2018年12月アーカイブ

今月の書評-45

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紅白歌合戦もダウンタウンもものともせず、縄文に固執するセンセです。

さて、北海道には登別、紋別、芦別などのベツ~ペツの付く地名や、稚内、幌内などのナイが付く地名が多いのが特徴ですが、これらが「川」を意味するアイヌ語であることはご存知の方も多いかと思います。

で、これら、ペツとナイの付く地名が東北北部にも多く存在することも、知ってる人は知ってると思います。以下、分布図です。

ペツ、ナイ.jpg
一見して明らかなように、青森~岩手~秋田に多く分布してますが、宮城~山形となると減少し、福島~新潟には(たぶん少数はあると思いますが)見られません。

で、これらの東北三県にペツ~ナイの付く地名がこれほど多く残存していることから、これらの地域には、過去にアイヌ人が住んでいたことは明らかです。

で、問題は、これらの地名はいつ付いた?ということです。

もしも亀ヶ岡文化を生み出した連中が純粋のアイヌ人であったとするならば、これら東北三県のペツ~ナイは彼らが名付けたものである可能性は、あります。
しかしながら、図からも明らかなように、見事に、ある一線(二線?)で停止しています。沖縄にまで影響を及ぼした栄光の文化にしては、東北三県でピタッとペツ~ナイが停止しているのは不自然です。

恐らく、この一線の南には、南下を阻止するナンカ(ダジャレです)が存在していたと考えられます。

で、種明かし。

これらの地名は、4世紀から6世紀にかけて北海道から南下してきたアイヌの人々の残した遺産なのです。

問題:では、なぜ一線で停止しているのか。
答え:一線の南には、すでに北上を開始していた倭人と、元々そこに住んでいた元縄文人が居たから。

じゃ、亀ヶ岡文化を生み出した連中は何者なのか?
アイヌとはまったく関係ないのか?

ここからは個人的な妄想も加えたお話になります。

三内丸山の時代からすでに、東北北部と道南地方は、丁度朝鮮半島の南沿岸から北九州がそうであったように、一つの文化圏を形成しておりました。
道南地方の背後には、Deep North、樺太経由の人々=アイヌ人による、津軽~道南文化圏とは多少とも色合いの異なる縄文文化がありました。
その結果、津軽~道南文化圏は、アイヌ文化と縄文文化が互いに融合~刺激しあう場となったはずです。
加えてシベリアからのツングース系文化との交流もあり、農産物としてはソバを植え、道南の豊かな海産資源も利用して、列島の縄文文化が疲弊する一方で、ここに栄光の亀ヶ岡文化が花開きました。

けれども主体は縄文系であり、deep なアイヌ系とは異なるものでした。

紀元前3~4世紀になると津軽地方にも水田耕作技術が到達し、ナント、彼らはこれに挑戦!一旦は成功します。その結果、ここに東北の縄文時代は終焉を迎えることとなりました。

けれども程なく気候は再び冷涼化し、稲作は見事に失敗!
津軽サイドの元縄文人は再び南下し、東北は閑散とした状況となります。

一方、道南サイドの連中にとってはさすがに北海道での水田耕作の選択肢はなく、引き続いて縄文時代を送ることを選びました。
ここで一旦、津軽~道南文化圏は分断され、道南はdeep 系アイヌの影響を強く受ける状況となりました。「続(ぞく)縄文時代」の始まりです。

このような状況で数世紀が過ぎたころ、樺太からギリヤーク系の連中が北海道に到着、定住生活を送るようになりました。「今月の書評-24」でご紹介した粛慎(しゅくしん)=オホーツク人(ニブフ人の祖先)です。
アイヌ人とオホーツク人とは基本的には敵対関係にありましたが、それでも男女関係というのは敵対関係にあるほど燃えちゃったりしますので、アイヌのロミオと粛慎のジュリエットとの間には子供ができちやったりしたようでして、アイヌの血には列島の他の地域ではナカナカ見られないタイプの北方由来のDNA タイプが、すでに縄文時代においても明確に検出されます。

で、これらオホーツク人の侵入に押された結果、紀元後の4~6世紀、ところてん式にアイヌ人は津軽海峡を渡り、今や人口希薄となった東北地方に侵入していった結果が、東北地方に今に残るペツ~ナイの地名というわけです。
これらの流れは、基本的に、考古学的にも文献的にも、確かなものだと思われます。

で、再び自問自答したいと思います。

「もしも縄文人=アイヌ人であり、縄文語=アイヌ語であったとするならば、ペツ~ナイの地名は東北三県に限られることなく、ましてやあの一線で停止するようなこともなく、少なくともより南部の関東~中部~北陸までは、比較的良好に残っているはずだ!それがあの一帯だけに限定されるということ、それ自体が、縄文語とアイヌ語は違うということを意味するものだ!」

と結論付けたいと思います。

実際は、関東や中部などにも、僅かではありますが、ペツ~ナイの地名があります。有名なのは「黒部川」ですね!クルペツです。
また、日本語としては意味不明な地名もアイヌ語で解釈すると意味が通じる、などという例もいくつか見られます。
例えば東京~埼玉の古い呼び名である「武蔵(むさし)」ですが、日本語としてはイミフです。けれどもこれをアイヌ語で解釈すると、「草の野原」という意味になるということです。

しかしながら、こういうのは眉唾ものだと思います。

東北三県のペツ~ナイの分布と北海道アイヌの距離的な近さ、さらに考古学や文献に基づく確かさに比べ、イミフな地名を適当に拾い上げ、アイヌ語で解釈して意味が通じるからといっても、それを縄文語=アイヌ語の証拠とするには余りにも苦しすぎます。古代朝鮮語を研究してるヒトが日本各地の地名をバッシバッシと古代朝鮮語で切りまくった本を読んだことがありますが、同じ穴のミーアキャットです。

しかしながら、「ならば、本当の縄文語とはどういうものなんだ?」と聞かれても、「分かりませぬ・・・。」と答えるしかありませぬ・・・。

現代の我々が知っている地名のほとんどには、漢字がふられてます。これが、実は、厄介なのです。
漢字には「音(おん)」があると同時に、意味があります。そのため、「音」に付けた漢字の意味に引きずられ、「音」までもが変化する例がしばしば見られます。北アルプスの「白馬」が良い例です。

白馬って、「ハクバ」じゃないです。白い馬じゃないんです!
あれは「シロウマ」と読まなくてはならないし、「シロウマ」は「白い馬」のことじゃないんです!知ってるヒトは知ってると思うけど、知らないヒトはググってください!

ということで、漢字によって古い時代の読み方がひん曲げられてしまうので、地名から縄文語を読み解く研究は実に難しい作業だと思います。でも、地道に丹念に拾っていけば、事によると、思いもよらない言葉が実は縄文語だった、などという結果も、将来的には得られるかも知れません。

言語学の先生たちには大いに頑張ってもらいたいところです!


では、とりあえず「ゆく年くる年」だけはチェックしたいと思います。
それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

カルロス・ゴ~~~ン!



今月の書評-44

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大晦日です。
一昨日~昨日は自宅をテッテ的に大掃除いたしまして、身も心もスッキリと新年を迎えられそうです。

汚れちまった悲しみも、燃えないゴミとして処分しました。

さて、青森の三内丸山遺跡に代表される盛大を誇った縄文文化ですが、「今月の書評-33」でもご紹介したように、その後は急激にシュリンクしてしまいます。
そんな中にあって、縄文最後のきらめきとでも言うべきものが、同じく青森の亀ヶ岡文化です。例の、遮光器土偶を生んだ文化です。

亀ヶ岡文化は東北北部から北海道南部にかけて栄えた文化で、遮光器土偶の他、独特の文様とベンガラや漆による色付けが施された土器や漆器類、漆塗りの櫛や籠の出土でも有名な文化です。

以下、いくつかをご紹介。

亀ヶ岡-2.jpg
注口土器 http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html 様より

亀ヶ岡-3.jpg
朱塗り土器 同

亀ヶ岡-4.jpg
合掌土偶 八戸市の縄文遺跡:是川遺跡(これかわ) https://blogs.yahoo.co.jp/nakagawa5939/37130344.html より

亀ヶ岡文化は、今からおよそ3000 年くらい前から紀元前3~4 世紀あたりまで続いた文化です。ですから、北九州に初めて水田耕作を伴う文化、すなわち弥生文化が現れたのと時を同じくして東北~道南に登場した文化です。
そして、水田稲作が青森に到達した、まさにその瞬間をもって終了した文化です。

時代はすでに歴史時代であり、大陸では殷~周~春秋戦国時代の頃です。
シベリアはツングースなどの北方系モンゴロイドが占める場所となり、亀ヶ岡文化の連中も、これら大陸との交易を行っていたと考えても不思議ではありません。個人的には、土器の文様や彩色、あるいは遮光器土偶の表面の文様などにも、大陸からの影響を感じますが・・・。

亀ヶ岡式の土器類は列島を南下し、関東~中部地方はもちろんのこと、北九州に及ぶに至っては、半島由来の初期の弥生式土器にも影響を及ぼしたほどに、晩期の縄文人を魅了した土器でした。
さらに驚くべきことに、沖縄本島からも、亀ヶ岡式土器の断片が出土しています。

まさに、縄文の有終の美を飾る文化であったと言えるでしょう。


さて、東北北部から道南を中心として栄えた亀ヶ岡文化ですが、この文化はアイヌ人が担ったものなのでしょうか?それとも三内丸山の生き残りの縄文人が作り上げたものなのでしょうか?

北海道南部に亀ヶ岡文化が広がっていたころ、北海道の他の部分にはどのような文化があったのでしょうか?


今月の書評-43

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さて、今年もいよいよ残りわずかとなってまいりました。明後日には平成最後のお正月を迎えるわけですが、年越しの準備はお済でしょうか?
対外的には何かと不確定要素の多かった一年でしたが、太平洋の彼方の大統領と日本海の向こうの大統領と、この二人の大統領に振り回されっぱなしの年であったように思います。たぶん、来年も同じような展開が続くのかと思いますが、「ヤレヤレ・・・」ってえのが平均的日本人の偽らざる気持ちかと思われます。

さて、「アイヌ人=縄文人?」ということですが、「今月の書評-40」でご説明したように、アイヌ人とは、2万数千年前にシベリアからマンモスを追って細石刃文化とN9b のmtDNA ハプロタイプを持ち込んだ人々の末裔だ!と、センセは考えています。
細石刃文化はその後しばらく北海道に留まりますが、その後に東北に伝わり、さらに南下して、1万2000 年前ころには関東から出雲地方にまで到達します。
一方、北九州には別の形式の細石刃文化が半島から伝わり、南九州まで到達することとなります。
現在においても顕著に識別できる日本列島東西二つの文化圏がすでに旧石器時代において生じていた、という興味深いお話です。
シベリアルートと半島経由のルート、この二つを想定すれば、比較的すんなりと腑に落ちる結果かと思いますが・・・。

で、その後に縄文時代となりますが、縄文人骨のN9b の分布を見ますと北>南の傾向が顕著に見られますので、これはこの時のアイヌのご先祖さまが先に列島に到達していた縄文人のご先祖さまとの間で交わった結果だ、と考えてます。

因みにこの場合、細石刃を売り込むために、アイヌ人そのものがセールスマンのように細石刃をカバンに詰めて列島を南下する必要はありません。東北の縄文人のご先祖さまがアイヌの嫁さんをもらったついでに持参金代わりの細石刃を得ることができれば、その後はほっといても、当時の最先端の文化である細石刃文化とイケテルオンナのN9b は、共に手を携えて南下していきます。細石刃を得たオトコは昔ながらの旧石器を使用している連中よりも多くの獲物を得ることができたでしょうから、N9b の嫁さんはより多くの子供を残すことができたことでしょう。

こう考えますと、ごく単純に考えて、北に行くほどアイヌ系の要素が強くなり、南下するほど半島由来の縄文人のご先祖の要素が強くなる、という図式が自然に描けます。言語も例外ではないでしょう。

TV ラジオはもちろんのこと、いまだ文字も無い時代ですから、言語は親から子へと口伝い。鉄道も車もありませんから、谷一つ隔てて数百年もすれば隣村とは相当に意思疎通が困難となった可能性も十分にあります。
一方でこの時代、列島を縦横に跨いで交易が活発に行われていたわけですから、何らかの共通言語的なものも存在したはずです。でないと、交易はできません。
関東の海産業や北陸のヒスイ工房、長野の黒曜石加工品など、各地方の特色が活発な交易の原動力となったと同時に、山や谷、海などの自然の障壁はヒトの移動を拒む方向に働くわけですから、両者相まって、この時代、列島にはいくつかの文化圏が生じました。当然、各々の文化圏で用いられる言語には違いが生じる一方で、交易の結果、文化の交流も生じたことでしょう。文化交流の結果、言葉の貸し借りも当然に生じたと思われます。

このようにごく単純~素直に考えてみると、deep な北海道では純粋なアイヌ語が話される一方で、南下するにつれてアイヌ語の影響は薄れていくという、ごく自然な結論に達します。
もちろん逆に、縄文人の言葉がアイヌ語に影響を与えた可能性も十分にあるはずです。

それが何であるかは皆目分からないんですけどね!


今月の書評-42

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アート・ブレイキーの「Moanin'」で始まる番組といえば、Eテレの「美の壺」。
谷啓の頃から見てるお気に入りの番組ですが、その後に「サイエンス・ゼロ」を見てお休みなさ~い、というのがセンセの週末の最後の瞬間です。

で、昨日の「サイエンス・ゼロ」、鳥取県で出土した弥生人骨のDNA分析結果の途中報告を行ってました。今月の書評-30」でもご紹介しましたね!

で、ここでも何度もご紹介している国立遺伝学研究所の篠田謙一氏のmtDNA の分析結果ですが、予想に反し、90% 以上が弥生系、すなわち「大陸系」のハプロタイプであったそうです。弥生人骨ですから弥生系であたりまえ、と考えるのは単純でして、予想に反しということは、もっと多くの縄文系が存在しているだろうと考えていた、ということですね!センセもそう期待してました。

なぜもっと多くの縄文系ハプロタイプがあると考えていたのか。それは、
1)この地方と東北地方の言葉は似ており、いわゆるズーズー弁。そしてズーズー弁とは縄文語が日本語を取り入れる際に生じた現象であるという説がある。
2)ゲノム分析結果から、出雲人と東北人の両者には共通性があり、西日本に典型的な「大陸系」タイプとはやや異なる。
3)これらの違いをもたらしているものが、両者に残存する「縄文の軌跡」である、と考えられる。
4)出雲の「国譲り神話」とは、縄文から弥生への移行を表すものなのでは?とも考えられる。
などなどの理由からです。

けれども、縄文との関係に関しては、今回の結果からはあまり多くを言えない、と思います。その理由は、TVの映像を見る限り、今回出土した人骨はまことに立派な甕棺(かめかん)に埋葬されており、服飾品もナカナカ豪華であることから、出雲地方の土着民の骨ではないことは明らかです(訂正します!甕棺の写真は別の遺跡のものでした!)
しかも槍傷刀傷矢傷が見られる例もあったそうなので、そう考えますと、「国譲り」前に大陸から渡ってきた連中と土着の連中との紛争の最中、渡来派の骨がたまたま出土し、これを分析した、という可能性を否定できません。

今回はmtDNA 分析の結果であり、ゲノム分析の結果はこれからですので、結論を出すにはいまだ早いのかも知れませんが、まず十中八九、ゲノムでも大陸系の結果となると思います(その後に覆りました!!)
これがゲノムで縄文がかなり多く出てきたらそれこそ興味深い結果となり、「大国主は弥生系ののっぺり顔のオンナがタイプだった!」とか、センセーショナルに報道されるかと思いますが、可能性は限りなくゼロかと・・・センセーショナルな結果となりました!!!)

それよりも個人的に興味深かったのは、mtDNA 分析において、一口に大陸系とは言っても北方系から内陸系、さらには南方系に属するハプロタイプが幅広く検出された、との篠田氏の文言です。
今月の書評-30」でも指摘したように、長江文明や遼河文明を形成した人々のタイプが混然となって出雲地方の弥生人骨から検出されたとしたならば、これは弥生人がどこでどのように形成されたのかを物語る強力な証拠となります。

こうなりますと、日本語=縄文語が発展したもの、という説は、ますます居心地が悪くなりそうです。

次回は、アイヌ語=縄文語ではない!というセンセの説を、も少し説明したいと思います。









今月の書評-41

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と、いうことから、ザザッと計算すると、アイヌのご先祖さまと縄文人のご先祖さまが大陸で分かれたのちに再び北海道で会合するまでに要した時間はおよそ一万年くらい、と見積もられます。

で、途中まで一緒でしたので、ザザッと言って、縄文語とアイヌ語は同類の言葉、とも言えます。

でも、一万年て、長いですよね!100 世紀ですよ、100 世紀!!!
100 世紀の間に言葉はどのくらい変化するのか、本当のところは誰にも分かりませんが、言語学における最新の説は以下のようなカンジです。

世界中の言語の中で最も研究が進んでいるのが、いわゆるインド・ヨーロッパ系の言語です。そして、皆さんご承知のように、インドのアーリア語とドイツ語やイタリア語などの欧州の言語とは同源である、と認められています。
で、これらの言葉はいつ頃分かれたのか、という疑問が生じますが、現在、大別して二つの説があります。

一つは「クルガン説」で、これは主に考古学的証拠に基づいた説です。すなわち、クルガンと呼ばれる騎馬民族集団が今からおよそ6000 年前に中央アジアに住んでおり、勢力の拡張に伴って彼らの言語がインド・ヨーロッパに広がった、というものです。
もう一つは「アナトリア説」と呼ばれるもので、これは最新の統計学的手法を用いて言語学的観点から述べられた説です。すなわち、現在のトルコの地であるアナトリア半島に今からおよそ8000~一万年前に住んでいた連中の言語が農業技術の広がりに伴って欧州全体に拡大した、というものです。

ま、どちらが正しいのか、論争は継続中かと思われますが、いずれにしましても、一万年より古くはならないようです。
であるならば、アイヌ語と縄文語は英語とヒンディー語、小さく見積もった場合でも英語とイタリア語程度の違いは生じていただろう、と考えても大きく外しはしないかと思います。


さて、ちょいとお話変わって、実際のアイヌ語をここで少しご紹介したいと思います。YouTube をサーフィンしていたら、心に残るアイヌの子守歌がうp されてました。「60のゆりかご」という題名です。アニメも素晴らしいので、ぜひお聴きになってください!
この歌から、カント→空、チセ→家、ポンペ→赤ん坊、ペッ→川を意味することがわかりますね。

ポンペ、って可愛い響きですね www!いかにも「赤ん坊」っていうカンジです。

また、シロカネ、コンカネはそれぞれ白金(銀)、黄金でしょうから、日本語から入ってきた言葉であることも分かります。

アイヌ語で「神」を意味する有名な言葉、「カムイ」ですが、これが神から借用された言葉なのか独自のものなのか、あるいは同源なのか、これも論争があるようです。



今月の書評-40

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続きです。

北海道への細石刃文化の流入とマンモスハンター
日本列島各地でナイフ形石器文化が花盛りだった頃、北海道に細石刃文化がシベリアから流入しました。

最新の研究では、細石刃文化の流入は今からおよそ2 万3000 年くらい前、と考えられています。
また一方で、マンモスが樺太を通じて大陸から北海道に到達したのは3 万~2 万5000 年前、さらに、マリタ遺跡にマンモスハンターが住んでいたのも同じ時期です。

と、なりますと、次のようなシナリオが描けます。


姶良火山が大噴火した
粉塵が大気を覆い、地球規模で気温が低下した
海面が低下し、大陸と北海道が樺太を通じて繋がった
さすがのマンモスたちもシベリアの寒さに耐えかねて南下した
これを追ってシベリアのマンモスハンター連が細石刃技法を伴って南下してきた


どうでしょうか?すんなりと腑に落ちるようなカンジがしますが・・・。


細石刃文化を伴って大陸から北海道に渡ってきたマンモスハンターこそが、アイヌの祖先だ!
細石刃技術は、マリタ遺跡に住んでいた人々がマンモスを効率的に狩るために編み出した文化です。で、当時のマリタ遺跡に住んでいた人々が欧州系の連中であったのは、すでに何度も述べたところです。
で、あるならば、北海道にマンモスを追って流入してきた人々は、これら欧州系のマリタ人だったのでしょうか?

DNA 分析によって、その可能性は完全に否定されています!

「ヒトが流入しなくても、文化だけが入ってきた可能性もあるジャン!」という問いも提出できます。その場合は次のようなシナリオとなります。


北海道では津軽海峡を渡ってきた旧石器時代人がほそぼそと生活していた。
                ↓
      「近頃やけに寒くなってきたのお~」と感じていたころ、
 見たこともない毛むくじゃらのゾウが北からのっしのっしと押し寄せてきた。
                ↓
  そのうちの一頭は背中にケガをしていた。見ると、槍が刺さっていた。
                ↓
  やさしい旧石器時代人が可哀そうに思い、刺さった槍を抜いたところ、
        槍先には細石刃技法が使われていた。
                ↓
   「おお、これは素晴らしい!」と北海道の旧石器時代人は恐れ入り、
           早速真似するようになった。
                ↓
槍を抜いてもらったマンモスは、お礼に「あなたに温かい毛皮のマントを差し上げましょう。けれども私がマントを作っているところを覗いてはいけませんよ!」
              と言った。
                ↓
       けれども好奇心に駆られた旧石器時代人は、
    ある晩マンモスがマントを作っているところを覗いてしまった。
     マンモスは、自分の皮を剥いでマントを作っていたのだ!
                ↓
   「見ましたね?」と言ったマンモスは、温かい毛皮のマントを残し、
      丹頂鶴となってシベリアに飛び去っていった・・・。


どうでしょうか?可能性としては低い展開ですね。

インターネットやSNS も無い時代ですから、やはり文化の伝達にはある程度の人数が伴っていた、あるいは、すでにこの頃までには北海道と大陸のマンモスハンターとの間には何らかの物流システムが存在していた、と考えるのが妥当だと思います。
そしてマリタ遺跡~細石刃~マンモスという流れを素直に読み取る場合、北海道の少数の旧石器時代人が北上し、細石刃文化を学んだ後、再び北海道に戻った、という展開は極めて考えづらいと思います。

で、この項の結論。
マンモスを追って大陸から北海道に流入してきた人々がアイヌ人の祖先である、という可能性が強くなった!」

DNA 的にはどう?
「今月の書評-24」でアイヌ人のmtDNA の結果を示しました。最も古い時代のものでも縄文時代ですので、当時のアイヌ人にはすでに北方系モンゴロイドのDNA がある程度流入していることも示しました。

けれども、マリタ遺跡の欧州系の遺伝子はまったく検出されませんでした。

細石器技術が流入したのは2 万3000 年くらい前のことですから、当時のシベリアには北方系モンゴロイドは未だ存在していません。

で、あるのなら、今月の書評-24」で示した縄文時代のアイヌ人のmtDNA パターンから北方系モンゴロイドのパターンを差し引いたものが、細石刃を持ち込んだ旧石器時代のアイヌのご先祖と目される人々のmtDNA のプロトタイプである!と断定してもOK だと思います。さらに言うならば、南から来て住み着いていた南方由来の旧石器時代人のmtDNA を差し引けば、さらに精度が高くなる可能性もあります。すなわち、ここからM7a を引くのです。

そうなりますと、アイヌ人mtDNA のプロトタイプは、ほぼN9b 一色となるように思われます。

で、沖縄や石垣島から出土した縄文人骨はもっぱらM7a であり、列島各地から得られた縄文人骨のmtDNA 分析からは南から北へのM7a →N9b 勾配が確認されるわけですから、ここから得られる結論は以下のようなカンジとなります。


チベット高原から東南アジアに到達したご先祖さまたちは、
その後、M7aN9b のプロトタイプのハプロタイプ(ややこしくてすいません) 
を持った女房連を伴って、中国大陸を北上した。
 道すがら、沖縄や八重山諸島に住み着いた少数派もいた。
途中で、朝鮮半島を経て日本列島に移住する一派と
そのまま北上する一派に分かれた。
北上した一派を待ち受けていたのは、恐ろしいほどの寒気だった。
ここで、エネルギー産生装置であるミトコンドリアに
強い淘汰圧がかかった。つまり、
N9b のミトコンドリアはM7a よりも寒気に耐えた!
 ↓
時が経つにつれ、彼らのmtDNA は、ほぼN9b 一色となった・・・。


と、いうカンジでいかがでしょうか?


結論
ウイキのY染色体ハプログループD の項目に、興味深い図が載っています。
以下の通りです。

YDNA-D.jpg
これはYDNA のD 全体の分布図です。色が濃ゆいほどD が文字通り色濃く残っている、と考えてください。
チベットと日本列島、特に北海道なんかは真っ黒けですね!

興味深い点は、樺太南部~千島列島~黒竜江(アムール川)に沿ってD の分布が見られる点です。アルタイ山脈の北辺にも薄く残っているので、一見すると、カザフやキルギス辺りでD は二手に分かれ、北回りの一派がバイカル湖から黒竜江を下って樺太~北海道に到達したようにも見えますが、アルタイ山脈はとりあえず置いといて、黒竜江沿いのD は、もっと時代が下った頃のアイヌ民族の大活躍の跡を示すものだと思います。

まず、YDNA の分析結果は現代人から得られるものだということを思い出してください。今現在、この地域に居住している人々は、ロシア人を除き、北方系モンゴロイドの代表格であるツングース系の人々です。で、アイヌのご先祖様が来た当時は彼らはまだいなかったので、その頃の遺伝子の足跡を示すものとは考えられません。
アルタイのD はD* であり、古いタイプではありますが、わずか2%しか検出されず、チベットの分派のなごりみたいなカンジです。

アイヌ民族は、現代ではもちろん圧倒的に少数派となってしまいましたが、歴史時代においては北海道から樺太~千島列島に進出しただけでなく、大陸に渡り、ツングース系の連中や歴代中国王朝の出先機関などと大いに交易をおこなっておりました。
モンゴル帝国のころにはモンゴルの軍隊とも大いに戦い、しばしばこれを打ち破った、という武勇伝もあるほど、実に勇敢な民族だったのです!

アイヌの酋長-2.jpg
これは江戸時代のアイヌの酋長の図です。威風堂々としてますね!
北海道博物館開館記念特別展「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」からです。
http://www.hokkaidolikers.com/articles/3115


従いまして、黒竜江沿いのD の足跡は、歴史時代におけるアイヌ民族の交易の跡を示すもの、と考えるのが合理的だと思います。

ただ一点付け加えるとすれば、彼らは黒竜江のルートを「知っていた」からこそ、このような交易が可能となったのかも知れません。
もしも彼らが東南アジアからシベリアに到達後にマリタ遺跡のマンモスハンターと出会い、その後に黒竜江を下って最終的に北海道に到達したとするならば、その記憶や伝承が子孫にも伝えられたのかも知れません。

本当のことはもちろん分かりませんけどね!
で、最終的な結論は下図を参照のこと。

マリタ遺跡-7-3.jpg
みんな、遠路はるばる苦労を重ねて日本に来たんだね!
やっぱり、お盆にはご先祖さまに感謝しなくてはいけません。

ではっ!


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