですが、穿ちすぎ(うがちすぎ)だと思います。
単に、方位測定技術が未熟であったから、この程度の認識しかなかった、というのが正解だと思います。
あるいはまた、「取るに足りないあづまえびすの事柄」なので、大した注意を払っていなかった、というのが本当だったのかもしれません。

要するに、魏志倭人伝に描かれている方位から分かることは、
倭国は東から南の海の方にあって、北西の砂漠の方じゃないよ!
くらいのものです。
ですので、方位や距離なんかで邪馬台国に関して頭を悩ます必要はなくって、その他のもっと確実なことから推定する方がよっぽど賢いと思います。






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