2019年1月アーカイブ
ネイオ~~ミ・大坂!!!
全豪勝った!!!
世界ランクNO.1!!!
あ~~~、もういいわ。
ゆっくり眠れるわ。
少なくとも来週一週間、ウキウキしながら過ごせるわ・・・。
オイオイ、事によると、マルチナとかグラフとかセリーナとかに続く、
女子テニス界のスーパースターになるんじゃないのか????
期待してるぞ、ネイオーミ!!!
おじいちゃんもさぞかし喜んでいることであろう!!!
おとそ気分もすっかり抜け落ち、週明けからは今年一年に向けてフル稼働すべく、やる気満々のセンセです。
で、アイヌ語=縄文語ではなく、アイヌ人=縄文人ではない!と強調してきたセンセですが、では、どんなものでもよいけど、縄文語って、ちょっとでもいいから、今の言葉に残ってないの?
と色々考えてみましたところ、一つひらめいた!
「エミシ」って、事によると、縄文語なのでは?
以下、エミシは縄文語だ!というセンセの妄想を開陳したいと思います。
弥生時代の始まりを水田稲作の開始から、と定義すると、およそ紀元前1000 年くらい前にさかのぼります。北九州のお話です。
列島の他の地域は、未だ縄文時代。
例の、亀ヶ岡文化の時代です。
ここから水田稲作を特徴とする弥生文化は九州においては南進を、他の列島においては東進~北進していくわけですが、西南日本においては縄文人の人口は希薄でしたので、若狭湾から伊勢湾を結ぶ線までは比較的速やか(それでも300 年くらいかかった)に弥生文化は浸透して行きました。
けれども、ここでしばらく足踏みします。なぜか。
東日本にはいまだ多くの縄文人が住んでいたから。
けれどもじりじりと東進~北進を続け、前300 ~400 年ころには青森にまで到達します。
その後、稲作文化は東北三県から一旦消滅し、北海道からアイヌ人が南下してきてペツだのナイだの色々残していきますが、アイヌ人の南下もここまで。
山形~宮城以南から中部~関東にかけては、弥生人と縄文人が点在~混合した状況が数百年続くこととなります。
と、いうことはですよ?当然のことではありますが、弥生人が最初にencounter した異文化~異人種の連中はアイヌ人ではなく縄文人であったわけです。
当ったり前ですが。
で、その後には近畿に大和政権が生じて列島全体の行政権の一体化を進めていくこととなりますが、当然、近畿以東の特殊性は十分に認識されておりました。すなわち、そこの住人は「我々」とはちょと(あるいは相当)違う、という認識で、これを「エミシ」と呼ぶこととなります。
で、エミシという言葉の文献における初見は、日本書紀、神武記の「愛瀰詩」という単語ですが、いわゆる「万葉仮名」で書かれてます。これが程なく「毛人」に置き換わり、さらに時代が下ると「蝦夷」という字を当てることとなります。
愛瀰詩は万葉仮名ですから特に意味はありませんが、毛人という文字を当てれば意味明瞭です。今でいう「濃ゆい連中」というカンジで、縄文人の形質の特徴の一つを明確に表現するものです。従いまして、エミシ=単に東北に移住した弥生系の人々、であるはずがないのも当たり前です。
さらに、蘇我毛人(そがのえみし)などの例から明らかなように、当初は、エミシ=猛々しく勇敢な人々、という含みがあったと思われます。
大和政権の東進に対する彼らの強力な抵抗を裏付けるもの、とも言えます。
で、漢字はともかく「エミシ」という音ですが、関連した言葉は日本語にはありません。従いまして、弥生人が縄文人を表現するために作り出した単語ではなく、当の縄文人が自分たちを表現するために使用していた単語であるはずです。
で、「俺たち」とか「我々」とか「ヒト」とか、そんなカンジの言葉だったのでしょう。
で、日本書紀にすでに記載されている単語ですから、それ以前にはすでに使われていたのも明らかです。
以上を考え合わせると、弥生時代の人々が列島を東進~北進する際に遭遇した縄文人との接触の中で縄文人から得た言葉の一つが「エミシ」であり、時代が下るにつれてさらに意味を拡張してエゾ~エビスとなった、と、センセは考えてます。
「エゾやエビスはエミシよりもさらに北の連中であり、エミシとは多少とも文化を異にする連中である」という説もありますが、面白い見解だと思います。
一方、金田一京助や大野晋氏によれば、「ヒト」を表すアイヌの古い言葉に「エンチュ」という単語があるそうです。これが色々変化して「エミシ」になった、ということです。
たぶん、基本的には正しいと思います。
じゃ、エミシはアイヌ語?ということですが、違うと思います。
「今月の書評-43」でも指摘したように、アイヌ語の中には縄文語から取り込まれた単語が存在している可能性があります。
「エンチュ」は古語であると同時に雅語であり、また、北海道ではなく樺太のアイヌの中にわずかに保存されていた単語であるということから、相当に古い時代の言葉であるのは間違いありません。加えて、歴史時代のアイヌ人が自らを「エンチュ」と読んでいたという記録も見出せません。
ということは、相当古い時代にアイヌ人の先祖と縄文人の先祖が始めて会遇したとき、まさに弥生人がそうであったように、アイヌ人もまた、縄文人(あるいは旧石器時代人である可能性も!)から、その言葉を獲得したのかもしれません。
従って、「エミシ」が古い言葉であり、これがアイヌ語に取り込まれた後に「エンチュ」となって残った、という可能性もあります。
以上、あることないこと、あるいはないことないことを述べてきましたが、結構、自信があります。合理的に考えて、どうあっても東日本の縄文人に初めて接触したころに得られた単語であって、ペツ~ナイの人々との接触によって得られた単語ではないと思います。
こう考えますと、現代においても東日本と西日本とは様々な点で異なるわけですが、東日本の人々にとってはなじみのある言葉だけど西日本の言葉とは大きく異なる言葉の中には、実は縄文由来の言葉が結構埋もれている可能性があるのでは?とも、時々思うセンセです。
みなさまあけましておめでとうございます。
お正月はいかが過ごされましたでしょうか?
センセのお正月といえば、例年通り埼玉の姉の家で親戚一同うち揃い、お屠蘇を飲んでお酒を飲んで、早くも二日には長野に戻ってまいりました。
で、いつまでも食っちゃ寝してられませんので、箱根復路の結果も見えてきた三日のお昼時分、登山靴を履いて近くの水晶林道を芝峠まで雪山登山に挑戦してまいりました。「坂城散歩道-16」と同じルートなので、どうぞ併せてお読みください。
今時分の坂城周辺の山々は山頂がうっすらと雪に覆われて、大体こんなカンジです。写真は、二年前に登った坂城町南面にそびえる虚空蔵山です。
水晶林道の入り口も、うっすらと雪に覆われていました。
でも大したことない。
アイゼンもかんじきも、まだまだ必要ありません。
定点観測。春夏秋冬、各季節ごとの写真を見比べてみてください。
登りだしの、日が差す場所には雪もありません。
冬枯れの里山も、ナカナカ風情がありますね!
と、いきなりカモシカの幼獣の死体がありました!昨年生まれたばかりの子供です。内臓は全て食われてます。犯人は???
切崖から落ちてケガして動けなくなったところを、タヌキかアナグマに食べられてしまったのでしょうか?
以前、「坂城散歩道-10」で、切崖の下に大きなアナグマの死体があったのを述べたことがありますが、切崖って、小動物にとっては結構危険な場所なのかもしれません。
で、内臓を食べた犯人を探すべく、周りの足跡とか調べましたが、タヌキの足跡が最も多かったので、とりあえず犯人はタヌキとしときます。
けれどもその後に判定を覆すかもしれぬ証拠が・・・。後程・・・。
大峰山方面を臨みます。お天気も良く、とても気持ちがいいですね!
どんどん雪深くなっていきます。
バイクで走るのが怖いところ。
雪の進軍となりました。八甲田山だけはカンベン!
カメラの電池が切れたので、ここからはスマホ画面となります。
たくさんの動物の足跡です。
ヒトと同じく、みなさん、林道をよくお使いのようで・・・。
例の砂防ダムのところまで、漸くたどり着きました。
つららがつららってますwww。
ここから芝峠までは、ナカナカ厳しい道が延々と続きます。
到着!時刻は三時ちょうど。出発してから二時間半の登頂でした。
証拠写真。
辺りは色んな獣の足跡でいっぱい!
センセの足跡も残しときました。
帰路にクマの足跡を発見!矢印がそうです。
間違いなく、クマです!
まだ冬眠していないヤツがいるようです!
先ほどのカモシカの幼獣を食ったヤツかもしれませぬ・・・。
センセも食べられないように、早く下山しないと!!!
帰路、夕日に映える雪の林道です。
ロマンチックですね!
登りは暑くて上着を脱いで半袖になって登ってきましたが、下りは寒くて上着を着て手袋をして帰ってきました。
耳も、手の指もちぎれそうになったので、次回はホッカイロだけでなく、スキー用の耳当てなんかもリュックに詰めていかなくては!
これは「坂城散歩道-16」と同じもの。
帰宅は四時半。
往復でちょうど4 時間の雪中行軍でありました。
ではみなさま、今年もよろしくお願い申し上げます。