2021年2月アーカイブ

今月の書評-110

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さて、紀元前3 世紀頃ともなりますと、さすがに南関東太平洋岸にも水田稲作農法が伝わります。
また、岐阜~長野~北関東においても、河川沿いに水田稲作農法が広まっていきますが、これも一気呵成に広まるというわけではなく、ジリジリと、蚕食的(さんしょくてき)に広まっていったようです。
すなわち、狩猟採集+小規模な畑作を行いながら一定のエリアを移動しつつ生活していた集団の間に、あまり利用されていなかった河岸の平地~台地を切り開いて水田に作りかえて稲作をもっぱらとして生活した集団が混在していった、というカンジです。
これを裏付けるかのように、この頃の出土人骨なども、縄文形質を色濃く残す集団と弥生の形質を有する集団とがモザイク状に出土する様相を呈する、とのことです。

このようにして、徐々に本州は水田稲作農法が広まっていきます。以下、図を参照のこと。

稲作伝播 紀元前3世紀.jpgおおよそ紀元前3 世紀ころになりますと、南関東海岸地方に環濠を整えた水田稲作農法を専らとする集落が登場します。
このころには東北にはいち早く水田稲作農法が広まっていたわけですが、地方によって違いも見られます。従いまして、日本海側を通って青森まで達した水田稲作農法が南下して拡散していった可能性と、関東まで達したものが海路で一気に仙台平野に伝播した可能性と、両者が考えられると思います。


水田稲作伝播 紀元前後.jpg
先に述べたように、中部地方~北関東~東北南部においても、蚕食的な形ではありますが、水田稲作農法が伝わり、紀元前後となりますと、一応北海道と南西諸島を除く日本全国で、水田稲作農法があまねく伝わる形となります。



稲作伝播 紀元後1~2世紀.jpg
ところが紀元を過ぎて1~2 世紀もすると、どういうわけか東北北部の人々は水田稲作をあきらめ、耕作地を放棄してしまいます。度重なる水害や、太平洋岸を襲った大津波のせいだ、と考えられていますが、本当のところは分かりません。
いずれにせよ、その結果、人口希薄となった東北に、北海道から続縄文文化を継承した人々、すなわちアイヌ人が南下してきます。
当初、アイヌ人たちは水田稲作耕作を行わず、もっぱら狩猟採集に励んでいましたが、時代が下るにつれ、彼らも水田稲作農法を取り入れた結果、大和政権に対峙する勢力を形成することとなります。

これは後々に詳しくお話する予定です。


稲作伝播 古墳時代.jpg
最終的に、上図のような形で日本列島は一旦固定されます。
これに弥生文化とは全く別の時間を過ごしていた沖縄の人々のエリアが加わり、当時の日本列島全体の図となるわけです。

次回は、西日本と東日本の違いがどのようにして生まれたか、妄察していきます。




今月の書評-109

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さて、西日本においては比較的分かりやすい形で水田稲作農法に代表される弥生式文化が広がっていくわけですが、東日本ではナカナカ複雑な形で拡散していくようです。やはりそこには縄文の根強さ、というものが関与しているのは明らかです。

関東平野に水田稲作が広まるには、紀元前3 世紀まで待たなくてはなりません。
なぜだか分かりませぬ・・・。

岐阜~長野を中心とした中部地方ではアワ・キビなどの雑穀農法がいち早く広まった一方で水田稲作農法の伝播が遅れたのはこの地方の地形~気候風土などから十分に納得できますが、なぜ、太平洋沿岸を伝わって関東に稲作が伝わるのが遅れたのか、どうにも得心が得られませぬ。
特に、なぜ東北が先なのか、稲作の農学的特性を考えると、まことにもって奇々怪々であります。


一つの説があります。それは、

「北海道のアイヌと交易するためには米が必要だった。だもんで、わざわざ東北の、しかも北海道の対岸の青森で、稲作を行ったのだ!」

というものです。


ううむ、ヒグマの毛皮やらラッコの毛皮やら鮭の干物やら昆布やらその他、なるほど、これらは確かに西日本では得られない貴重なものだ。加えてアイヌ側としても、一旦お米の味を覚えたならば、これはこれで重要なものとなったことであろう。
何しろお米からは「お酒」も造れるし・・・。
センセの場合、その気持ちは痛いほどよく分かる・・・。

「弥生正宗」の生一本、飲んでみたいものである・・・。

この説、個人的にはナカナカ説得力があると思います。
今後に述べていく予定ですが、「お金としてのお米」という見方、非常に重要です。特に、道南地域においては本土との交流~交易のあとが色濃く見られる恵山文化(えさんぶんか)と呼ばれる続(ぞく)縄文文化が花開くわけですから、北海道特産品購入の対価の一つとして、お米が重要であったのは間違いありません。

東北に向かって正攻法的に「面」でジリジリと押し寄せるのではなく、日本海側を海路で、「点と線」的に、途中には水田稲作を行うにはより良い地域があるにも関わらず、そこは見向きもせず、中抜きで、一気に青森に到達するという水田稲作の出現状況を見ると、事によると、西日本の当時の大商人~有力者がプロジェクトを発案し、技術者を雇って、最終目標としての北海道との交易を有利に運ぶため、交易の対岸地にプラントを立ち上げた、という妄想はいかがでしょ?

現代の世界においても、途上国へのプラント輸出は輸出側に富をもたらすのみならず、途上国側には技術が移転されると同時に経済的な発展を促す契機となるわけで、青森の亀ヶ岡文化末期の縄文人や道南のアイヌ人の心に何らかの火をつけた可能性もあるのでは?

反論:西日本で採れた米を船で直接北海道に持っていき、交易すれば良いだけである。
反論の反論:船と航海術が未熟だったので、現地でプラントを立ち上げる方が効率が良かった。
反論の反論の反論:それでは北海道で得た交易品はどうするのか?現地で消費するのか?船で持ち帰らなくては意味が無いぞ!
反論の反論の反論の反論:米は重い!現地生産が効率が良い!

どうやら水掛け論に陥ったようで・・・。




今月の書評-108

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温かくなったり寒くなったりの繰り返しが続く今日この頃ですが、ようやくコロナワクチンの接種も始まりました。

ボクチンもはやくワクチンを打ってもらいたいです・・・。

さて、遠賀川式土器=弥生式土器を伴い、紀元前7 世紀ころまでには西日本にあまねく広がった水田稲作農法ですが、興味深いことに、東日本の境を目の前にして一旦足踏みしながらも、その後は中部~関東を飛び越して東北に伝わるという、摩訶不思議な伝わり方をします。
今月の書評-107」の図、紀元前4 世紀の青森県の砂沢遺跡からは6 枚の田んぼ跡が発掘されましたが、同時に出土した土器の多くが縄文様式を色濃く残す形式の土器で、遠賀川式のような典型的な弥生式土器ではない、ということです。
一方で、弥生式の甕(かめ)や壺(つぼ)、鑿(のみ)型石器なども出土してますので、恐らくは、少数の弥生人がこの地に入植し、地元の縄文人と協力しながら水田稲作を行った、と考えられています。


砂沢遺跡 土器.jpg
砂沢遺跡から出土した土器 弘前市のHPより
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/kuni/kuni25.html


砂沢遺跡の水田稲作そのものはわずか10 年ほどで放棄されてしまったようですが、不思議なことに、関東~中部地方を飛び越して、仙台平野以北の東北で、この後数百年にわたって水田稲作が行われていくこととなります。

もちろん、東北地方はそもそもがDEEP な縄文エリアであったわけですから、大々的な水田稲作農法を行った、というわけではなく、従来通りの狩猟や漁労、各種の畑作、クリやドングリの採取など、従来通りの縄文文化を色濃く伴ったうえでの水田稲作、ということでしょう。

一度、ホントに、タイムマシーンで当時に戻ってのぞき見してみたいです。
たぶん、考古学者の中には、夢の中で当時の様子を目の当たりにして「すごいスゴイ!」って興奮して飛び起きて、「あ、夢か・・・。」とガッカリしてまた眠って遅刻する、というヒト、結構居るかと思いますが・・・。



お悔やみ申し上げます。

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あの、狂瀾怒濤の1960 年代を代表するR&B レーベル、タムラ・モータウンのドル箱の一つだった伝説の女性ヴォーカルグループ、ザ・シュープリームスのメンバーの一人であったメアリー・ウィルソン氏が亡くなられました。76歳でした。

シュープリームスのヒット曲は数多く、全てをここに載せることはできませぬが、一部は「昭和40 年代:時代と音楽-11」に載せてあります。

ここでは、センセが最も好きな「これぞモータウン!」とも言うべき曲、「Someday We'll Be Togetherをあげて、彼女の冥福を祈りたいと思います。

どうぞ、安らかにお眠りください。




で、その3日後の本日は12日。
あの、「Return to Forever」のチック・コリアも死んでしまったとのこと!79歳。非常に稀なガンとのことでした。

チック・コリアのアルバムReturn to Forever」、その B面? A面の2曲目だったか?(アルバム、手放してしまったので、自信がない・・・)に「Crystal Silence」という曲がありますが、ハッキリ言って、個人的には、知ってる全てのジャンルの知ってる全ての曲の中で、確実に五本の指の中の一つに入る名曲である、思ってます。

幽玄というか詫び寂び(わびさび)というか、西行法師か観阿弥世阿弥か、はたまた芭蕉か与謝蕪村か、いずれにせよ、日本人の、心のどこか奥深くの、普段は意識の外(ほか)の、ほのかにあります心の糸に触れ、そのまま沈潜に至りては、もはや世俗に浮かぶもあたわじ・・・、というような、曲であります・・・。

合掌・・・。


追伸:現在YouTube にあがっている「Return to Forever」のアルバムは全くの別物です。どゆことか分かりませぬが、たぶん、著作権の関係でしょうか、本来のものは消されてますので、聴くことはできません。従いまして、リンクを張りません。
「Crystal Silence」も、チック・コリア本人のライブやリメイクものなどもあがってますが、本来のアルバムReturn to Forever」中のものとは似て異なるものです。


やはりジャズは一期一会!というのがよく分かりますね。


ここは是非とも初版のアルバムを買って聴いていただくことを、強くお勧めいたします。

追伸の追伸:ナンか、その後に、ちゃんとしたReturn to Forever」がYouTube に上がりました!たぶん、チック・コリア追悼の意味で上げたのかと思います。リンクを張りました。

でも、程なく削除されるのでは?と思いますが・・・。

追伸の追伸の追伸:速攻で削除されてしまいました!リンクナシ!!!









今月の書評-107

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続きです。下図参照。

遠賀川式土器と水田稲作の伝播-3.jpg
北九州の佐賀県唐津市に端を発した水田稲作農法ですが、その後の100 年間はその辺りからあまり移動することはなかったようです。(個人的には宮崎県都城市あたりには別筋の弥生文化が根付いた、と思ってますけど・・・)

また、島根県出雲市あたりに根付いた半島式畑作穀物農法は東進し、DEEP な縄文人エリアにも侵入し、縄文文化を継承しつつも新式畑作農法を営むという、新たなライフスタイルがこの地域に生まれることとなります。

一方で、その後に生まれた本格的な弥生文化は、明らかな水田稲作農法と遠賀川式土器とを伴って、突帯文土器が伝播した西日本エリアを同じように拡散していきます。この時、板付に移住した人々と同じ文化~由来を持つ人々は、拡散先で村を構える(かまえる)際、ある場所では在来の縄文人と交じり合い、ある場所では縄文人が居ない場所に村を作るなど、様々な形で拡散していったと考えられます。

西日本においても、新式文化を受け入れるのを拒否した在来の縄文人は当然居た、とも思いますが・・・。

その結果、先に拡散した突帯文土器を使い続ける人々、新たな遠賀川式土器を使う人々、さらには両方を使う人々など、様々な形で畑作~稲作入り混じった農作文化がこの当時の西日本で生まれました。
その結果、紀元前 7 世紀ころまでには、図のように、現在の敦賀湾から伊勢湾を結ぶ線まで、遠賀川式土器を伴う水田稲作農法が到達することとなりました。

興味深い点は、この遠賀川式土器を伴った水田稲作農法もまた、突帯文土器同様に、DEEP な縄文エリアを前にして、一旦足踏みする点です。

「DEEP な縄文エリアとの境目は、日本有数の山岳地帯が始まる地域でもある。従って、水田稲作農法には適していない。だから伝播がここで一旦停止したのは自然かつ当然だ!」という議論も取り合えずは成り立つかもしれませんが、図でも示したように、日本海側では、水田稲作農法は北九州からまずは鳥取県に、その後は日本海側を北上してナ、ナント青森県まで一気に到達する一方で、広大な平野が広がる関東地方に達するのは紀元前 3 世紀ころであるという、???満載の事実です!
太平洋岸には日本海岸以上に米作りに適した平野が連なっているのですから、単純に「適す適さない」の問題だけで関東への伝播が遅れたわけではない、と思います。

やはりDEEP な縄文人たちは縄文式プライドも高かったので、少なくとも一旦は、水田稲作農法を受け入れるのを拒否したのでしょうかね?

よくよく考えてみると、水田稲作農法というのはひどく大掛かりなもので、例えば個人が引退して田舎に移住してちょいと裏庭をひっかいてニンジンやトマトやキュウリを作って「ああ楽しい!」というのは取り合えず良いかと思いますけど、同じように引退した後に裏庭に水を引いて泥田を作って畔も作って苗代も作って、そんで田植えをして女装して、じゃなくて除草して、そして秋になったら鎌をふりかざして収穫するという、あんましそんなヒト、聞きませぬ・・・。

ましてや村の生業としてこれを成り立たせるとするならば、村人全員の合意が必要なのはもちろんのこと、技術者を迎え入れ、労働力を提供し、木を伐り草を焼き、水路を作って水をひき、水の流れを計算し、土地の高低も計算し・・・・・ああ、ホント大変だわ・・・。

なるほど、水田稲作農法って、ちょっとやそっとで取り入れようという気にはならないのではなかろうか?
それを取り入れたということは、それはやはりよっぽどの利点がそこにあったからなのでしょうが、それに関する考察はいずれ程なく・・・。


どちらにしましても、そんな誇り高き東日本の縄文人ではありましたが、時が経つにつれ、従来のライフスタイルを変えていくこととなるのでした。ではっ!




今月の書評-106

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寒いしコロナだしあれだしこれだし、なんとのう鬱々とした日々が続く今日この頃ですが、いつの間にか日が暮れるのも遅くなりつつあるようで、春はもうそこまで来ているのかも・・・。

でも、いにしえの詩人が歌うように、

「春来たりなば、冬遠からじ!」

・・・ああ、嫌だいやだ・・・。


さて、北九州に突帯文土器(とったいもんどき)と水田稲作技術が朝鮮半島より伝わっておよそ100 年後、列島最古の弥生式土器を伴う本格的な水田稲作の遺構が現在の福岡県博多市に出現します。有名な、板付(いたづけ)遺跡です。

板付遺跡からは、前々回に紹介した全体を覆って高温で焼く形式の最古の「弥生式土器」が出土したのみならず、水路や畔(あぜ)を伴う本格的な水田の跡、農作用の磨製石器、そして外敵や害獣に対する防御用の環濠(かんごう:集落をぐるっと囲む堀)など、典型的な「弥生村」の全てがセットになって出土しました。

板付より100 年古い佐賀県唐津市の菜畠(なばたけ)遺跡からも水田稲作遺構が出土しましたが、ここから出土した土器は、形だけ朝鮮式をまねて縄文方式で焼いた突帯文土器です。
そのため、確かに半島から稲作技術を持った人々が来たとは考えられますが、その数は少なく、在来の縄文人が彼らから技術を学んで見よう見まねで稲作を開始したのでは?とも考えられています。

一方の板付遺跡からは、より新しい形式の突帯文土器と共に、先に述べたような新式の焼き方で焼いた土器が出土し、加えて当時の南朝鮮の村がそのまま現れたも同然な形でまるまる出土したことから、少なくとも一つの村を形成するだけの一定の数の外来人が到来~移住した、と考えられます。

このような新式の土器、いわゆる弥生式土器ですが、その中でもこの当時に北九州に現れたタイプの土器が、遠賀川(おんががわ)式土器と呼ばれるものです。
水田稲作の技術は、この形式の土器と共に、その後数百年をかけて、北は青森から南は鹿児島まで、列島の多くに伝わっていくこととなります。


遠賀川-1.jpg
遠賀川式土器 豊橋市 美術博物館
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=1046


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