2021年5月アーカイブ

今月の書評-120

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   しとしとと
       雨が降る日も晴れもある
                梅雨か否かは
                    つゆも分からず 雅仙



さて、懐かしの図を以下にご覧ください。

クロボク土の分布.jpg
縄文遺跡の分布.jpg
これらの図は、まさにセンセが「今月の書評」シリーズを書くきっかけとなったものです。「今月の書評-2」に載ってます。

で、このクロボク土の起源が「縄文人による草焼きの跡だ!」と喝破したのが、山野井徹氏でした。覚えてる?

で、このクロボク土の分布と縄文遺跡の分布とが見事に一致しているわけですが、縄文時代においては一般的に東日本が圧倒的に優位であったことから東日本において両者が広範囲に広がっているのは当然であるとして、人口希薄であった西日本で目立つ地域として、出雲、大分、南九州の三者が認められる点が重要です。

山野井氏によれば、ススキに代表されるイネ科の植物の長年にわたる人為的な野焼きによって、このクロボク土に覆われた地域が形成された、とのことです。当然そこには原始的な農業の萌芽も考えられますし、刈ったススキを住居の屋根ふきなどへ利用した可能性も考えられます。さらには草場の確保により、これまでの鬱蒼とした照葉樹林帯は見通しが良くなり、シカやイノシシなどの餌もかえって増えますので、これらの獣の狩場としての利用も大いに考えられます。

で、大分は別として、日本書紀や古事記、あるいは風土記などに記されている出雲や熊襲~日向の存在感の大きさ、さらにはその後の「足柄峠以東の地=あづま」の地域の奈良~京の文化に対峙する異質さを考えますと、まさに縄文文化を引き継ぐと同時に大陸からの新たな文化をうまく取り入れ、ハイブリッドとしての「弥生文化」を作り上げた勢力の存在と重要性を考えざるを得ません。

で、これらの三者ともに、「ここはもともとおらたちの土地じゃワ!」と主張した、それが「い・TM」と、「あ・TM」と、「さ・TM」という現在の地名として残った、と、大いなる妄想に耽る(ふける)センセでありました。



因みに、足柄のガラって何?強羅のゴラと関係ある?
ひょっとして・・・。





今月の書評-119

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ワクチン接種の予約ですが、混んでいて一向にヒットしませぬ。
で、ようやく予約状況サイトを開けることができましたが、全部埋まってました。

なんやねん?


さて、古事記や日本書紀の中でも最も人気の高い逸話の一つに、あのヤマトタケルくんのお話があります。
十五六の少年が女装して熊の様なる熊襲の酋長の宴席に侍って媚を売っていちゃつく間もなく忍び刀を取り出して首を取るお話など山岸涼子あたりがマンガの題材にしてしまいそうな内容満載なわけですが、というか今調べたら彼女はとっくにマンガにしてしまっているようですが、読んでないけど、それにしてもヤマトの連中って騙し討ち(だましうち)の名人揃い!そんなのありか???

で、東奔西走の彼ですが、東国制圧のおり、浦賀水道から出帆した際に船が(舟と書くべきか)難破しそうになったので、彼の妻のオトタチバナ姫が水神の怒りを鎮めるために入水するという有名シーンがあります。
映画「大魔神」あたりに出てきそうな場面ですね!

で、めでたく東国制圧も完了し、ヤマトへの帰国の途次、古事記では足柄山で、日本書紀では碓氷峠でオトタチバナ姫を偲んで思わず発した我が妻よ!」という意味の言葉、古事記では「吾妻はや!」、日本書紀では「吾嬬はや!」ですが、に因み、以降は東国(とうごく)のことを「あづま」と呼ぶようになった、とのことでありますが・・・。

記紀においてはこの類(たぐい)のこじつけ話がやたらと多いわけで、中にはここに載せるのを憚られる(はばかられる)お話もあります。

で、この伝で言うならば、ヤマトタケルが峠で思わず「あ~背中が痒い(かゆい)!」と言ったので「甲斐の国」となったとか、出くわした蝦夷があまりにもむさくるしい連中だったので「むさくるしの国=武蔵の国」となったとか、いくらでも考えつけます。

で、それは良いのですけど、投馬国です。


「あづま」の「づ」は「づ」であって「ず」ではありません。なぜか。
「我が妻よ!」だからです。「あづま」が「あずま」だったら「我がスマよ!」となって、浦賀水道で水中に落としたスマホを嘆くお話となってしまいます。
従いまして、東国のことを「あずま」と振るのは間違いです。

で、投馬国はTM 国ですので、仮にこれが出雲であるとするならば、出雲は「いづも」であって「いずも」ではありません。自衛隊、聞いてる?

で、タケルくんの奥さんのような荒唐無稽なこじつけ話が出てくるということは、ここの地(足柄より東方の国々=関東地方)はタケルくんよりもよっぽど昔から「あづま」と呼ばれていたと同時に、タケルくんはその名前が何を意味しているのか知らなかった、ということを意味します。

じゃ、「あづま」は何を意味しているのか?
以下、妄想の嵐が吹き荒れます。

「あづま」の「あ」は「我が、私の、我々の」を表し、「つま」は「地、土地、なわばり」を意味する縄文語です!センセが勝手にそう決めました!
すなわち「あ・づま、あ・つま=我が土地」なり!やった~!解決!!!

で、この伝でいけば、投馬国は本来「い・とま、い・トウま、い・つま=我が土地」と連想できます。関東の「あ」と出雲の「い」は方言の違いです。

で、このような接頭語的に使われる「あ」とか「い」とかははっきりとは発音されなかったため、帯方郡からの使者は聞き取れず、自分たちが聞き取ることのできた音である投馬を記して国名とした、と言うのが真相です。 ← 自信たっぷり!

で、さらに調子に乗って似たような地名を探すと、あったあった!
それは「薩摩=さつま」である!!!

「さつま」の場合は「さ・つま」で、南九州の熊襲の連中は自分たちのことを「さ」と呼んでいた。従って、「あ」と「い」と「さ」は方言の違いである!



・・・それで良いのかって?


良いのです。
何となれば、「倭人」だって自分たちのことを「わ、わ、わっ~!」と、三ツ輪セッケンのごとく呼んでいたわけだし・・・。

で、次回は懐かしい図を載せて、西日本の縄文勢力が弥生文化の形成に果たした影響力について妄察したいと思います。





今月の書評-118

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今日も元気で腰が痛い!

で、舞台はいきなりアメリカに移ります。
アメリカの ♪ サンフランシスコ~とか、ニュージャージーとか、ニューヨークとか、皆さんよくご存じの地名かと思います。
で、サンフランシスコは聖フランシスコに因む(ちなむ)名前であり、ニュージャージーとニューヨークはもともと英国にあった地名のジャージーとヨークに因んで英国の入植者が付けた名前です。
さらに、ジャージーはジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)に因んだ名前であり、さらにさらに、皆さんが日常的に着ているジャージーもまた、これに因んだ名前だそうです。もちろん、ジャージー牛の名前の由来もここにあります。知ってた?

一方、マサチューセッツを始めとして、フロリダ、ミシシッピー、イリノイ、ユタ、カンザス、ケンタッキー、ミシガン、オクラホマ、ダコタ・・・きりがないのでオシマイとしますが、これらはみな、アメリカインディアンの言葉に因んだ地名です。もっとあります!

因みに、ハワイは、原住民であるポリネシア人の言葉に由来します。
以上、アメリカ大使館のHP からです。Thank You Americans !

で、センセが言わんとしていることは、もうお分かりかと思います。

あの、先住民をほとんど壊滅状態に追い込んだアメリカですら、これだけ多くの先住民に由来する地名が残っているわけです。いわんや日本においてをや!
ということです。

例えば、以前にも書きましたが、東北北部から北海道においては、アイヌ語由来の地名が数多く残ってます。
従いまして、恐らく、というか間違いなくと申しましょうか、我々の身の回りでごくごく当たり前のように口にしている地名やその他の名称において、縄文時代由来の言葉は数多く残っているはずです。しかしながら、それが何なのか、皆目分からない・・・。

その原因の一つ、というか主原因と言うべきか、が、「漢字」です。

表意文字である漢字と表音文字であるカナを混合した日本語の書き方って、すごく便利だと思います。手書きの場合、漢字って面倒くさい!と漢字る www こともしばしばありますが、PC が普及した現在、PC 付属のワープロソフトで書くぶんには痛痒を漢字ません。 ← しつこい!

で、日本語に漢字があるがゆえに、日本語には、ダジャレに代表されるような「言葉遊び」が、他国の言語と比べて、多いような気がします。センセもずいぶん利用させてもらっています。
中国では音を表すにも漢字を使用しなくてはならないため、皆さんご存知のように、コカ・コーラは大陸では可口可乐、台湾では可口可楽と記載されます。

ん?カコ・カーラ?

お隣の韓国においては、自ら漢字の使用を大幅に制限してしまったがゆえに、第三者的視点から見れば、かえって不自由になっているんじゃないかなあ~可哀そうだなあ~と、棒読みですが、感じてしまいます。

で、そんな漢字ですが、縄文時代由来の地名や言葉にも当てはめてしまった結果、取り合えず意味が通じることになってしまい、「もともとそうなんだ」と、現代の我々が疑問を持たなくなってしまった、そんな地名や言葉が多々あるのでは?と考えてます。

で、そのように古来より伝わる地名や風物に、「出来る限り美しい漢字をあて、その由来と共に逐一報告しなさい」としたのが、風土記です。
古事記も日本書紀も、恐らくは、これと同じ考え方に基づいて書かれているのでしょう。
記記紀が編纂された当時においては未だカナは発明されていなかったため、万葉仮名に代表されるように、音に対して漢字を当てはめる以外の方法がなかったので、これは致し方ありませんし、その結果、文書として残り、現代の我々の古代に対する知識も増えるわけですから、これはまずは一義的に大変よろしいことであると思います。
さらに言うならば、万葉仮名の使用法には一定の規則があるらしく、現代にあっては同じ音であっても万葉仮名では別の文字を用いて使い分けている事実があることから、古代と現代では、例えば同じ「はひふへほ」であっても実は異なった発音をしていた可能性が明らかとなるなど、当時の編者の意図を超えた歴史的効果が認められます。

で、記記紀においては、名前を残すだけでなく、それがどんなに荒唐無稽であっても、その由来までひねくり出した結果、逆説的ではありますが、その荒唐無稽さが返って怪しい!

で、次回、古事記や日本書紀の中でも最大に怪しいこじつけを例にとって、出雲について考えていきたいと思います。




今月の書評-117

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連休の真っただ中ですが、お天気が今一つ不順で、お出かけしていいものかどうか、迷います。加えて先日からひどい腰痛に悩まされ、起居もままなりませぬ・・・。

で、本日はこんなに良い天気なのに、ブルーなセンセはブログを書いてます・・・。

で、投馬国=出雲について考えていきますが、センセのいつものクセで、搦め手(からめて)からお話していきたいと思います。

風土記にせよ古事記にせよ日本書紀にせよ、読んでいてすぐに気づくことの一つに、とある地名に関していちいち由来を解説する個所が数多く見受けられる点が挙げられます。
これらの書物に関する研究は古来より数多く、それこそ「記記紀研究学学(きききけんきゅうがくがく)」が成り立つのではないのか?というくらいです。
しかしながら、上記の疑問、すなわち「なんでいちいち地名に関して由来を記そうとしているのか?」という点に関して疑問を抱いて解説している研究書って、見たことがありませぬ。センセが知らないだけなのかも知れませんが・・・。

記記紀での地名の由来解説を見てみると、合理的かつ妥当なものもありますが、「なんじゃ、そりゃ?」と言いたくなるレベルのものが相当数あります。

基本的には、人間の好奇心~因果律を求める生得的な心情が地名の由来を求める動機の根本にあるのは明白ですが、記記紀において頻繁に地名の由来の記述が出てくるということは、少なくとも記記紀が記されたその当時にはそれらの地名が存在していたと同時に、「何らかの説明を加えなくてはナカナカ理解できない名前であったから」、ということができるかと思います。

どゆことかというと、現代人にとって、「東京」という地名がどのような過程を経て決まったか、歴史書を紐解くまでもなく、小学校も高学年レベルであれば、すぐに分かると思います。さらには「自由が丘」とか「夕日が丘」とか。

あるいはもっとすごいのになると「南セントレア市」なんてものまであります。
幸か不幸か、あるいは幸か幸か、さすがにこれはお流れとなったようでありますが・・・。

いずれにしましても、こういう例に関しては、いちいち由来を説明する必要はない、と思います。

もすこし難度の高いものとしては、「銀座」、「国分寺」、「吉祥寺」、「新宿」なんてのが挙げられるかもしれません。中学生レベルですかね?
どうにも東京~関東の例が多くて恐縮ですが・・・。

これらは漢字の音(おん)読みの地名です。
すなわち、大陸からの書籍文化が流入~根付いた後に付いた地名であるのが明らかです。これらは取り合えず由来を説明できますし、その説明が妥当である確率は非常に高いと思います。

で、この調子でどんどん行きますと、日本の地名の多くが漢字の訓(くん)読みで作られ、しかも意味としても妥当なものが多いことに気づきます。
東京の例を挙げると、「荒川=暴れ川に面した地区」、「杉並=杉の並木があるところ」、「墨田=墨のように黒い田んぼがあったところ」等々。

で、まことに馴染みの名前であるが、今一つピンとこない地名として、「足立」、「葛飾」、「多摩」、「練馬」等々・・・。

これらのピンとこない地名に関しても取り合えず漢字が充てられているために、それを手掛かりとしてナントか由来をこじつけることはできますが、果たしてそれが妥当なものなのか、確信は得られないと思われます。

例えば「足立」の場合、「葦(あし)+立ち」などがより妥当である気がします。
東京の足立区は、本来、荒川流域の低湿地帯に位置するため、住宅地が無ければ葦が一面に生い茂るはずの場所です。
葦という漢字、「あし」とも「よし」とも呼びますが、もちろん「あし」の方が古くかつ正当な名前です。知らないお方はググってくだされ!

「練馬」に関しては、台地上でもあり、「馬の訓練場」という解釈で結構通じるかと・・・。

菅生沼-1.jpg
茨城~埼玉~千葉の県境の利根川流域にある菅生沼(すげおいぬま)
関東沖積地帯の原風景です。太古の足立区を彷彿とさせます。昔、よく釣りに行きました!
http://masaharus-eye.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/20090628-e7f4.html より。 
奇しくもセンセとお名前が同じ!


「葛飾」や「多摩」となると、ハードルがより高くなります。

いずれにしましても、これらのハードルの高い地名には、こじつけが必要となってきます。どうしても「意味」を知りたいとするならば、という前提付きで!

で、どう頭をひねっても分からぬものも多々あります。関東で言えば、「武蔵」、「富士山」、箱根の「強羅(ごうら)」等々。

もちろん、ネットを開けば色んな説が載ってます。けれども、いずれも、どうあがいても「決定的」であるとは思えませぬ・・・。


特に「富士山」!


日本を代表する霊峰であるにもかかわらず、多くの異名の漢字オプションがあること自体、怪しいです。加えてそのほとんどが音読みです!
「富士山」の漢字は取り合えず置いといて、代表的には「不二山」と書いて「二つとない山」という意味である、というのが常識的なプロトタイプの解釈ですが、そうなりますと、仏教やらその他、大陸書籍文化が流入後に偉いお坊様あたりが名付けた可能性が考えられます。

が、「そんなわけないジャン!」と、みんな思いますよね?

平安時代、あの、かぐや姫で有名な「竹取物語」では、多くの兵士が不死の薬を持参して富士山山頂まで登ったので、「兵む山=富士山」と名付けた、とのことですwww。この場合、「不死の薬の山=不死山」でもいいような気がしますがwww。

で、仮に、仮にですよ、その話がホントだとしたら、富士山は平安時代前の関東においては人々はその山を富士山と呼んではいなかったことを意味すると同時に、帝(みかど)の鶴の一声以降は、関東の住人は押しなべて従来の呼称を完全に捨て、一律に富士山と呼ぶようになり、従来の名称は、文献的にも伝承的にも完璧に消滅した、という展開となりますが、そんなわけないジャン!」!!!

富士山-2.jpg
フリー素材より。いつも美しいふじのやま!怪しいあやしいふじのやま!

以降、まだまだ続きます!








今月の書評-116

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センセのところにも「新型コロナ接種に関する重要なお知らせ」が届きました。
しばらく様子を見て、ヒトのうわさや報告を聞いて、そんで大丈夫なようだったらそろそろに打ってみるべい、と考えてます。慎重派、というよりも、本当は、面倒派でして・・・。

さて、邪馬台国確定のカギを握る投馬国ですが、昔からいろいろなご意見があります。以下、地図に候補地を載せてみたいと思います。
以下は、おおよそウイキでのご意見です。このほかにももっとあります。


とうまこくの位置-4.jpg
候補地の多くは、おおむね、投馬国(TMこく)の音と不弥国(ふみこく)からの距離をもとにして推定されたものだと思います。
で、宮崎県の西都市の場合は、西都市にある都萬神社(あるいは妻神社=TM神社)の音から考え出された場所です。
丹後(たんご、TG)が音の外れが大きいですが、残りは、基本、TMに合致してます。さつま=さTM、いずも=いづも=いつも=いTM、鞆の浦=とも=TM、たじま=TM、たんば=TM、というカンジ。

また、不弥国からは水行20日ということですので、北九州、あるいは山口に比定される不弥国からは結構遠いよ!ということから、上図で記した地域は、いずれも音と距離のハードルをパスしていると言えます。

で、水行20日=結構遠い、と読みます。厳密に考える必要は全くありませぬ!
また、方位に関しても、頭を悩ませる必要はありませぬ!

で、いずれにしましても、この時点で、いわゆる「邪馬台国北九州説」は全く成り立たないと思います。

仮に北九州にあったとして、中国の使節が船でゆらゆらと宮崎県西都市か、あるいは薩摩のどっかに着いたとして、そこからさらに船に乗ってわざわざ10日も逆行して、さらに1か月(あるいは、「船で10日、または陸路で1か月」のオプションあり)陸路を歩いて北九州に戻ってようやく邪馬台国に到着ということになりますので、「いくらなんでも大切な大陸からの使者をそのようにグルグルと連れまわすのは失礼極まるであろう!」と、センセは思います。
普通はしません、そんなこと。

で、これではまずい!というので北九州説の人々は色んな奇妙キテレツな説を繰り出してきますが、あまりにもキテレツ過ぎて「キテレッツのパー」と呼ばれるセンセなんぞですら全くついて行けませぬ・・・。

と、言うことで、残りの候補を検証していきます。
手がかりとなるのは、以下の2点です。

1) 船で行くので、港があるところである。
2) 人家5万戸もあることから、当時の大国の一つである。

1) の条件から、丹後が落っこちます。少し内陸ですので。残念!

で、残りの但馬と丹波と鞆の浦ですが、特に鞆の浦なんぞは名前といいロケーションといい非常に魅力的な場所なんですけど、残念ながら、三者とも、ここで脱落です。人家5万戸ほどの大国がこれらの地にあったという証拠が文献的にも伝承的にも考古学的にも全くかすりもしないので・・・。残念!

一方、北九州説は消えたとして、南九州説は未だ生きてるのでは?

この場合、西都市近くの港、現在の細島港あたりまでが投馬国の版図であり、細島港に船が着いた後には一ツ瀬川を遡上して西都市に到着。さらに山道をえっちらおっちら一ヶ月かけて登り、到着したところが高千穂町、というシナリオが描けます。
高千穂は神話の町ですし、今後もなにかと登場する可能性の高い場所ですし、また、驚くべきことに、高千穂町と境を接する熊本の町が山都町(やまとちょう)と言う名前なのです!

現在の山都町は2004 年の町村合併の際に公募で選ばれた全く新しい名前ですのでこれを直接に関連付けるのは不適当ですが、この地域は昔は肥後国 菊池郡 山門郷と呼ばれていたので、ことによると何らかのヒントが隠されているかもしれません。さらには、魏志倭人伝によれば、卑弥呼と対立していた国に狗奴国(くぬこく、くなこく)というのがありますが、これを「熊国、くまこく=くまそこく」と読む見方があります。そして、狗奴国の偉いヒトの名前が狗古智卑狗(くこちひこ)と魏志倭人伝に記されていることから、これを「きくちひこ=菊池彦」と読む見方があります。

お隣の国との仲が悪いのは昔も今も変わらないので、これは結構インパクトのある見方だと思います。

しかしながら、日本書紀などを読んでも、その後の時代の畿内ヤマト政権と南九州の熊襲国との間には紛争が頻発していたのが明らかですし、特に仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の時には腰を据えて九州征討を行っておりますし、さらには日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお話、ホントであるか否かを問わず、そのような伝承が存在していることから、仮に邪馬台国が畿内にあったと仮定して、2 世紀後半から3 世紀前半のこの時代においても、遠く畿内から南九州に向けて討伐軍を派遣することは不自然ではない、と考えます。

さらに言うならば、魏志倭人伝で倭国の女王国とまで認められていた国が、南であろうが北であろうが、九州のどっかにあったとしたら、古事記や日本書紀においてもそれなりの言及があってしかるべきだと思いますが、全くありませぬ!
邪馬台国が本家ヤマトとは全く別の国で、かつ魏志倭人伝に書き記されているがごとき派手なふるまいをしていたとするならば、本家ヤマトはその後に討伐軍を派遣して、さっさとこれを懲罰していたことでしょう。

景行天皇の軍が肥前の国(佐賀+長崎)で海松橿媛(みるかしひめ)や八十女人(やそおみな)という名前のオンナ頭目を頭に頂く一味(土蜘蛛、つちぐも)を討伐する話が肥前国風土記に出てきますが、これらのオンナ頭目を卑弥呼に比するヒトも、すでに江戸時代から、居ります。いくらなんでもこれらのオンナ頭目が魏に使いを送って真っ当に相手してもらったはずもなく、キテレッツのパーの最たるものであると思います。

要するに、卑弥呼の時代においては、「九州のオンナ酋長」が隣国の熊襲のオトコ酋長と小競り合いを演じることに地道を上げていた時代ではすでになく、この時代においては関東から南九州に至るまでの大きなくくりの中でみな共に「倭の国」であるとの概念がすでに生じており、各個に林立~対立し、乱れていた諸国をナントか一国にまとめるべきであるとの思いが共有されていたのであり、良かれ悪しかれ、それは個々の国々の利己的な思いを超えた自然の流れであると認めていたのだ、ということだと思います。

いわゆる、Manifest Destiny 、ということです。

熊襲と蝦夷は、これを最後までナカナカ認めなかった、ということでしょう。
もちろんそれには彼らなりの正当な理由がある、と思いますが・・・。


仮にこの山門郷の地域に人家7 万戸を有する一大国家が存在し、さらには一ツ瀬川下流域地域に人家万戸を有する国家があったとするならば、やはりもう少し伝承~文献~考古学的な証拠があって欲しいと思います。
有名な西都原古墳群はも少し年代が新しくなりますし・・・。

で、残念ながらこれもボツ!

因みに、南九州説には、さらに凄まじい奄美大島邪馬台国説!なんてえのもあります!!!

あたまイテ・・・。

個人的には、南九州に関してはもっと調べてみたいと思います。
何かを訴えているような気がしますので・・・。


で、以上、そうなりますと、投馬国の候補地としては、やはり出雲地方が最有力、ということになります。

次回はなぜ出雲か、をも少し深く考え、「キテレッツのパー」なるセンセの妄想を開陳してみたいと思います。




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