2018年11月アーカイブ

今月の書評-39

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さて、アンダマン諸島の諸部族について少し調べてみました。

ウイキによると、アンダマン諸島の部族は大アンダマン系とオンガン系の2 グループに大別され、D* のYDNA を持つのはオンガン系のみだそうです。また、彼ら のD* の保有率は100% に達するとのことでした。
ということから、出アフリカ後、大アンダマン系の人々はインド亜大陸南岸沿いに到達したのに対し、オンガン系の人々は、「今月の書評-37」で示したように、チベットから南下して渡航してきた可能性があります。
一方で、mtDNA を見てみると両者共に南経路のハプロタイプに属するとのことですので、これはセンセが先に考えた説を大いに補強する結果となっています。

なんだ、やっぱし東南アジアで女房を乗り換えたんじゃん!

ま、それはさておき、残された写真などを見ても、アンダマン諸島住民は部族ごとに顔立ちもナカナカ異なっています。これは台湾のいわゆる「高砂族」などと呼ばれていた先住民にも当てはまることで、明治時代頃に撮られた台湾先住民の写真を見ると、顔立ちなども各部族ごとに特徴があります。当然、言語的にも単なる方言以上の違いがあったかと思われます。で、このような特徴は、当然ながら、縄文時代のご先祖さまたちにも、ある程度、当てはまると思われます。(アンダマン諸島住民の写真、ここにいくつか掲載したいのはヤマヤマなんですが、その~、NHK とは違って皮や草のブラジャーしてないので、涙を呑んで載せません。どうぞ各自でググってください。)

と、いうことから、YDNA のD を有する連中は東南アジアあたりで女房を乗り換えた後、南に向かった一派はオンガン族に、北に向かった一派は日本列島に到達後に縄文人になったと考えられます。

では、アイヌ人は何処から来た?樺太経由か?朝鮮半島から渡来した連中が津軽海峡を渡ってそのままアイヌ人となったのか?
もしも旧石器時代の人骨が日本列島~樺太~シベリア~朝鮮半島などから出土し、DNA 分析が可能なほどに状態が良かったならば、恐らくは、決定的な確証が得られるでしょうが、残念ながら全く得られていないので、石器その他の状況証拠だけで推測していかなくてはなりません。で、整合性~可能性~合理性がより高い推論をもって結論付けたい、と思います。

本州と北海道、どっちが古い?
日本列島にたどり着いた旧石器時代人ですが、北海道とその他の列島と、まずはどちらに先に到達したのか?これを知るには、これまでに全国から出土した旧石器時代(当然ホモサピエンス)の遺跡の年代を調べれば分かりそうです。

で、長野県の野尻湖畔から出土したナウマンゾウの殺戮現場が最も古そうで、これはおよそ4 万年前と見積もられています。
他にも3 万5000 年前の遺跡がいくつか発見されていますが、全て北海道以外の場所であり、加えて、これらの古い遺跡から出土する石器類はすべて南方系の特徴を有するものだそうです。

北海道で最も古いと考えられている遺跡は帯広市の「若葉の森遺跡」で、ここから出土した黒曜石でできた石器類はおよそ3 万年前と見積もられました。また、これらの石器は全て黒曜石から得られた剥片ばかりで、二次加工もなく、単純な形式のものが大部分であるとのことです(下の写真)。

若葉の森遺跡-2.jpg
「帯広の遺跡」より http://www.octv.ne.jp/~hyakunen/iseki-guide.htm#wakaba

現在までのところ、北海道から出土した旧石器時代の遺跡の多くは古くて2 万5000 ~3000 年くらいのものであり、3 万年と見積もられる若葉の森遺跡は例外的だと思われます。

で、この項の結論。

「旧石器時代人は、東南アジアで培った石器文化を伴ったまま、まずは朝鮮半島から九州に上陸、その後に本州全体に広がった。その後、少数の連中が津軽海峡を渡って北海道に到達した可能性は、ある。」

石器の形式と旧石器時代の文化圏
少数の旧石器時代人が津軽海峡を渡って北海道に到達し、そこで人口を増やして後のアイヌ人となったとするならば、この時代の本州、特に東北地方と北海道の間で文化の連続性が見いだせるはずです。
で、この時代の文化と言ったって「石器」とか「狩猟わなの跡」とか「石焼料理の跡」とかで判断せざるを得ないわけですが、石器の分析がずいぶん進んでいるので、これに基づいて推論してみたいと思います。

先に述べたように、3 万年前の遺跡が一点見つかっているとはいえ、北海道の旧石器時代の遺跡の多くは2 万5~3000 年前以降のものが大部分です。
その一方で、その他の列島各地では、3 万4000 年から2 万7~9000 年前の時代において、すでに「日本独自」とも考えられている特有の形式をもった石器が作られるようになりました。いわゆる「ナイフ形石器」です。

ナイフ形石器-2.jpg
「カチカチ石器づくり」より https://blogs.yahoo.co.jp/hard_6shale_7collector_8/38842854.html


ナイフ形石器はいわゆる「石刃(せきじん)」技法で作られた石器で、日本列島の周囲からはあまり出土しないため、列島独自に発達した石器と考えられています。石刃技法とは、これまでの石器が破片を捨てて残った核を主体に使用していたのに対し、捨てていた鋭利な破片を石器として利用しようと考えだされた技法です。これをさらに進化させたものが「今月の書評-11」でご紹介した「細石刃」技法で、マリタ遺跡に住んでいたマンモスハンターの連中を通して列島に伝わったと考えられています。

で、今月の書評-10」でもご紹介した今からおよそ2 万7~9000 年頃前の「姶良カルデラの大噴火」以前の時代には、北海道ではナイフ形石器は未だ作られておりません。

姶良カルデラの大噴火によって西南日本は壊滅的な状況となるわけですが、これを境にして、日本列島の旧石器時代は大きな変化を迎えるように思えます。
まず初めに、ナイフ形石器がさらに進化すると同時に、この時代も後半期になると、尖頭器(せんとうき、ポイント)と呼ばれる新しいタイプの石器が登場するようになりました。両者共に棒の先端に取り付け、大型獣を狩る際に用いられたと考えられています。

尖頭器-2.jpg
こういうカンジです。「旧石器時代の教科書」より http://palaeolithic.jp/primer/4/index.htm 


また、この時代から石器の形式に地方色が見られるようになり、特に東日本と西日本で明白な差が生じるようになりました。このことから、現代に至るまで続く日本列島の東西文化の違いというものが、実に旧石器時代にさかのぼる可能性が指摘されています。

なぜこの時代に東西文化の差が生じたのか定かではありませんが、姶良カルデラの大噴火による植生や動物相の変化~西南日本の人口希薄化~旧石器時代人の移動、東日本への人口集中~植生が回復するにつれての朝鮮半島からの旧石器時代人の新たな流入、などが考えられます。
また、この時代の北海道では、広郷型(ひろさとがた)と呼ばれる独自の形式をもったナイフ形石器が作られるようになりました。

で、この項の結論。

「姶良カルデラ大噴火以前の北海道は人跡まばらの状況。出土する石器にも先進的なナイフ形は未だ見られない。噴火以降、独自性の強い広郷型と呼ばれるナイフ形石器が見られるようになるが、この頃までは、北海道は他と比べ、むしろ人跡未踏の地のイメージが強い。」




今月の書評-38

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昨年に比べて寒さの到来が明らかに遅い日本列島ですが、そろそろ冬支度も迫ってきたここ坂城です。

さて、「アンダマン諸島」なんて日常的にはほとんど耳にも口にもしない言葉ですが、このブログを常日頃から読んでくださっているIQ のすこぶる高い皆様方としては、

「ああ、例のD*のYDNA ハプロタイプを持つ連中がいる島のことだね。ま、社会人としての一般常識だね!」

なんて余裕しゃくしゃくでニュースをお聞きになったことかと思います。

ナンカ、冒険家兼キリスト教の伝道師のアメリカの若者が、よせばいいのにアンダマン諸島の一つである北センチネル島に伝道目的で渡航し、現地の住民に矢で射殺されたそうです。
今月の書評-37」で示したように、ここの住民は非常に古い時代に現代のミャンマーあたりから島に渡り、その後数万年もの間、文明世界との接触を一切断った生活を送ってきた人々です。島によっていくつかの部族があり、それぞれ性質も異なるようですが、北センチネル島の連中は非常に排他的な性格を有するようで、過去にもたまたま流れ着いたインド人の漁業者などが同じ目に合っています。

一応インド領として認められていますが、アマゾン奥地の狩猟採集民などと同じく外部との接触によって伝染病などにより簡単に絶滅する恐れがありますので、インド政府としてはほぼ完全にノータッチ状態であり、渡航も厳重に禁止されています。
14 年前のスマトラ沖地震の際、住民の状況を調べるためにインド政府がヘリコプターを派遣して上空から撮影したところ、住民たちが弓矢をもってヘリコプターを攻撃する映像がTVで流れ、ナカナカの驚愕であったのも記憶に新しいところです。

今回は一応「殺人事件」ではありますが、インド政府としては、当然ながら、全く動かないと思います。さすがのトランプ大統領も、カショギ氏とは異なり、この件に関しては一顧だにしないと思います。



それにしても伝道師兼自称冒険家って・・・・・・・。
帝国主義の時代じゃないんだから・・・・・・・。




今月の書評-37

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「縄文シリーズ」で引用した本の情報はすでにいくつかが古くなっているようですので、これらの新規更新も兼ねて、新たに列島への侵入ルートを考えてみたいと思います。

北方ルート説
10 年くらい前までは、この北方ルート説が花盛りでした。
その最大の理由が、「マリタ遺跡」というバイカル湖畔の有名な遺跡の存在にあります。

マリタ遺跡-1-1.jpg

マリタ遺跡は今からおよそ2 万3~4,000 年前の遺跡で、多くのマンモスの骨や細石刃形式の石器群が数多く出土したことから、いわゆる「マンモスハンター」の人々の住居跡だと考えられています。
そして、今の時代、近傍に典型的な北方モンゴロイド系の狩猟民族であるブリヤート人が住んでおり、彼らと現代日本人との遺伝子上の類似から、列島初期の住人達はマンモスを追って樺太から北海道へと渡った、そして他の一派は朝鮮半島から北九州へと渡った、という説が主流となりました。

マリタ遺跡-2-2.jpg
 ↑ こういうカンジです。

ところがその後にマリタ遺跡から出土した人骨のDNAを調べたところ、彼らはアジア系ではなく、欧州系の人々であったことが明らかとなりました。おまけに日本列島に旧石器時代人が住み着いたのは4~3万5,000 年くらい前のことですから、マリタ遺跡、少し新しすぎます。それもこれもあって、結局、上記経路説はしぼんでしまいました。


中央アジアルート説
日本人男性、特にアイヌ人や沖縄人には縄文人の血が色濃く残っていると考えられるわけですが、根拠の一つがYDNAのハプロタイプ分析結果によるものです。
今月の書評-17」では縄文人に特有のYDNAハプロタイプをD2 と書きましたが、現在ではさらに分析が進んで、より下位のタイプであるD1b に分類されるようになりました。
ホモサピエンスがアフリカを出た当初、Dタイプの人々とEタイプの人々とは未だ渾然一体となって明確に分岐していませんでしたが、時代が下るにつれてまずはDEが分岐。さらにその後、Dはいくつかのサブグループに分かれていき、日本列島に到達後にD1b として落ち着いた、と考えられています。従いまして、D系統において最も古いタイプはDEで、次にD*、縄文人のD1b は最後に分岐したタイプであるとみなされます。 

これまで、チベットとインド洋の島であるアンダマン諸島にDタイプのYDNA を持つ人々がいることが明らかとなっていましたが、なぜ日本列島の縄文人とチベット人、そしてインド洋のアンダマン諸島にDの親戚がいることは謎でした。
ところが数年前、チベット住民からDEのタイプを持つヒトが見つかり、その結果、縄文人中央アジアルート説が浮上することとなりました。

マリタ遺跡-3-2.jpg
 ↑ こういうカンジです。青色は、アイヌ系が樺太経由で北海道に来たと仮定した場合の想定ルートです。

でも、これ、ちょいと可笑しい気がする。なぜか。
縄文のご先祖さまたち、チョンガー集団だったはずがないから。

チベット奥地から日本列島に到達するまで数万年はかかっているはずですから、その間オトコ連中だけで過ごせるはずもなく、当然女性陣を伴っていたはずです。
で、縄文を彩るミトコンドリアDNA(mtDNA)はM7aN9b ですから、当然両者(あるいは両者のプロトタイプ)共にYDNAと軌跡を共にしなければおかしい、となるわけです。

では、というのでmtDNAを調べてみました。以下の図です。

マリタ遺跡-5-2.jpg
こちらはチベットをかすりもしない。見事なまでに南回りです。

ということは、縄文のオトコ連は日本列島直前で連れの女性陣を捨て、南から来たMNのmtDNA を持った女性陣に乗り換えた???そのとき南から来てた男性陣はどうした?

ま、そんなことはありそうもないお話ですね。

ともかく、YDNA の結果とmtDNA の結果を力技で統合してみると、以下のようなカンジになります。

東南アジアルート説

マリタ遺跡-4-2.jpg
とにかくインド亜大陸からD関係が見つかっていないので、Dのオトコはチベットから一旦東南アジアに南下し、さらに一部はアンダマン諸島に渡航し、さらにここで女性陣を乗り換えて新たに北を目指した、というシナリオとなります。これはセンセがエイヤッ、とばかりに考えた。

でも、ホントかな?

と訝しく(いぶかしく)思っておりましたら、つい最近、金沢大学が愛知県の伊川津(いかわづ)遺跡から出土した約2,500 年前の縄文晩期の女性人骨のゲノム配列を解読し、これをアジア各地の古人骨から得られたゲノム情報と比較した、との報道がありました!その結果、縄文人から得られたゲノム配列は、東南アジアから得られた古人骨のゲノム配列と最も良く似ていた、とのことでした!

そうなりますと、以下のようなカンジかな?

マリタ遺跡-6-2.jpg
これはセンセが考えた先の図と大変よく似ています。ただし、こちらは東南アジアまでの経路が不明なので、その点、物足りない気もしますが、少なくとも男女ともに南方由来である可能性が十分に高くなったと思います。

で、肝心のアイヌのご先祖さまが樺太経由なのか、あるいはことによるとひょっとして津軽海峡を渡って北海道に住み着いたのか、新たな疑問が生じます。
南経由で列島に渡り、北進後、津軽海峡を渡った人々がアイヌ人の先祖となったのであれば、まさにアイヌ人こそは縄文人の直系の子孫であり、アイヌ語イコール縄文語である可能性が高まりますが・・・。

さて・・・・・・・。



今月の書評-36

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ピ-リカピリカ

これはセンセが小学校の時に習ったアイヌの歌です。
意味は、
「きれいだね~美しいね~良い日だね~。美しい子がいるよ~誰だろうね?」
というカンジ。説明されないと、全くわかりませんね!

お次は有名な沖縄のわらべうた。


このままでは分かり難いかもしれませんね。漢字をふると、

てんさぐの花(鳳仙花のことです)は爪先に染めて、
親が言ったことは肝(きも)に染めよ

となります。意味明瞭ですね!


以上から分かるように、アイヌ語は日本語と体系的に相当異なる言語ですが、沖縄の言葉は(あるいは昔の沖縄の言葉は)、耳で聞くと異国の言葉に聞こえるかもしれませんが、現代日本語の一方言に過ぎません。
そして、「縄文シリーズ」で何度も述べたように、沖縄人もアイヌ人も縄文人の血を色濃く残している人々です。
縄文以降の沖縄に何があったのか、これは後のテーマとして残しておきますが、次の点はハッキリと言えると思います。すなわち、アイヌの人々が縄文人の直接の子孫であるとするならば、アイヌ語=縄文語であるのは間違いのないところである。加えて、アイヌ語の話者は極めて数が少なくなってしまったとはいえ、金田一京助博士以来のアイヌ語研究には少なからずの蓄積があるわけですから、これは縄文言語研究そのものを意味することになります。

これは正しいでしょうか?

これを検証するために、今一度、列島にどのようにしてご先祖さまが住み着いたのか、おさらいしてみたいと思います。以下、次号!




今月の書評-35

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ひむがしの 
     のにかぎろひの たつみえて 
                  かえりみすれば つきかたぶきぬ



いきなりの和歌で登場です。読めますよね?
以下、漢字をふると、

東の 野に陽炎のたつみえて 返り見すれば 月傾きぬ

となります。何の注釈もなく、意味明瞭ですね!
ご存知、柿本人麻呂さんの歌です。
今から1,300 年以上も前、7世紀の言葉です。

今から1,000 年以上も前の言葉の意味が何の注釈もなく明瞭に理解できるとするならば、この歌が詠まれた7世紀からさらに1,000 年くらい前の言葉も、たぶん、そんなに変わっていないのじゃなかろうか、と想像しても大きな間違いはないと思います。
この歌が詠まれた時代のさらに1,000 年くらい前というと、紀元前300 年くらい前、ということになります。いわゆる「弥生時代」に相当します。

この先詳しくお話していく予定ですが、弥生人と縄文人、あるいは弥生文化と縄文文化、という形で、しばしば対立的に語られます。両者の際立った違いは明らかですので当然だと思いますが、一方で、「縄文シリーズ」で何度も言及したように、現代日本人には縄文人の遺伝子が色濃く残っているわけですから、言語を含む縄文文化もまた現代日本に色濃く残っているのではないのか、あるいは極端に言えば、先に述べた柿本人麻呂の歌も「縄文語」で歌われたものなのではないのか、などという珍説を提出してもとりあえずはOK かも知れません。

で、まずはこの「珍説」を葬り、ついで「弥生人とは日本語を話す人々である」と仮定して、「弥生シリーズ」の初頭を飾りたいと思います。



今月の書評-34

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みなさまこんにちは!久々の登場です。
いつのまにやらあの猛烈な酷暑の日々もすっかり影を潜め、秋もたけなわ。
朝晩には冬の足音すら薄っすらと聞こえつつある坂城です。

一年近く続いた縄文シリーズも一応終止符を打ち、新たに弥生シリーズを立ち上げるべく色々準備していたセンセでしたが、弥生人は縄文人よりもよっぽどクセモノ!調べれば調べるほど混乱してくる主題である、ということがよお~っく分かりました。

とりあえず、以下に参考にした書籍を列挙します。縄文人との重複もあります。

言語系
大野晋    日本語の起源  岩波新書
小泉保    縄文語の起源  青土社
大木紀通   縄文語の言葉  花伝社
大野敏明   日本語と韓国語 文藝春秋

農学系
佐藤洋一郎  稲と米の民族誌 NHK
佐藤洋一郎  イネの歴史   京都大学

考古学系
高田貫太   海の向こうから見た倭国 講談社
森下章司   古墳の古代史     ちくま新書
工藤雅樹   蝦夷の古代史     平凡社

歴史系
藤尾慎一郎  弥生時代の歴史   講談社
水野祐    日本古代の国家形成 講談社
小林恵子   古代倭王の正体   祥伝社
吉田一彦   日本書紀の呪縛   集英社
遠山美都男  白村江       講談社
森公章    白村江以後     講談社

朝鮮系
朝鮮史研究会 朝鮮の歴史          三省堂
鳥越憲三郎  古代朝鮮と倭族         中公新書
長浜浩明   韓国人は何処から来たか     展転社
室谷克実   日韓がタブーにする半島の歴史 新潮新書
豊田隆雄   本当は恐ろしい韓国の歴史     彩土社

沖縄系
伊波普猷   古琉球         岩波
伊波普猷   沖縄歴史物語     平凡社
来間泰男   グスクと按司 上下   日本経済評論社
来間泰男   琉球王国の成立      日本経済評論社
山里純一   古代の琉球弧と東アジア 吉川弘文館
黒嶋敏    琉球王国と戦国大名     吉川弘文館
高宮廣衛   先史古代の沖縄      第一書房
間宮厚司   沖縄古語の深層      森話社
安里進    琉球の王権とグスク    山川出版社

その他
上野誠  万葉集から古代を読み解く       ちくま新書
武光誠  日本人なら知っておきたい古代神話 河合書房
三浦佑之 万葉びとの家族誌         講談社


また、ウイキペディアなど、ネットからの情報も数多く参考にさせていただきました。特に、以下のブログからは多くの情報と考える機会が得られましたので、ここで感謝の気持ちを込めて紹介させていただきます。

伊藤俊幸氏 日本人の起源 http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html
知識探偵氏 知識探偵クエビコ http://digx.hatenablog.com/
金平譲司氏 日本語の意外な歴史 http://www.jojikanehira.com/

伊藤氏のブログは古いですけど、旧石器時代から大和政権時代に至るまでを網羅し、教科書的な意味でとても参考になります。いくつかのヒントも得られました。
知識探偵氏は、人類学系の遺伝子解析の専門家のようです。あまり読みやすいブログではありませんが、原著論文に当たらずとも最新情報が得られます。
金平氏は言語学の専門家で、日本語の起源に関して「目からうろこ」の情報がリアルタイムで得られます。




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