2020年8月アーカイブ

坂城散歩道-30

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猛烈に暑い盛夏の日々ですが、みなさん元気にマスクしてマスク?

さて、37℃の予報もものともせず、昨日、堂叡山(=大道山)の登山道をKSR110 で突進し、討ち死に寸前で取り合えず生還してきましたので、ご報告いたします。
関連する過去ログとして「坂城散歩道-15」、「坂城散歩道-17」、「坂城散歩道-25」、「坂城散歩道-28」を上げときますので、参考になさってください。


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ジムニーとKSR110 のツーショット。
兄貴分のセロークンは、ここしばらくお休みです。


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坂城散歩道-28」で遭遇した倒木を切り倒すために、ちゃ~んと剪定バサミと折り畳みノコギリを用意しました www。使わずに済むに越したことはない。

汗止めのために額にバンダナを巻き、その上にヘルメットを被る。
上着はポロシャツという軽装だが、念のためもう一枚、着替えを用意。
ハンケチやらタオルやらベトコンズボンのポケットに何枚も突っ込み、ペットのお茶と「アクエリアス」と、水分対策も完璧だ。

で、いざ出発!時間は9:30 。
BGM はエディ・グラントの「ELECTRIC AVENUE」だっ!


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林道横引線の入り口に到着。
ここに来る前に一度道を間違えた。
きょろきょろしていると、前からおばちゃんが運転するケットラが来た。
おばちゃん、窓から顔出して、「この先はリンゴ畑しかないよ!平沢に行くんだったら案内してあげる。」と言って先導してくれた!

おばちゃん、有難う!平沢地区の人たちは、みんな親切だっ!

平沢に至るまでの道は細くて勾配の強い舗装路。
山の中を縫うように走り、湿って苔むしている個所が多い。
だもんで、ダートよりもかえってアブナイ。
だもんで、横引線に入った途端、生き返るセンセであった。

横引線は走りやすい林道だ。
暗く湿っているので光が当たらず、おかげで下草が少ない。
少なくとも堂叡山登山口までは、快適に走れます。

前回の倒木はすっかりきれいに取り払われていて、剪定バサミとノコギリの出番は無かった。良かったあ~!


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ここが堂叡山登山口入り口。坂城散歩道-17」を参照してください。




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以前と変わらず、コオニユリが咲いていた。

で、いざ突入開始!


ここが地獄の入り口であるとも知らずに・・・。



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早速こんなカンジ・・・。
でも、まだ序の口。


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おい、どうする?・・・・・・。


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これ、道?
でも、「行ったれ~~~~っ!」 ← もはややぶれかぶれです。


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見覚えのある看板に出くわした。
坂城散歩道-25」で紹介した「道に迷ったところ」のヤツだ!
ということは、やはり、この道が堂叡山と平沢地区を結ぶ林道なのだ!

ここは三差路になっているが、左に行くと崩落のために完全に遮断されていることを、散歩-25 で明らかにした。
従って、ここから右に折れた。


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何とかここまで来た。ここも三差路。
左に急こう配の登り坂、真っ直ぐ先にも、とりあえず、道がある。
が、草があまりにも茂りすぎで直進は不可能、と判断した。
前回の経験から頂上は目の前だと思われるので、ここで降りて靴を履き替え、歩くことにした。
ブーツもヘルメットもそのままだ。


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一応こんなメモを残してきたが、そもそもヒトなど来ないであろう。

坂城の山にはサルは居ない。
なぜ居ないのだろうか?クマもカモシカも居るのに・・・。

センセも居るのに・・・。


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キオンの花。


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オシダの群落。


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後で調べとく。


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マルバハギ。


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ウツボグサの群落。


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あのヌタ場もいまだ健在です。


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程なく頂上への看板が・・・。
ここの左が入り口。急坂ではあるが、木道があってロープも張られている。
ただし、木道は朽ち果て気味。


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堂叡山頂上に到着!
不動明王のお出迎え!
時刻は11:15 であった。


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真夏の坂城町。やはり頂上は涼しい!木陰に風が吹き、汗も吹っ飛ぶ!


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キスゲの仲間とアザミ。

昼食までまだ時間があるので、芝峠まで遠征することにした。
先ほど登ってきた木道を下り、林道を左に折れる。


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適当な勾配の下りの坂が延々と続く。
行きはヨイヨイだが帰りが怖い・・・。




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30 分ほど歩いた後、大きく右に曲がるカーブを下ると、広場に出た。
そこで目にしたものは、「坂城散歩道-16」と「坂城散歩道-24」で登場した、あの看板だ!

なるほど、そうか!結局、林道横引線は堂叡山登山口を経由して、ここで水晶林道と繋がっているのだ!
ということは、横引線は不動建線と繋がっているので、水晶林道から侵入して和平まで行くことが可能なわけだ!

しかし不思議なことが一つある。それは、今来た道のどこにも芝峠そのものに抜ける道はないし、また、肝心の大峰山に向かう道も見当たらない、ということだ。水晶林道は何度も歩いたが、水晶林道から大峰山へと向かう道はないことはハッキリとしている。

ということは、大峰山と堂叡山とは繋がっていないのか?

そんなはずはなかろう!


芝峠登山口.jpg
これは坂城散歩道-16」で使った写真。手前側が水晶林道で、ここの広場で右の道、左の道に分かれる。真ん中の看板のところには短い木道があるが、これに騙されて登るとすぐに右の道と合流する。

この当時は、右に折れると大峰山に、左に折れると堂叡山に、看板通りに行けば芝峠に到達する、と幼心(おさなごころ)にも信じていた・・・。


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これは今回撮った写真。右の下り道が水晶林道、左の登り道が、今、堂叡山から下ってきた道。前の写真の右の矢印に相当する。
大きく左に曲がっているのが分かるが、「芝峠看板」からの木道を登ると、この道にすぐに合流する。単に数十メートル近道するに過ぎない。幼子(おさなご)を騙してはいけませぬ!!!

ならば、前の写真の左の赤矢印で示されている道は何だ?どこに向かっている?

「とりあえず、一度戻ってお昼を食べよう!」と、今来た道を引き返しました。帰りはひたすら登り道・・・。


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登る、登る、ひたすら登る。


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ふりさけ見れば、大峰山。


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後で調べておこう。(本日、令和三年四月二十五日、「太郎山の植物手帳」という本を購入しました。で、早速調べたところ、オニルリソウであると決定致しました!「上田自然に親しむ会」の皆様、ありがとうございました!)


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で、堂叡山頂上で倒木に腰かけてお弁当を完食。
中身はいつもと同じなので省略!


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おおっと~!アサギマダラくん登場!
前回は被写体になってくれなかったが、今回は目の前でポーズをとってくれた!
ヒヨドリバナで壇蜜、じゃなくて吸蜜中。

お腹も満ちたので、ここから帰ります。
バイクに乗ってあの地獄道を走るのを考えると、ちょいと気が重い・・・。
でも、下りだからまだ楽だわ・・・。


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途中にある大きな白樺の木。

ここで、ギャーギャー鳴く鳥の一群に出会った。
大きさはカラス~鳩レベル。
ギャーギャー鳴く鳥の代表格はオナガであるが、オナガではない。
鳥の写真を撮るのは至難の業なので、ここに載せることはできませぬが、見るところ、大きさなどから言っても、たぶん、カケスだと思う。


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ははあ~ん、ここが坂城散歩道-25」でヘレン・シャピロの悲しき片思い鼻歌混じりで歌いながらお気楽に下って遭難しかけたところだな!
それでは今回は1986 年のジェッツのヒット曲、「You've Got It All」を鼻歌して生還を期することとしよう!

覚えてる?


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帰路の横引線。
未だ存在するケットラの墓標。
もはや横引線のモニュメントである。

お盆のさなか、花を手向ける人も無し・・・。



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ヤッホー!ようやく下界に舞い降りた!
本日の地獄への巡礼の旅も、ナカナカのものであった。
汗止めのために額に巻いていたバンダナはすぐにビショビショになって、ほとんど役に立たなかった。
ポロシャツ、着替えを用意していたのを忘れてビチョビチョのまま帰ってきたが、走行中に気化熱が奪われて、かえって涼しかったのは幸いであった。

なんだかんだ言って、15:00 までには無事に帰還できました。


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本日のルート。


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これまでの踏破経路。
今回、水晶林道と横引線~堂叡山登山道が開通したので、上図のようになります。残すは太郎山~大峰山~水晶山~堂叡山のルートです。

先に述べたように、今回の経路からは堂叡山と大峰山を結ぶ道が分からない。
堂叡山頂上の看板の方角が正しければ、たぶん、頂上から木道を降りずに後方に向けて道があるはずだが、そして確かにそれらしいものもあったが、すぐに切れ、分からなくなった。
これはたぶん、最近はほとんどこのルートを利用するヒトが居ないために雑木が繁茂した結果、獣道状態になっているためではなかろうか?

次回は太郎山から進軍する予定だが、その時確かめてみようと思います。

で、芝峠前の広場にある左側の道であるが、たぶん、堂叡山方向に向けて、右側の道の下をほぼ平行に走っているのではなかろうか?そして、センセがバイクを降りた三差路に接続するのではなかろうか?

これもそのうち確かめてやろうと思います。

今回、繁茂する夏草そのものにも閉口したが、前回も述べたように、草で見えないガレキでKSR が何度も何度も、それこそ何度も吹っ飛ばされるのにも大いに閉口した。
吹っ飛ばされるのはまだ良いが、ガレキのエッジでパンクするのが怖い。
釘が刺さってパンクするのとわけが違って簡単な補修材では治せないだろうから、どうするかな?

背中にもう一個、車輪を背負って走るとするかな?www


それではみなさま、暑さとコロナに負けないで、この夏をナントか乗り越えましょう! 

Adios Amigos! Amigas!



今月の書評-99

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「倭」の生業は「半農半漁」であり、「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた?

これまでの議論から、倭人と漁労とが強く結びついているのは明らかです。
で、古墳時代から大和政権あたりに登場する一群の人々の中に、「安曇氏(あずみし、あずみうじ)」というのがおります。古事記などでは阿曇氏と書かれています。長野県の安曇野の地名の元となった人々です。

この安曇氏の由来ですが、漁労に携わっていた連中の大将みたいな人々であったと考えられ、「あずみ」の言葉のそもそもは「あまつみ」、あるいは「あまみ」であると思われます。

「あまつみ」の意味にはいくつかの解釈があるようですが、個人的には「あま」は「海」あるいは「天」を意味し、「み」は「民」を意味し、「つ」は「の」に相当する言葉、すなわち「海の民」を意味する言葉だと思います。「わだつみ~わたつみ」は兄弟語です。

これに関連する言葉は日本列島には数多くあり、天草、奄美島、沖縄の「あまみきよ」伝説などがすぐに連想されます。伊豆半島の熱海も関連語です(後の時代に付けられた「漢字」に惑わされてはいけませぬ)。
多くは島や海岸部の名前ですが、安曇野などのように、北アルプスの麓にも残っています。安曇氏の影響力が科野(しなの)に及んだ結果です。

この、倭人の中の大きなパーツを構成していた「海の民」ですが、後に沖縄のお話をする際にも重要となる人々です。


さて、半農半漁の半魚人が「あまみ」であったとすれば、半農人はナント呼ばれていたのか?

ここからはセンセの妄想の嵐が吹き荒れます。


日本人の起源を言語学的観点から探る方々の一人に、以前にも紹介した金平譲司氏が居られます。氏のブログ、「日本語の意外な歴史」は相当に専門性が強いのでセンセなんぞはナカナカついて行けないのですが、氏の話の中で非常に興味深い点の一つが、「我々が普段日本語そのものであると思っている言葉の中には古代の他の言語に由来する可能性があるものが少なからず存在する」ことを明らかにしつつあるところです。これはカタカナ言葉や「漢字熟語」などの明らかな外来語を指しているのではなく、例えば「水(みず)」など、いわゆる「訓読み」の、日常的に普通に「日本語そのもの」と考えながら使っている言葉の中にも古代の他の民族の言語から転嫁した可能性があるものが多い、ということなのです。

要するに、「訓読みだから日本本来の言葉である」とは限らない、ということです。最も分かりやすい例としては、多くのヒトがすでにご存じだと思いますけど、「馬」などが挙げられます。訓読みが「うま」、音読みが「ば」、あるいは「ま」ですので、別種の言葉のように思われますが、元は同じです。


で、この伝で、センセも一つ、倭人における半農人がなんと呼ばれていたか、考えてみました。

で、結論。それは、「たみ」です!以下、狂瀾怒濤の妄察です。

「たみ」の「た」は「田」。音読みは「でん:den」。訓読みは「た:ta」。「d」と「t」はお友達。倭人はそもそも大陸で稲作を行っていた。従って、「た」は移入された言葉ではなく、「た」と「でん」は同源だ!

「たみ」の「み」は「民」。「み:mi」と「みん:min」はとっても近いお友達。

従いまして、倭人は「田民:たんみん」と「海民:あんみん」とで構成されていた。その後、「たんみん」の重要性が「あんみん」を凌駕していったので、一般民衆のことを「たんみん → たみ」と呼ぶようになった。「海民」は「あんみん → あまみん → あまみ」と変化。因みに、「あま=うみ」で、同源です。

さらに、「民衆」のことを古語で「たみくさ」というが、これは「たくさんのたんみん」のこと。同様に「あまくさ」は「たくさんのあんみん」のことを意味する。

入り組んだ「天草」の地は、今も昔も多くの漁労関係者が暮らすところである。


どうです!目からマナコでしょう!!! ← HD





今月の書評-98

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さて、紀元前後の中国の史書の中ですでに「倭人~倭国」という独立した名称が冠されていた一群の人々ですが、その理由が「この時代にはすでに列島の少なくとも西半分を版図に収めていた」ためであることは明白です。要するに、この時代において、すでに「倭国」は、少なくとも当時の半島南部の列国にとって、無視しえない「強国」となっていたことを意味します。

では、紀元前1000 年頃に北九州に水田稲作をもたらした人々は当初から「倭人」だったのか、あるいは倭人はその後に列島に入植して勢力を伸ばした連中なのか、あるいは色々な移住者が居たが、入植後、時間を経るうちに列島において混ざり合って「倭人」となったのか?

個人的には、「倭人は当初から倭人であった。その後に色々混ざるが、列島においては倭人文化が首尾一貫して優越~拡散し、その後の古墳時代へと移行していった」と考えています。さらに言うならば、北部九州~半島南部に水田稲作の技術を伝えたのも倭人そのものだ、と考えています。

以降、その理由を述べていきます。例よって、妄想です。
まずは大雑把に、あらすじを述べます。


入れ墨の風習その他の記述や人類学的証拠などから、倭人はそもそも「呉」の勢力圏であった江蘇省沿岸部に小国を形成していた部族であったと考えられ、その生業は「半農半漁」であったと思われる。
「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた。
呉の滅亡よりもはるか以前に、少なくとも一部が、半島南部に移住する。直接日本列島ではなく、まずは朝鮮半島に移住した最大の理由は、先行する東夷の部族により「海を横切れば、そこには移住できる場所がある」ことがすでに明らかとなっていたからである。
地理学的にも明らかなように、朝鮮半島は北部と南部では気候風土が大きく異なる。半島中北部は大陸的な冷涼乾燥地帯である一方で、南岸部は対馬海流の影響で温暖湿潤な気候である。また、海岸部はいわゆるリアス式海岸であるため、海士漁を含む漁猟にはうってつけの場所である。
これまでの議論から、陸稲は山東半島から伝播したかもしれないが、水稲は半島南岸部より北上したと考えられる。
水稲の半島北上開始時期と列島への伝播時期とには大きな隔たりはない。
むしろ列島伝播の方が古い可能性がある。
水田稲作は、単に「稲モミを持ってくればよい」というものではない。すなわち、当時の最新技術を有する一群の専門集団が断固たる決意をもって移住することが必要である。このことを考えると、いきなり北九州の地に呉の沿岸地域から移住することは考えられない。まずは半島南岸部に居を構え、拠点を確保した後に、対馬~壱岐~北九州へと向かったと考えられる。この時、半島南部に居住していた縄文人が大きな役割を果たした可能性がある。
付帯する土器などの要素からも、大陸から直接伝播したのではなく、半島南部に、一定程度の期間、居を構えた後に伝播した可能性が高い。
半島南岸部、特に半島東南部から北九州の地が、これ以降、分かちがたく一つの文化圏を形成する点こそが、当初から「倭人」が列島に関わってきたことを強く示唆するものである。

次回、各々に関して、より詳しく突っ込んでいきたいと思います。




坂城散歩道-29

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「今年の夏は涼しい」と言った口の乾かぬ先に猛烈な温度と湿度に見舞われている坂城町よりお届けする坂城散歩道シリーズです。

言っときますけど、今回はシリーズの中でも最高につまらないものとなっておりますので、見ない~読まない方がよろしかろうと思います。

今回は、以前の「坂城散歩道-11」で紹介した陣馬平林道の終点を探るべく、カワサキKSR110 を駆って、酷暑の中を出動しました。


陣馬平 KSR-1.jpg
左が太郎山林道、右が陣馬平林道です。


陣馬平 KSR-2.jpg
林道終点付近。前回は左に登ってセローを停め、山登りした
右に下りの道が続いているので、ここに突入。
期待としては、そのまま下界に通じているのではなかろうか?と考えていた。


陣馬平 KSR-3.jpg
道は比較的良好。
程なく、上の写真のような広い場所に出る。
さらに先があるので、突進した。


陣馬平 KSR-4.jpg
程なく看板が・・・。


陣馬平 KSR-5.jpg
だそうです。

ここで終点。この先は右も左もヒト一人が通れる程度の登山道で、急な坂となってます。さすがのKSR クンも、お手上げでした。

結局、陣馬平林道は、バイク~車に関する限り、一方通行であることが分かりました。

で、真夏の走行ですが、走っている時は良いけれど、停まると汗が猛烈に噴き出してくる・・・。おかげで眼鏡は曇るはゴーグルも曇るはで、霧の中を走っているようであった。加えて夏の林道は夏草が茂るので、路面が見えず、しばしば大きなガレキを踏んでKSR が何度も吹っ飛ばされる・・・。

やっぱり林道走行は春が旬だ!

KSR110 の走りにも慣れてきましたが、排気量が小さいのでエンジンブレーキが利かない。下りの林道では頻繁にフロントリア共にブレーキを使わなくてはなりませぬ。この点もセロー250 と大きく異なるところです。

戻って昼食を食べた後、今度は研究所の裏でゴルフスイングのチェックのために直射日光を浴びつつ動画を自撮り撮影。汗ビショビショで「死にそう~!」。

おかげさまで本日は虚脱状態。ブログなんぞを書いてます。


で、オシマイ。

ひょっとして、最後まで読んだ?

信じられな~~~い!あれだけ言ったのに・・・。



今月の書評-97

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さしもの長雨もようやく明け、待ちに待ったお盆休みを迎えた日本列島ですが、例年とは大きく趣が異なる夏の日々です。

相変わらずのコロナではありますが、これに加え、昨年~一昨年に体験した、あの猛烈な暑さが、少なくとも梅雨明け後の長野では、今年は幾分薄らいでいるようです。
今後に猛暑となるのかもしれませんが、今のところは涼しくて助かります。
けれども、残念ながら、昨年~一昨年に体験したあの強烈な熱波と紫外線で一気にコロナがコロナっと死滅しますように!とのセンセの願いは、雲散霧消の態であります・・・。

さて、前回、すでに紀元前後には「韓人」と「倭人」とは別種であるとの認識がもたれていた、というお話をしました。
また、「今月の書評-86」で示した王充(おうじゅう)の「論衡(ろんこう)」中に、「周の成王の頃(紀元前1055-1021 年)、越の国と倭の国から使節がやってきて、越はキジを、倭は暢草(ちょうそう)を献じた」という記載があることも指摘しました。

論衡が書かれたのは紀元1 世紀内ですので、周の成王の頃に「倭」が「倭」と呼ばれていたのかどうかは実は不明ですが、紀元前後に「倭」と認識されていた人々が紀元前1000 年頃にも同一のアイデンティティーを有して存在していたことは認識されていた、と見なして然るべきだと思います。難しい物言いだけど・・・。分かる?

また、「今月の書評-94」で紹介した鳥越憲三郎氏の著作、「古代朝鮮と倭族」の中には、春秋時代、江蘇省から山東省にかけて東夷による多くの小国が存在していた事実が書かれていることを紹介しました。残念ながら「倭国」の名前はその中にはありませんが、論衡の記載からも明らかなように、「倭」と認識される一群の人々が小国を形成し、より大きな「呉」の勢力圏に収まっていたのは、その他の文献的証拠からも、相当に確実視されると思います。

あの有名な魏志倭人伝(西暦280~300 年)には「倭人の男子は、老若貴賤を問わず、顔~体に入れ墨をしていた」と記されてますが、老荘思想で有名な荘子(そうし)が書いた荘子内篇第一逍遙遊篇(紀元前369 年頃 - 紀元前286 年頃)には、「海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化がある」との記載があるそうです。
さらには近年の発掘調査の結果から、往年の「呉」の版図から出土した当時の人骨からは縄文人とは異なる形式の「抜歯」が施された人骨が多く見つかるとのことで、これらの抜歯の形式は弥生人人骨に見られるそれとほぼ完全に一致する、とのことです(日本人の起源:中橋孝博)。
「三国志」や「後漢書」の東夷伝には当時の朝鮮半島南部における各部族の様子が描かれていますが、倭人が半島南部に数多く居住していた事実と共に、彼らの特徴の一つとして、しばしば入れ墨が特筆特記されています。

で、これらの中国の史書によって描かれた紀元前後は馬韓、弁韓、辰韓による三韓時代であり、各々が数多くの小国で成り立ち、さらにこれらの三国では風俗、習慣、言語もまた異なることを記していることから、「韓」という共通項でくくられる「民族的まとまり」が当時の半島南部に存在した、と考えるのは無理があると思います。

おそらく、「韓」というのは、当時の帯方郡やら楽浪郡やらの中国王朝の出先機関の役人が半島郡南の地を指して名づけた「地名」である、と個人的には考えています。で、「韓人」の中には箕子朝鮮以前に住んでいた満州由来の連中も居たであろうし沿海州あたりが由来のツングース色の強い連中も居た、山東半島や徐州あたりから流れてきた東夷の連中も居たであろうし呉や越の滅亡後には長江下流域から半島南西部に向かって流れてきた連中も居た、と考えるのが自然です。

これらの住民が異口同音に「俺たちゃみい~んな韓なのさ!友達なのさ!」などと唱えるほどのココロ優しい連中であったとは、とてもじゃないが思えまへん!

彼らを一緒くたに「韓人」という「民族的名称」でくくってしまうのは誤解を招くものである、と思います。民族的に捉えても、せいぜい、扶余や後の高句麗に代表される北方系の民族、あるいは特筆特記された南方系の倭人、に対峙する概念、と捉える方がよかろうと思います。


それではなぜ「韓」なのか?という疑問ですが、これは分かりませぬ。


戦国の七雄の一つに「韓」がありますが、関係があるようには思われませぬ。
一方、当時の楽浪郡の中国系住民の多くが「王」と「韓」の姓を有していた、という話がウイキに載ってます。

従いまして、ことによると、「韓」姓を持つ人々が郡南の地に移住したために当時の役人がこの地を「韓」と呼ぶようになった、という推測も成り立ちます。
結構ありがちな話かな?とも思いますが・・・。

さて・・・。



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