2021年1月アーカイブ

今月の書評-105

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続きです。

で、半島と列島の距離から見ても北九州が半島文化流入の最主流であるのは間違いないところですが、どうやら伝播先は北九州一点張りではない可能性があることも分かってきました。

下の図は、突帯文土器と、水田稲作を含む穀物栽培の伝播のようすを描いたものです。茶色く塗った部分が突帯文土器が普及した地域です。


とつたいもん土器の限界-2.jpg
図の中の坂本遺跡は宮崎の都城市にある縄文晩期~弥生早期(紀元前1000 年くらい)と見なされる遺跡で、明らかな水田稲作遺構が見つかったところです。

都城市には、坂本遺跡以外にも黒原遺跡や黒土遺跡など、この時代の遺跡が多く出土しています。

この宮崎の地では、北九州とは異なる形式と見なされる突帯文土器が出土し、北九州とは出自が異なるのでは?と考える研究者もいます。センセも、他の証拠などからも、そう考えています。


孔列文土器.jpg
孔列文土器(こうれつもんどき) 写真は朝鮮半島から出土した孔列文土器ですが、宮崎では、これと同じ形式の土器が出土した、とのことです。
https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/search/view?relicId=2078



同様に、図の中の板屋遺跡は島根県の飯南町の遺跡で、これも同じく縄文晩期~弥生早期の遺跡です。で、ここでは水田稲作の跡は見つかっていませんが、ここで出土した前池式と呼ばれる突帯文土器からは、これまでで最古の稲籾(いなもみ)の圧痕が見つかっています(レプリカ法)。菜畑よりも古いのです。

で、土器の圧痕からは、それが「稲である」ことは分かりますが、水稲か陸稲かは区別できません。稲籾以外にもアワやキビ、ヒエなどの穀物の圧痕が検出されていることなどから、ここでは水田稲作ではなく、穀物の畑作が行われた、と考えられています。


以上の事実を考え合わせると、

1) 縄文晩期~弥生早期に伝播した半島由来の新式文化の出所は単一ではなく、いくつかのものは由来を異にする可能性がある。
2) 中でも、北九州、宮崎、出雲地方はそれぞれが共に古いと同時に、それぞれがその後の古代史に大きな足跡を残していることから、何やら非常に怪しい場所だ!

などとまとめられます。

さらに興味深いことは、初めの図を見て頂ければ分かると思いますが、突帯文土器の普及は若狭湾から愛知県と岐阜~静岡県との境でストップします。
いわゆる西日本に限られるのです!

ところが水田稲作を含む穀物栽培文化の伝播はこの境を飛び越し、図で言うところのDEEP な縄文エリア、すなわち東日本に及んでいきます。
縄文中期には人口稠密地帯であった岐阜や長野の縄文人は、今月の書評-44」で紹介した北方の縄文晩年文化である亀ヶ岡式土器の流れをくむ形式の土器を用いつつ、新式の畑作文化を積極的に取り入れていったようです。

水田稲作技法は、日本海側をとびとびに北上し、最終的には青森にまで達します。

そこらへんの事情は、いわゆる遠賀川式土器(おんががわしきどき)をご紹介しながら次回以降にお話する予定ですが、今回の話で最も興味深い点が、この時代においても、西日本と東日本でくっきりはっきりと何かが異なっていた、という点です。

それは何か?

ホント、古代史って、尽きることのない興味が満載の世界ですね!

では、くれぐれも夜遊びをお控えなすって、せいぜいお持ち帰りを利用しませう!




今月の書評-104

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今日で1月も終了。早いものですね。
今年はコロナのせいで、毎年恒例の親戚一同うち揃ってのお正月もナシ!
お年玉あげずにすんで良かった~、なんてさもしいことは考えませぬが、やはり何らかの区切りの祝いが欲しいところです。

で、海の向こうでは、トランプさん、とうとうおん出されてしまいました www。支持者らによる議事堂への乱入事件に驚いたヒトも多かったと思いますが、バイデン大統領の誕生で、ナントか当面は、常識的なアメリカに戻っていくとは思います。



さて、今回、縄文時代から弥生時代に移行する頃の最も初期の時代を考えてみたいと思います。土器~農作~社会の変化などがキーワードです。

今月の書評-76」で突帯文土器(とったいもんどき)のお話をしましたが、この土器は従来は西日本における縄文時代最晩年の土器、と見なされてきた土器です。
けれども、菜畑遺跡や板付遺跡でこの形式の土器と共に明らかな水田稲作の遺構が発見され、同時に、年代測定法の進歩によってこれらの遺構の年代が紀元前1000 ~900 年前と認められたことから、定義上、弥生時代の始まりは紀元前1000 年前頃、と決められることとなりました。未だ異論はあるようですけど・・・。

とったいもん-2.jpg
夜臼(ゆうす)式の突帯文土器 福岡市埋蔵文化財センター より
https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/tenji_syasin2/210.html



で、今月の書評-76」でもお話したように、この形式の土器は朝鮮半島に由来を持つ土器です。そして、繰り返しになりますが、菜畑遺跡では、この形式の土器と共に明らかな水田稲作耕作跡が発見されました。
ですから、この土器と共に水田稲作文化が半島から伝播し、弥生時代が始まった、と言えます。ここまでは良いです。

が、ここでナンカ、頭が混乱するような問題が発生します。

それは何かというと、水田稲作の開始=弥生時代であると定義したわけですから、水田稲作の遺構に伴って見出された突帯文土器=弥生式土器である、と考えて良いようなものですが、違います。突帯文土器は縄文式土器なのです。

WHAT ???

縄文式土器と弥生式土器の根本的な違いは、焼き方にあります。

縄文式土器は、地面に掘られた窪地に枯草や枯れ枝などの燃料となるものを敷き、この上に土器を並べて火をつけて焼き固めます。オープンな空間で焼くので温度も低く、それだけもろくなるので、土器の肉厚も厚くしなくてはなりません。
一方の弥生式土器では土器を万遍なく燃料で覆って焼くので、温度も高くなり、それだけ丈夫で薄く作る事ができます。

要するに、両者の根本的な違いは焼き方にあるのです。

ここで疑問です。

問い。「でも突帯文土器は朝鮮半島に由来を持つんでしょ?ということは、当時の朝鮮半島の土器も縄文式なのか?」

答え。「違います。朝鮮半島の突帯文土器は弥生式と同じく、高温で焼かれた土器です。」

問い。「どういうこと?」

答え。「縄文時代の突帯文土器は、縄文人が半島の土器の形をまねて、自分たちの方法で作った土器なのです!」

問い。「では、初めの水田も縄文人がまねて作ったのか?そんなこと可能なのか?」

答え。「出土する大多数の突帯文土器は縄文人が作ったものと考えられますが、数%のものは朝鮮式で作られてます。従いまして、この時代、水田稲作技法と改良された土器製作法を伴って列島に移住した人々の数は少なかったが、その文化に多くの縄文人が魅了され、我も我もと真似し始めた、というのがどうやら真相のようです。」

問い。「でも、「今月の書評-76」では夜臼式土器は弥生式土器って書いてあるじゃん。どうゆうこと?」

答え。「言葉の遊びです WWW。土器の作製法に重きを置けば夜臼式土器は縄文式土器となり、弥生時代の定義に重きを置けば弥生式土器となります。ここら辺のところ、弥生時代に関する本とか文献とか読んでるとヒトによって本当に色々書いてることが異なるので、センセを含めた一般人が混乱するところだと思います。」


今月の書評-103

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みなさま明けましておめでとうございます。
寒さもコロナも本当に厳しきなかではありますが、
皆様におかれましては、
いかがひっそりと引きこもられておられられるるる・・・ことでしょうか?

センセも昨年28日に研究室の大掃除を済ませて正月休みに入りましたが、一週間引きこもっても大丈夫なようにたくさんの食料とアルコール飲料と本を購入し、ほとんど一歩も外に出ずにひたすら知識の更新に努めておりました。

もちろん、体がなまらないように、定期的な運動は欠かしませぬ。

で、購入した本は、以下の通り。

古事記
日本書紀 1~5
万葉集 1~5
風土記

風土記を除いて全て「岩波文庫」です。安いから。
それでも総額 2 万円くらいかかりましたけど・・・。

でも、読み始めて分かったのは、
「岩波文庫は字が小さくて読みづらい!」という、
身も蓋もない事実でありました・・・。
中学生の頃は何の不自由もなく読めておりましたが、
なんで読みづらくなったのでしょうね?

岩波が意地悪して活字を小さくしたのでしょうか?

不思議です・・・。

ま、ともかくも、これらの物語は、それこそ小学生の頃から、
ジュニア版「なぜなに古事記ものがたり」村岡花子訳とか、
そういう類の本で内容は十分に知っておりましたが、
知識の整理と共に、「和語」にも今一度慣れておこうかと全巻揃え、
これを読破すべく、現在奮闘中であります。
でも、当然ながら、読破前に正月休みも終わりを告げつつあります・・・。


イザナギ、イザナミ.jpg
https://ameblo.jp/takanoyumi333/entry-12486679003.html
高野さんのブログより。なりあまれる方となりあわざる方、お二人の図。
LGBTの方は、いずこに・・・。


さて、日本書紀と万葉集とは未だ読破を果たしてはおりませぬが、古事記は
すでに読み終えました。
で、一つ二つ大きな疑問が生じました。それは、
「弥生時代から古墳時代に至るまで、考古学の結果などから推察すると、北九州の存在が非常に大きい!にもかかわらず、少なくとも古事記では、北九州について書かれている話はひどく少ない。代わって、宮崎やら島根やらの、現代日本社会においてはほとんど忘れ去られているも同然の地域(冗談ですよ!)の話が非常に大きく取り上げられている!ここには、これまで教科書などでは全く教えられてこなかった重要な何かが隠されているはずだ!」

加えてもう一つ。

「古事記の序文は太安万呂(おおのやすまろ)による立派な漢文で書かれている。これを読むと、安万呂の教養の深さを知ることができる。さぞかし多くの大陸由来の書物を読みこなしたに違いあるまい。にもかかわらず、なんで「魏志倭人伝」などに代表される大陸の「正史」の中の倭人関係の記載には一切触れていないのだ?読んでないのか?古事記や日本書紀には編者による数多くの「注釈」が付いているのだから、これらの「注」の中で大陸の「正史」中の倭人関連の記載に触れても良いはずなのに、全くかすりもしない!」

・・・センセの追記(1月29日):日本書紀。その後に読み進めていくうちに、魏志を含めて多くの注釈に遭遇!卑弥呼に比定して書かれたと解釈される記述~天皇もあるとのこと。やっぱり本は最後まで読んでから批評しないとダメダメ・・・。お詫びして訂正いたします。

ということで、次回からはまず、「宮崎と島根」にちょろちょろと目配りしながら、大陸~半島由来の新文化がどのようにして列島に拡散していったのか、考えていきたいと思います。

ではみなさま、今年もよろしくお願い申し上げます。


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