喜源テクノさかき研究室: 2020年11月アーカイブ
続きです。
前回、紀元前後にはすでに現代日本語の元となる言葉が話されていた可能性を指摘しましたが、それでは菜畑遺跡や原山支石墓群が作られた紀元前1000 年頃に列島に渡ってきた倭人はどういう言葉を話していたのか?
答え:「全く分かりましえ~ん!」
日本語の言語学的位置や現代韓国語との関連などに関しては「今月の書評-73~82」にかけてお話してきましたが、今一度おさらいしておきます。
そもそも倭人はオーストロアジア系(O1b2)に属していたわけである。
従って、基本的にはベトナムなどの東南アジア系の諸言語のいくつかと
同じルーツを持つはずである。
↓
その後に漢族(O2)とハイブリッドを形成した。
また、周王朝の貴種を先祖に持つ呉国に属していたわけであるから、
この時代、公的言語としての漢語にも影響を受けたであろう。
↓
その後に朝鮮半島南部に移住した。
そこには先住者として満州系のC2とツングース系のC2が居た。
彼らの言語は、これまでの倭人が話してきた言語とは
文法体系が全く異なるものであった。
加えて、満州系言語とツングース系言語の両者も、何かと異なっていた。
一つ二つ三つという数の数え方から、
倭人は半島北部から西部にかけて話されていた
満州系の流れをくむ言語の影響を受けたと考えられる。
↓
倭人が日本列島に移住する前、半島南岸部で、
たぶん、数百年くらいは過ごしたであろう。
この地で、この時代に、根本的な言語変化が生じたと思われる。
↓
紀元前1000 年くらいに縄文人と出会って以来、
縄文人の言語も取り入れたことであろう。
但し、それが何であるか、皆目分からない。
↓
列島に拡散すると同時に、半島南岸部の橋頭保は確保し続けた。
従って、当面、半島からの影響は途絶えることはなかった。
その結果、言語も半島からの影響を受け続けた。
↓
列島での版図が拡大するにつれ、倭国は強大となっていった。
この時代ともなると、半島から一方的に影響を受けるのではなく、
逆に半島に影響力を及ぼすようになっていった。
↓
この頃、すなわち古墳時代には、
倭語は、現代日本人がほぼ理解できるほどに、確立したものとなった。
ま、本当かどうかは分かりませぬが、本人はこんなカンジで考えてます。
で、この流れで考えるならば、倭人が初めて北九州に上陸した紀元前1000 年頃には未だ流動的な倭語が話されていたと思われます。
で、半島南岸部での各種部族との交流の中で倭語の根幹が整えられ、沖縄に「あまみん」が移住する頃にはすでに明白な倭語となり、大和政権が確立される頃には現代日本人が諳んじ(そらんじ)ても意味と情緒が通じる和語となった、と考えています。
●倭人は列島移住の当初から今とさほど変わらぬ倭語をしゃべっていた?
という問題について妄察していきます。
「今月の書評-35」の冒頭で柿本人麻呂の和歌をあげましたが、現代の我々でも注釈なしですんなりと意味が分かります。
意味だけじゃなくて歌の「情緒」まで共感できるという・・・。
「ナカナカスゴイことであるなあ」などと、センセなんぞは思います。
「今月の書評-36」ではアイヌ語の歌と沖縄語の歌を載せましたが、アイヌ語が現代日本語とは相当に異なる言葉であるのに対し、沖縄語は本質的に現代日本語の一分派であることも分かってもらえたと思います。
沖縄の形成~推移に関してはそのうちお話する予定ですが、今ここで重要な点にちょっと触れておきたいと思います。
それは、沖縄には大和政権の影響力が全く及ばなかったことに加え、沖縄の住民も大和政権に対して何らの関心も抱いていなかった、ということです。
もちろん交易はあったでしょうけど・・・。
「今月の書評-99」で述べた「あまみん」、漁猟の民のことですが、これに関連する言葉を辿っていくと、天草~奄美大島~あまみきよ伝説などがあげられると同時に、考古学的証拠などから、この流れが北から南へと伝わったことが確実視されています。
で、沖縄の宗教には原始神道と相通じるものが濃厚に存在する一方で天皇家に関連する祭祀の類が全く見られない点からも、沖縄には大和政権の影響力が及んでいないことが明らかです。
ということは、沖縄の「あまみん」はヤマトが奈良で政権を樹立する以前に本土から分かれ、定住したことを意味します。
確かな年代は未だ分かっていないと思いますが、考古学的時代区分で言うところの「沖縄後期貝塚時代」あたりかと思います。ざっと言って、紀元前後かと・・・。
で、沖縄語が日本語の分派であるのは明らかですから、ということは、柿本人麻呂さんが話していた言葉と本質的には変わらない言葉が紀元前後にはすでに話されていた、ということを傍証することとなるわけです!
「今月の書評」も今回で100 回となりました!
で、なかなか終わりませぬ・・・。
コロナも第三派で拡大中!
これもナカナカ終わりませぬ・・・。
センセの実験も三歩進んで二歩下がるの繰り返しで、
いつ終わるのか見当もつきませぬ・・・。
困ったものだ・・・。
ということで、倭人です。
●呉の滅亡よりもはるか以前に、倭人の一部が半島南部に移住した。
と、「今月の書評-98」で述べましたが、その理由を述べていきます。
これまでの議論から、水田稲作技術はまずは半島南部に伝播し、その後に列島と半島北部に伝播した可能性を指摘しました。そしてその古さを考えると、呉の滅亡とは無関係であることは明らかです。
今回は、朝鮮半島に数多く残る支石墓について考察を加えることによってこの考えを裏打ちすると同時に、その後の倭人の展開について考えていきたいと思います。まずは半島の支石墓の図です。
これは「今月の書評-82」に載せた支石墓の分布図ですが、黒丸の密度からも明らかなように、南方型のものが浙江省~江蘇省沿岸から大挙して押し寄せてきた人々によって作製されたことが見て取れます。そして大事な点は、これらの支石墓の年代が長崎県で見られるものと比べて相当に新しいと考えられている点です。
支石墓の正確な年代測定はナカナカ困難であるようですが、ともかくも現時点で考えられている年代としては、長崎の支石墓群は菜畑遺跡とほぼ同じ紀元前1000 年くらい、一方の半島南岸部のそれは、ウイキによれば、紀元前500 年くらい前、と見積もられています。
長崎県の原山支石墓群 まっぷるトラベルガイドより https://www.mapple.net/spot/42000016/
「今月の書評-82」を書いた時点では長崎の支石墓群と半島南岸部のそれらとを同列に捉えていたので「半島南岸部の支石墓群の年代は紀元前500 年よりも古いであろう」と思っていたのですが、色々考えているうちに、「いや、そうではない!長崎のものと半島南岸部のものとは別の部族によるものだ!」と考えるようになりました。そしてそれを手掛かりとして色々想いを巡らしているうちに、一つのシナリオが頭にひらめきました!以下、例の妄察です。
1)倭人は水田稲作技術、素潜り漁を伴う漁猟、そして南方型支石墓形式のお墓という三点セットを伴って、紀元前1000 年よりも前に半島南岸部に移住した。その数は多くはなかった。
2)当初は半島南岸部に薄く広く住んでいたが、その後徐々に呉の版図から移住してきた他部族(鳥越憲三郎氏言うところの広い意味での倭族)に押され、南西岸から南東岸、現在の慶尚南道辺りに居を移す。
3)ここで北九州~対馬~慶尚南道のラインを利用していた縄文人と遭遇!同じように入れ墨だの抜歯だのしていたおかげで、両者はすぐにお友達となる。で、縄文人に列島へのルートを教えてもらって水田稲作技術と支石墓形式のお墓を北九州に持ち込む。これが紀元前1000 年くらい前のこと。
4)倭人は、列島が半島に比べて水田稲作~漁猟により適した土地であることがすぐに分かった!だもんで、列島を足場にして勢力を伸ばすことを決意!
5)一方で、先進的な技術は常に大陸~半島からもたらされるので、慶尚南道に築いた拠点の確保には全力を尽くすことを決意!
6)その後、呉国が崩壊。版図の住民が大挙して半島南西部に押し寄せる。さらにその後に越国も崩壊し、同様に難民流入。ここに半島南部は小国家が林立し、北方の勢力や半島東岸の勢力も加わって大混乱!
小国の王は、もろびとこぞりて ♪ 自らの支石墓を建立する。
7)一方の倭人は、慶尚南道を何としても死守する決意だ!この当時、列島に移住した倭人にとって、慶尚南道は自らのルーツの一つであり、「第二の故郷」と認識されるようになった。時が経つにつれ、「第一の故郷」である江蘇省沿岸部は忘れ去られるようになった・・・。
このように妄想すると、その後の大和朝廷の朝鮮半島に対する認識~関与などもすんなりと腑に落ちるようになる、と考えてます。
加えて現在の沖縄の形成に至るルーツも、この妄想から紡ぎだせるとも思っています。
暑い暑いとヒーヒー言っていたのがウソのような11月最初の連休の坂城ですが、
みなさまいかがお過ごしでしょうか?
アメリカ~ヨーロッパではコロナは沈静化するどころか年初を大きく凌駕する勢いですし、日本でも縮小傾向が全く見られない情勢ですが、坂城のセンセは今年最後のチャンス!とばかりに太郎山から大峰山~水晶山~芝峠まで縦走し、最後は遭難するという、相変わらずのお目出たいオチのついた連休を過ごしましたので、ご報告いたします。
天気は薄曇りで、明日は雨とのこと。
本日を逃せば今年はチャンスなし!
気持ちを奮い立たせるべく、BGMはディープ・パープルの「Highway Star」だっ!Sina の叩くドラムを聴いてくれっ!!!ついでに「Sunshine of your Love」、「White Room」、「Light My Fire」を上げとくから、彼女を胆嚢、じゃなくて堪能してくれっ!ついでにジンジャー・ベイカーの冥福も祈ってくれっ!!!
ついでにSina、俺と結婚してくれっ!!!
太郎山林道はここまではフラットで走りやすい。
ここから分岐して頂上に向かうが、急坂のつづら折れが連続する。
三年前は半ばに至るまでに二回コケ、俺の心もつづら折れた・・・。
どうしても写真では高低差が反映されないネ!
途中の「わだちの小道」。
到着!
KSRのエンジン、アイドルが低すぎるのかナンなのか知らないが、回転数が落ちるといきなり停止する!最悪!!!
出発時もナカナカエンジンがかからず、チョークを引き引きキック!キック!とセルの繰り返しで、「バッテリーが上がりませんように!プラグが被りませんように!」と祈りながら真っ当にエンジンがかかって温まって出発するまで、ナント20分もかかってしまった!
このつづら折れを登る際も、エンジン停止が怖いので、ひたすら回転数の維持に努めた。そこに注意が集中するので、恥も外聞もなく、本当にバタバタと登ってきた。
で、さすがに一度もコケることもなく走破できたのは幸いであった。
研究所を出発したのが9:40、頂上に着いたのが10:20 でした。
ここでKSRクンを停め、登山靴に履き替える。
ブーツもヘルメットもウエストポーチも全部そのまま。
ギアをローに入れてハンドルをロックしてサイドステップを確認して、いざ出発!
太郎山山頂を迂回して、直接大峰山に向かう経路を歩き始めた。
ほどなく稜線に至り、看板通りに左へ。
ここらはちょっとした広場となっている。
だそうです。
「つつじの乙女」、ググってくだされ。
で、ここから立派な道沿いに下ってはいけませぬ!
センセは間違えて下ってしまった・・・。
下るとこんな看板があった。
「ナンカ変だなあ~。これではこのまま真田方面に降りるのではなかろうか?」
と思って引き返すと、向こうからヒトが来た。
で、訪ねてみると、やはり間違い。
「つつじの乙女」看板のすぐ左横に大峰山稜線に向かう道があった!やれやれ・・・。
ここから臨む北アルプスの峰々。
薄曇りなので画面も今一つですが、眺望は良い。
ここが大峰山へと向かう稜線の入り口。
両脇にテープが延々と続く。
登山者が道を誤らないためのサービスかと思いきや、松茸どろぼう除けの結界であった・・・。
稜線は左右が狭く、ハッキリ言って、怖い!
特にここが難所。
研究所の二階からも見える「地獄谷の大崩れ」の一番目だ!
「坂城散歩道-13」の最後の方の写真に、外観が写ってます。
ホント、左に踏み外すと、たぶん、相当な確率で、地獄行きだと・・・。
「ブラタモリ:坂城町編」は、これでは到底無理だネ!
大崩れの二つ目の道。
ここを抜けると、こういうカンジの稜線が続く。
この先、道は、山の右斜面をトラバースする形となる。
ここから傍陽(そえひ)~真田方面を臨む眺望がすばらしかった!
正面の山は、右が四阿山(あずまやさん)、左は根子岳(ねこだけ)だと思う・・・。
紅葉の絵をもう一枚。
稜線に戻ると、坂城町側からの送電線が走っている。
ここを下ると「坂城散歩道-14」で紹介した大久保林道に至るようだ。
ただし大久保線、数年前から、センセのような善良なる一般町民には常時閉鎖となっている。
なぜなんだ??
さらにポクポク登っていくと、あの有名な鳥居が出現!
祠(ほこら)が二つありました。
で、財布をかき回すと小銭がじゃらじゃらあったので、半々に分けてお供えし、心を込めてお祈りしました。
一つ、「クマに出会いませんように!」
二つ、「帰りの道で、大崩れの崖から落ちませんように!」
三つ、「実験が上手くいきますように!」
四つ、「コロナが早く終息しますように!」
五つ、「Sina と結婚できますように!」
六つ、「トランプもうらやむようなお金持ちになれますように!」
七つ、八つ、九つ・・・・・・・。
まだまだ祈り足りない信仰心の篤い敬虔なるセンセでしたが、お腹もすいてきたので、早めに切り上げました。
しばらく歩くと、目的の大峰山山頂に到達!
時刻は11:45 でした。
で、ここで昼食。
恒例のお弁当の写真は今回から省略!
いつもと同じです!
大峰山山頂より蓼科方面を臨む。
本日は写真の左側にうっすらと富士山が見えました!
でも、写真では分かりませぬ・・・。
で、当初の予定ではここから引き返し、後日に芝峠~水晶山~大峰山を結んで全ルートを完走するはずでしたが、時間的に余裕がありそうなので、一気呵成に芝峠まで踏破することにしました。
・・・これが間違いのもとであった・・・。
大峰山から芝峠に至る道は、特段面白くもない。
こういう看板を経て・・・
ここに至った。
で、ここからさらに下りの道が続いている。
で、ここでひらめいた!
たぶん、この道を下ると、前回、堂叡山から下ってきた林道にぶち当たるのではなかろうか?そして林道からの芝峠入り口の看板が分かりづらいために(実際のところ、あるかなしかも定かではない)、見落としたのではなかろうか?
で、本来であればこの道を下って確かめるべきであるが、時間も迫っているし、これは諦めてここから引き返しました。
で、帰り道、20メートルくらい先の目の前にカモシカが!
実は本日、太郎山をKSRで登っている最中、黒毛の比較的大型の成獣に出くわした。カメラを向けたら逃げ出したが、特徴から言って、同じ個体であろう。
今回は逃げ出さず、近づいてもまだ見てる。
で、逃げるとき、「ピュッ!」と鼻に抜ける声を出して去っていった。
カモシカの鳴き声、初めて聞いた!
ところがこのカモシカ、その後も何度も先回りして、こちらを待ち伏せする。
結局、総計5回もにらめっこする羽目に陥った。
去る時には必ず「ピュッ!」と鼻声を出す。
ナンカ意図があるのだろうか?
ことによると、このカモシカはメスの成獣で、センセをストーキングしているのではなかろうか?
実は今回、縦走の先々でマーキングを施してきた。
生理的必要性もさることながら、クマ除けのためでもある!
科学的証拠はありませぬが・・・。
で、センセのヤツは至って強烈なので、クマが避けるのは無論のこと、カモシカ嬢にとっては誠に心の乱される香りとなったのではなかろうか?
あの「ピュッ!」という鼻声には、
種を超えた深い意味が隠されているのカ?モシカして・・・。
大峰山山頂付近にはサルオガセなどの地衣類が多い。
また、地面にはスギゴケも多く見られる。
坂城は全国でも有数の少雨地域であるが、大峰山あたりには雲がぶつかって比較的高い湿度が保たれるのだろうか?
写真はハナゴケだと思います。コケではなくて地衣類です。
で、ポクポク歩いて大峰山山頂を過ぎ、例の鳥居もとりい過ぎて下っていったが、どうも様子がおかしい・・・。
このまま下っていくと、どう考えても傍陽方面に降りてしまう・・・。
で、鳥居のところまで引き返し、左に折れずに峰をそのまま下って行った。
このまま行けば、例のトラバース道に出るはずだ・・・。
とりあえず道らしい道はあるので、そんなに心配せずに下って行った。
しかしながら、どうもおかしい・・・。
いくら歩いてもトラバース道はおろか、例の送電線の場所にも行きつかない・・・。
で、時間的にも体力的にも、再び鳥居まで戻ることも出来ない・・・。
もはや4時に近い・・・。
間違っても傍陽側に下ることだけは避けたいので、太陽の位置を確認し、頭の中で色々方位を考えた結果、この道を下り続ければ少なくとも坂城サイドに出る、坂城側の何らかの林道に遭遇する可能性がある、と結論した。
この時点で、太郎山頂上に戻ることは諦めた。すなわち、KSRクンには一人で夜を過ごしてもらうことに決定した。
で、道は相当に獣道じみてきたが、とりあえずは「道」であるので、命の心配まではしなかった。心配したのは、「やれやれ明日は太郎山頂上まで徒歩で登ってKSRを回収しなくてはならぬワイ・・・。」という点であった。
で、最終段階になって獣道が急になったと思ったら、眼下に林道が見えた!
しかもコンクリート製で、さらにはカーブミラーまで付いていた!
最後は滑り落ちるようにして林道にたどり着いたが、経験から言って、恐らくこの林道は「坂城散歩道-14」の大久保線ではなかろうか?と考えた。
この時4:30。日はすでに西方の峰々に没せんとしていた。
ま、この時点で確実に命は助かったので、比較的お気楽に下って行った。
途中の光景も記憶にあるものが多い。間違いなく、大久保線であろう。
で、この光景に出くわした。大久保線である。
写真の右上に、例の「地獄谷の大崩れ」の一つが写っている。
昔、右の道は草ぼうぼうの小道であったが、新たに林道を作っているようだ。
で、オフライダーを代表してセンセからのお願い。
「舗装しないでそのままにしておいてください!」
で、そのままポクポク降りていって5時過ぎには研究所にたどり着いた。
帰路は一方的な下りなので、大いに助かった。
そのままジムニーに乗ってA-COOPでお寿司を買って夕食としたが、およそ7時間の山歩きで足腰はパンパン。
翌日KSRクン救出のために再び太郎山に登ることを思うと、ナカナカに気の重い夜を過ごしたのであった・・・。
以下、本日のルート。
例によって赤は舗装路、青はダート、薄緑は歩きの往路、深緑は遭難路です。
ずいぶんと歩いたもんだワ・・・。
翌日は、この赤い道と青い道を徒歩で登るのである・・・。
で、思ったのが、あれだけお賽銭をあげて(総計100円ともなろうか!)信心深くお願いしたのに、何ゆえにこのような目に会うのか?!
と、よくよく考えると、お願い事の二番目、「帰りの道で、大崩れの崖から落ちませんように!」と願ったが為に、大峰山の神さまは「地獄谷の大崩れ」を歩かせまいと、敢えて別ルートを選択したに違いない!なるほど、大峰山の神さまは非常に合理的なお方だっ!
・・・で、翌日となった。お話はまだまだ続きます!
月曜の朝は前沢さんが出勤している。
センセはこの日の月曜はお休みとしていた。
朝9:00 に顔を出し、事情を話して「みやま園」まで車で送ってもらった。
そこから重い足を引きずりながら歩き出したのが9:30 。トホホホ・・・。
太郎山林道は入り口から陣馬平林道との分岐点までの舗装路は結構きついが、ほどなくフラットになることがバイク走行から分かっていたので、ま、そんなに心配はしてなかったけどね!
それよりも、本日は朝から小雨。
予報によれば、午後からはさらに雨脚(あまあし)が強まることも予想されたので、そちらの方が心配だ。だもんで、雨合羽その他、雨対策は万全だ。
まあ、きついことはきついが、これもまた人生の数ある酔狂の一つだとお気楽に考えることにして、鼻歌の一つでも口ずさみながらポクポク登って行った。鼻歌はニール・セダカの1974 年のヒット曲、「Laughter in the Rain」だっ!
小雨にそぼ濡れるヨメナの花。
と、目の前20メートル先に、体長50cm くらいの動物がモソモソしている。
見たところ、丸々太ったタヌキの成獣だ。
林道の道端で、たぶんミミズ探しに熱中しているのであろう。シャッターチャンス!
結構近づいても気づかずにモゾモゾしている。
さらに近づいてもう一枚。10メートルくらいか。
ようやく気付いて一目散!
タヌキと言えば、一昨年の夏、研究所の前の小庭のムクゲの木の下に、小さな動物が潜んでいるのを発見した。
最初はどうせネコか何かだろうと思っていたが、逃げもしないでじっとしてる。
顔を突っ込んでよくよく見れば、どうやらタヌキのこどもらしい。
親とはぐれたのだろうか、とにかくじっとして逃げない。
お腹を空かしているのだろうと思い、アパートからウインナーと牛乳を持ってきて、容器に入れて木の下に置いて様子を見てた。
実験があるのでその場を離れ、翌日に容器を調べると、見事に完食していた。
で、また来るかと思ってウインナーと牛乳を入れておいたが、その後は再び来ることはなかった・・・。家族との再会を果たしたのであろう。
で、歩き続けて例の分岐点に到着したのが11:00 丁度。
ここから急坂を登らなくてはならない・・・。
この急坂を楽に登るために購入したKSR110を救出するために、今、大変苦労して急坂を登りつつある・・・。
一体、俺は、何のためにKSR110 を買ったのだ???
いや、もちろん、KSRクンには何の落ち度もありませぬ・・・。
で、八重(やえ)のつづら折れの最後を曲がると、おおっ!あそこにあるのは!
無事であったか、KSR!
この時11:30 。
分岐点から30分かかりました。
そぼ降る雨とカラマツの落ち葉にまみれてはいたが、指一本触れられていないようだ。カラマツの木の下に置いといたおかげで、ブーツやゴーグルもさほど濡れていない。良かったあ~!
で、カンジンのエンジンであるが、キーをONにしても、なかなかニュートラルが出てこない。よくある話。で、ようやくニュートラルのランプがついた。で、慎重にキック!今回は一発でかかった!かかったエンジンが止まらないように十分に暖気運転をした後、小雨そぼ降る泥土の急な下り坂を降り始めた。
BGMは、ドアーズの1971 年のヒット曲、「Riders On the Storm」である・・・。
やはりエンジンが心配で、なかなかスムーズな下り走行とはいかなかったが、ともかくも泥土に転倒することもなく、ナントかフラットな所まで降りられた。
これ以降はフラットな直線区間も多いので、そこでは三速にも入れることができる。「林道、楽しい~~~っ!」てえのが、こういう区間です!
で、ナントか無事に帰宅できました!ヤレヤレ・・・、なんてえ連休でいっ!
で、本連休中に一応の完成を見た坂城縦走路ですが、正確に言うと、芝峠から峠の直下にあると思われる林道までの数百メートルくらいの道が貫通していない。
また、前回もお話したように、堂叡山の山頂から本来の稜線を歩いて芝峠に至る道も未踏である。
各林道の関連性をもう少し追及したいので、来年はここら辺を課題として取り組んでみたいと思います。ドタドタバタバタではありながらも、何と言ってもKSRで太郎山山頂まで登ったのであるから、「坂城町の全ての林道を踏破する!」ことを来年からの課題として、新たな挑戦の年を迎えたいと考えています。
ただし、つい先月も水晶林道で70歳台の男性が遭難死したばかりであり、低山~里山といえども気を抜くことなく、もっと準備を整えて、安全にも安全を優先し、カッコつけることなく、じみ~であっても確実に目的を達成するにはどうしたら良いか、そこらへんを十分に考えて行動すべきであると、今更ながらに気を引き締めつつあるセンセでありました!
ではっ!