2017年12月アーカイブ

今月の書評-4

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本日はお正月イブ。除夜の鐘まであと8時間ほどです。
先ほど研究室に行ってネズミクンたちの世話をして帰ってきたばかりですが、今日は朝からBSで「七人の侍」をずう~っと見てました。

今月の書評-1」で「センセはドラマなんぞ見ん!」などとえっらそうなことを言った口の先が乾かぬうちに、3時間もTVに噛り付いてた・・・。しかも「七人の侍」、先月Youtube で見たばかり・・・。中国語だったけど・・・。もっと言うならば、センセは「七人の侍」かれこれ10回以上は優に見ている。微に入り細を穿ち、あのシーンこのシーン、全て知ってる。でもまた見てしまった・・・。なぜなんだ???

センセが初めて黒澤明監督の「七人の侍」を見たのは、小学一年生の時でした。世田谷区城山小学校の校庭で、木造校舎の壁に大きなシーツみたいのを張り付けて上映してました。たぶん、夏休みの「子供映画大会」みたいな催しだったと思います。で、母親に連れられてヤブ蚊に刺されながら見てました。
小学校一年生ですから筋書きなんか分かりません。分かりませんが、あの最後の決戦のシーン、土砂降りの雨が降りしきる中、半裸に鎧を付けた三船敏郎演じる菊千代が泥だらけになって種子島に打たれながらも野伏せり(のぶせり)
の大将(伊藤雄之助?)を仕留めて自分も死んでしまうシーンがおどろおどろしくも凄まじく、子供心にもしっかりと焼き付いて、なかなか離れることがありませんでした。
その後はほとんど見ることもなく、次に見たのがW大学に入ってからのことかな?TVの再放送でした。いたく感動して、大学ノートにキャラクター全員の似顔絵なんぞ描き散らかしておりました。その後は折に触れ、レンタルビデオの時代には時折VHSを借りてみたりしてましたが、世の中便利になりまして、インターネットの時代になるとYoutube なんぞが出て参りまして、ホントはいけないんだろうけど、ロハで見れる時代となりました。でもUP されるたびに削除され、削除されてはUP されることの繰り返しのようで・・・。しかも先月見たのは中国語で吹き替えられてましたが、その前に見たときはスペイン語でした。さっすが黒沢監督映画!海賊版もインターナショナルのようです。



で、縄文人!大晦日になぜだか縄文人のお話です。

日本列島にホモ・サピエンスが移住し始めたのは、およそ3万年くらい前だと考えられています。より古いタイプの人類が住んでいた痕跡はあるようですが、我々のご先祖さまとして確実視される方々がお住まいになられたのは、その頃からだと思われます。で、この時代、現代日本のテリトリー内に進入するには三つのルートがありました。一つは琉球列島に沿って北上する線、二つは朝鮮半島から北九州に渡る線、三つめは樺太から北海道に南下する線です。

当時の氷河期ですが、最も寒くなるのが大体1万5000年前頃です。この時にはベーリング海峡も閉じてシベリアとアラスカが陸続きになりましたので、現在のアメリカインディアンのご先祖がどどっと北米に流入したわけです。
で、日本列島が大陸と繋がるといっても時代によって程度の差があったと思われます。より時代が古い4~5万年前には九州と朝鮮半島も繋がっていたようですけれども、ご先祖さまがやって来た時代では北海道と大陸とは繋がっていた一方で対馬海峡は繋がっていなかったのでは?と考えられるので、この経路を通る場合は何らかの形で海を渡る必要がありました。また、この時代は未だ農耕は行われておらず、後の縄文時代のように温暖ではなかったので、植物性の食物にも限りがあったと思われます。従いまして、この時代のこの地方は基本的に大型動物を狩って暮らしていた典型的な旧石器時代であり、大陸北方の満州の原野にはマンモスやら毛サイやらヘラジカやらの大型獣が暮らしていた時代ですので、スンダランドからスンダララッタ~とやって来たご先祖さまが何もわざわざ船を駆って危険な海を渡る必要性はなかったように思えます(訂正します!「今月の書評-8を参照)。従いまして、個人的意見としましては、ご先祖のメインストリームはそのまま大陸を北上し、動物を追いながら大陸内陸部~満州地方~そしてシベリア方面へと拡散し、一部はマンモスを追って地続きであった樺太から南下して、北海道までは容易に到達できたと思われます。最も気温が低い時期でも津軽海峡は陸地化しなかった可能性が高いのですが、氷の通り道ができた可能性はありますので、ちょろちょろとさらに南下することもさほど困難ではなかったように思われます。ま、ホントのところは例によって本人たちに聞いてみないとわからないところではありますが・・・www(ホントしつこいね)。

ではとりあえず本年のブログはここまで!
このブログを読んで下さっている善男善女の皆様方には素晴らしい年が訪れますように!

そうでない方々にはそれなりの年となりますように!


今月の書評-3

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本日は大晦日イブ。今年も残りわずかですが、年越しの準備はお済みでしょうか?
今年はお正月を前にして列島は寒波に襲われてます。この数日は坂城も猛烈に寒かったですけど、今日は少し緩みがち。ちょいと一息ついてます・・・。

水曜日は研究所も仕事納め。室員総出での大掃除でしたが、小雪の舞う中でのガラス拭きにはナカナカつらいものがありました。
でも、おかげで床も窓もピッカピカ!心も新たに新年を迎えられそうです。


さて、「クロボク土」のおかげで「日本人の喜源、じゃなくて、起源」への探求心に火が付いたセンセですが、実はW中学の頃は「歴史研究部」に所属しておりました。

W中学の歴史研究部の活動は単に図書館にこもって歴史書を調べたり博物館に行ったりするだけじゃなく、各地の貝塚や遺跡群を訪ねたり発掘調査のお手伝いをするなど、ナカナカ活発なものでした。センセも実際に、縄文だったか弥生だったか定かではないのですけど、世田谷区の発掘現場で発掘調査に参加したことがあります。現在では「砧公園」となっている場所です。夏休みを利用して参加しましたので、穴掘りも汗だくでした。

で、実際にこの手で土器を掘り当てました!スゴイ!

でも、縄文だったか弥生だったか覚えてない・・・。情けないですね!
その年の文化祭の歴史研究部のブースでは、実際に「人骨」も展示しました。
凄いですね!
でも、縄文人だったか弥生人だったか、やっぱし覚えていない・・・。
ダメダメですね!

そういうダメダメな歴史研究部員のセンセでしたが、ここ数日、中井貴一が案内役をしてる古代中国の歴史を扱った番組を朝からBSで見てます。これ、確か以前にも見た記憶があるので再放送だと思いますが、やっぱし中国史って日本とスケールが違って、すんごく面白いですね!日本人の平均値としては「現在の中国に関してはちょと・・・だけど、中国の歴史~文化は大好きだ!」というカンジだと思いますが、センセもそうです。中学時代に吉川英治の「三国志」に夢中になった一人です。ビートルズの「Something」を聴いて条件反射的に「怒髪天を衝く」を思い浮かべるタイプの一人です(他にいないと思うけど)。

で、縄文人です。

でも、縄文人を語りだすと弥生人にも言及しなくてはならなくなるし、その前の人たちについてもお話が必要となるし、となるとどうやって日本に来たかの話となるし、挙句の果てはネアンデルタール人とかジャワ原人とかオーストラロピテクスまで登場したりするのはまだしも下手すると「カンブリア爆発」だの最後には「ビッグバン」まで出てきた日にはどうする?
ま、ここは、「出アフリカ」からお話するのが妥当かと思います。

ヒトの喜源、じゃなくて、しつこいけど、ホントワンパターンだけど、起源について調べるときの手段としてのDNAに基づいた分析は、最近では既に「当然」を通り越して解析手法としての「王道」となっています。要するに、外観などの形質とDNA分析との間に齟齬(そご)があった場合は、DNAの結果が優先されます。その理由は、この先、適当なところで逐一述べていくと思います。
また、DNA分析の方法論について話し出すと everybody たちまち眠くなると思いますので、省略します。ただ、DNAに基づいた分析手法にもいくつかの方法があり、それぞれの長所と短所があるので、精度を高めるためには、同じサンプルに対してこれらいくつかの手法を組み合わせて行うのが良い、とだけ知っていただければOK牧場です。
このようなDNA分析に基づいて現生人類、いわゆる「ホモ・サピエンス」、さらにいうならば「ホモ・サピエンス・サピエンス」の出自を調べた結果、アフリカ大陸は当然ながら、アフリカを除く大陸全ての現生人類の祖先もまたアフリカに由来することが明らかとなりました。1987年に発表された、いわゆる「ミトコンドリア・イブ」のお話です。

発表以前から、現生人類が北京原人やジャワ原人、あるいはネアンデルタール人から直接進化してきたのか、あるいはホモサピエンスとして生じた人々から派生したものなのかの議論が活発でしたが、ミトコンドリア・イブの発表で決着がついたと思います。最近になってネアンデルタール人やデニソワ人との混交があったことも明らかとなりましたが、その程度は低く、基本的には全ての現生人類はアフリカで生まれた新人類の末裔であるとみなされます。

で、ある晴れた朝、かどうかは知りませぬが、ある一群の人々が、アフリカから北に向かって旅立ちました。その理由は知りませぬ。
「♪ 知~らない町を、歩いて見たい~♪」くらいの気持ちだったのかも知れませんし、あるいは、「ちゃん!」、「あんた!」、と泣いて裾に縋る家族を振り払い、「よし坊!お初!ちゃんは遠くに行っちまうけど、達者に暮らすんだぜいっ!」との捨て台詞(もちろんアフリカ語)を残しての涙の旅立ちがあったのかも知れませぬ。たぶん、もっと serious な動機があったのだと思いますが・・・。
旅立ちの時代に関しては所説あるようですし、また、単発の出動とも思えませんが、一応今から6万年前ころ、というのが定説です。ルートに関しても、ナイル川を下ってイスラエルに抜ける道と、「アフリカの角」と呼ばれる今のソマリアを通ってアラビア半島南岸に沿って進む道、さらにはサハラ砂漠を突っ切ってリビアに至る道まで唱えられてます。

経路の各所各所で定住しながらさらに別動隊が進んでいく、というカンジで拡散していったのだと思いますが、東に向かうグループと西~北に向かうグループとが分かれ、前者はアジア人とオーストラリア原住民へ、後者は欧州人へと分化していきました。以下、初期のホモ・サピエンス拡散の足取りを図にまとめてみました。年代に関しては、「ざざっと!」程度に考えてください。

ホモサピエンスの拡散.jpg
アフリカが大体6万年前、オーストラリアへの移住が5万年前と考えられているので、およそ1万年かけて初期人類は南アジア~東南アジアまで拡散したわけです。当時は氷河期にあたりますので、海面が今よりも低く、マレーシア半島の東海岸からボルネオ~スマトラ~ジャワにかけての海域は陸地となっておりました。これを「スンダランド」と呼びます。植木等は関係ないです。
このスンダララッタ~、じゃなくってスンダランドと、その途中の通り道である現在のインド亜大陸は、東へ進んだ初期人類の人口揺籃の地と考えられています。現在のインドは、大雑把に言えば、北部のアーリア系の人々と南部のタミール系、あるいはドラヴィダ系の人々との混合国家といえますが、そのドラヴィダ系の直系の先祖がこの時期に拡散~増加した人々であると考えられています。その中でもスリランカの「ヴェッダ」と呼ばれている人々は、当時の人々の形質を色濃く残す人々です。

また、スンダランドで増加した人々の特質も現在のカンボジア人などに色濃く受け継がれているようですし、さらに、より熱帯の環境に対して分化を遂げた「ネグリト」と呼ばれる一群の人々も東南アジア各地に点在しています。
ネグリトとは「黒くて小さな人々」という意味ですが、これらネグリトの人々は、アンダマン諸島やマレー半島、ベトナム山岳地帯、フィリピン山岳地帯に少数ながら残っています。いずれも非常に小柄で皮膚の色が黒く、また頭髪がアフリカ人のように縮れ毛です。これらの特徴から、DNAによる分析が一般化する以前には、これらネグリトの人々はアフリカのピグミーの人々と同じ人種であると考えられていた時期がありました。けれどもこの両者は全く異なる人々です。同じ初期人類から枝分かれしたオーストラリア原住民、いわゆる「アボリジニ」の人々が波打つ髪や高身長を有していることを考えると、これら低身長+縮れ毛+黒色の皮膚は熱帯雨林に対する人類の普遍的な適応と考えられます(こういうところから見ても、DNA分析は形質による分類よりも強力なのです)。けれども低身長+縮れ毛+黒色の皮膚はアマゾンの住民は有していない特質ですので、そう単純なものでもなさそうです。ただ、アマゾンの住民の歴史はネグリトと比べれば圧倒的に短いので、もっと時間が経てばアマゾンの人々もネグリトやピグミーのように変化していくのかも知れません。あるいはそもそも出アフリカを果たした人々が基本的に黒色の肌+ウエーブ~縮れ毛の人々だったので、熱帯雨林への適応がより早かったのかも知れませんが・・・。この点は本人たちに聞いてみないと分からないところです・・・www(HD)。



さて、スンダランドから北へ向かって、初期人類はさらに移動を開始します。

現在の中国、朝鮮、日本を形作る、いわゆる「東アジア人」の起点がどこにあるか、議論のあるところでした。大きく分けて1) 東南アジアからの北上論、2) ヒマラヤ山脈の西を通って中央アジアに至り、そこから草原を東進してモンゴル周辺に至る論、の二つに分かれていました。しかしながら、現在では図に示すように東南アジア~スンダランドの原アジア人が北上して東アジア人になった、との説が優勢です。その理由はいくつかありますが、1) バイカル湖周辺で見つかったおよそ2万数千年前の遺跡から出土した人骨のDNAを分析したところ、驚くべきことに、その由来はアジア系ではなく欧州系であることが判明した事、2) 太平洋岸には砂漠などの乾燥地帯が無い一方で中央アジアには広大な乾燥地が存在する事、すなわち移動の困難さに大きな差がある事、そして決定的には、3) 遺伝的多様性がきれいな南高北低の傾向を示す事、などがあります。3) について説明したいのは山々ですが、それをやり始めるとあれを説明する必要が出てくるし、あれを説明するとこれも説明しなくてはならなくなるしで、やめ!「遺伝的多様性が大きければ古く、小さければ新しい」とだけ覚えてください。

以上、ここまでのお話は、おおよそ「モンゴロイドの地球-3 日本人のなりたち:東京大学出版」と「DNAで語る日本人起源論 篠田謙一:岩波現代全書」に負うています。前者は良い本ですが、如何せんちょいと古いです(1996年)。また後者は2015年で新しく、非常にまとまりの良い読みやすい本ですが、DNA分析がミトコンドリアに偏りすぎているきらいがありまして、著者らの結果が幾分偏向している可能性を完全に否定することができません。著者が指摘しているように、出土した骨から無傷のDNAを得ること自体が非常に困難ですので、細胞あたりの数が圧倒的に多いミトコンドリアを用いることは致し方のないことだと思います。けれども現代人から得られるY染色体由来のDNA分析は既に数多くの仕事がなされておりますので、それらとの比較検討に関してもっと記載して欲しかった、と個人的には思います(今現在、Y染色体から得られたDNAに基づいて行われた仕事に関して詳しく書かれた本を探してます。知ってるヒトがいたら教えて!)。また、最近になって骨標本から得られた核DNAを用いての「日本人起源探し」の結果が出つつあることが報告されました。で、結果は、ミトコンドリアDNA分析を概ね裏付けるものであったようです(まだ本は出てないみたい← 訂正します!2017年10月に出版!→「核DNA解析でたどる日本人の源流」 著:斎藤成也氏)。

ということで、「♪ どう~こか遠くへ行きたい~♪」などと鼻歌混じりで東南アジアから旅立ったご先祖さまですが、ひょいと東を覗いてみれば、ナンカ、ちょいと海を渡れば目と鼻の先に美味しそう~な場所があることに気づきました。今の対馬海峡の縁に到達したのです!
でも、目の前に島があるけど海で隔てられてる・・・。どうしよう・・・と彼らは悩みました。

この先しばらくセンセの妄想が働きます。本日はこれまで!

今月の書評-2

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続きです。
「ブラタモリ」って、人気高いと思います。センセもほとんど見てます。
ブラタモリ、最初の頃はビルで埋もれた東京の地形のちょいとした変化から元々の姿を読み取る、というカンジで始まった番組でしたが、ドンドン発展していって、今では日本全国の「地誌」を面白おかしく紹介するカンジの番組となりました。

因みにセンセ、BSジャパンの「くもじい」と「くもみ」の番組も好きです。
じゅるる~。

で、その中で皆様もよくよく感じていると思われるのが、タモリ氏の博識ぶりです。特に「断層」とか「境目」とかに執着的な興味をお持ちなようで www。

センセは特に地質学に興味があったわけではないしブラタモリに影響されたわけでもないのですけど、なぜだかフラッと山野井氏の「日本の土」を買いました。一つはたぶん、普段はあまり気にも留めないようなありふれた日常のヒトコマではあるけれど、何かの拍子に「ん?あれって結局どういうことなんだろう?」などと疑問が生じる、そんな興味の対象の中に、センセの場合、地質学や地誌学があるからだと思います。
別の言葉で言えば、「がっぷり四つに取り組もうとはゆめゆめ思ってもいないのだけど、例えば山歩きの中などでいきなり大岩石が露出しているところに出くわしたりした場合、その存在理由を一通り説明出来たりすると嬉しいな!」くらいの気持ちで手に取ったのかも知れません。

で、「日本の土」ですが、初めから三分の二ぐらいまでは相当に専門的です。センセの場合、「世田谷区豪徳寺時代-4」でもご紹介の通り、小学生の頃は東京都世田谷区の豪徳寺に住んでいて「泥投げ合戦」を主体とした戦争ごっこに明け暮れた毎日を送っておりましたので、泥投げに最適なポコポコした硬さの赤土の「関東ローム層」にはある種特別な思い入れがありまして、そのため、専門性の高い始めの三分の二も比較的興味深く読むことができました。けれども過去に関東ローム層の土壌において泥投げ合戦を経験されていない大多数の善男善女の方々にとっては、最初の三分の二は専門性が強すぎるかも知れません。

けれどもこの本の本領はそこではありませぬ。その先から展開する「クロボク土(クロボクつち、あるいはクロボクど。クロボク、プラスマイナスではない)」に対する疑問~推理~解明に至る展開です!

クロボク土というのは、真っ黒でサラサラした表土です。日本の関東~東北~北海道と、九州に分布しますが、なぜか関西~中国~四国にはほとんど見られません。
真っ黒な表土というからには、普通は栄養分が豊富な肥沃な土というイメージがあり、ウクライナのチエルノーゼムなどを思い浮かべるかと思います。けれどもクロボク土は痩せていて、肥料を与えないと作物が育たない土だそうです。
従来の説では、クロボク土は火山灰が主体となって形成された土と捉えられ、自然にできた土壌だと考えられてきました。
細かな説明は省きますが、山野井氏はこれに疑問を持って自ら色々な実験を行い、その結果に基づいて推論を進めた結果、ナ、ナント驚くべきことに、「クロボク土は縄文人の生活によってもたらされた土である!」との結論に至ります!この結論に至るまでの推論過程が極めて面白く、知的好奇心満載の部分ですので、ここでは詳細に立ち入らず、是非とも購読されることをお勧めいたします。以下、クロボク土の正体を明かすのも、ナンカ、推理小説のネタ晴らしみたいで控えるべきなのかも知れませんが、でもそれではセンセのブログのためにはならないので、私利私欲を優先し、情け無用でバラシていきます。

クロボク土の正体、それは、「縄文人の草焼きのあと」だったのです!ジャジャジャジャーン!!!どうです?びっくりこいたでしょう!!!

え?だからどうしたって?ははあん、あんた、あの娘に惚れてるね?じゃなくって、あんた、分かっちゃいないね?次を見よ!

クロボク土の分布.jpg
これは日本全国のクロボク土の分布を示す図です。本から直接引っ張ってくるとセンセがK察に直接引っ張られるので、わざわざ絵に描いて載せました(北海道、描き忘れた!)。
これで納得した?

え?まだ分かんない?ではこれでどだ!

縄文遺跡の分布.jpg
これは縄文時代、特に中~後期の遺跡の分布図です(やっぱし北海道描きわすれた・・・)。も、分かったでしょ?
縄文時代の遺跡とクロボク土の分布が見事に一致してるじゃないですか!

ここでの注目点ですが、九州は鹿児島~宮崎、特に宮崎の都城周辺と阿蘇山~湯布院周辺に多く、中国地方では山陰の出雲地方、関東では千葉の下総台地、群馬、長野の佐久平、東北太平洋岸などに多くクロボク土が分布している点です。これらの地域、過去は「牧(まき)」として名馬の供給地であり、現在では牛の放牧が多く見られるところです。阿蘇周辺などは、現在でも定期的に草焼きを行っていると思います。
因みに昔、センセがW大の学生だった頃、サークルの仲間と茨城の霞ケ浦のほとりのゴルフ場にしばしば通っておりました。学生運動も一段落して成田国際空港が漸く開通した頃でしたが、千葉から高速道路に乗り、空港インターで降りて茨城へと向かうルートしかなかった時代でした。
で、内装を全て引っ剥がしてロールバーをぶち込み、上げて固めたサスペンションにラリー仕様のタイヤを履き、黒のつや消しのボンネットに赤とオレンジのストライプが走るマッキッキのボディーの中古のサニー1200を駆って成田から茨城へと向かう道路沿いには黒土の畑が延々と連なり、特産の「落花生」がたくさん栽培されておりました。センセは見事なまでに黒い畑の土を見て、「ははあ、この界隈の土は良く肥えておることよ!さぞや立派な落花生が出来ることであろうな!」などとおよそ見当違いなことを考えておりましたが、今ではこれらの落花生が育っていたのは肥沃な黒土ではなく、痩せたクロボク土であったのだと、目からまなこ、じゃなくて、しつこいけど、うろこのセンセでした。

で、縄文人が草焼きを行って出来たのがクロボク土、というところまでは分かりましたが、ではなぜ黒いのか、そしてどのような目的で彼らは草焼きを行ったのかに関しましては、是非とも山野井氏の本を読んでご理解されて頂きたいと思います。

クロボク土の本によって、「人類の誕生と拡散」~「日本人の原型」~「現代日本人に至る経緯」に関して新たに知的好奇心に火が付いたセンセですので、次回はこれらについて語ってみたいと思います。

では、本日はこれまでっ!

今月の書評-1

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みなさまこんにちは。
いよいよ年の瀬も押し詰まってきましたが、いかがお過ごしでしょうか?
ここ、坂城では、今年は冬が来るのが早いみたいです。例年だとお正月過ぎまではも少し温かいような気がしますが、今年はいきなり真冬!年末にかけてさらに冷え込む予想です。あ~~やだやだ!

前回の五里ヶ峰登頂の翌週、早速バイクで美味しそうな林道北山線を走ってみようと思いましたが、山のてっぺんは既にうっすらと白くなってる・・・。
でも何とかなるだろうと考えて和平まで登ってみましたが、峠のワインディングロードはカラマツの落ち葉が厚く覆い、日陰の部分は雪がうっすらと積もってショリショリ状態・・・。
これは下手するとダートに侵入する前に一発でもっていかれますので、早々に引き返しました。

で、寒いのでゴルフも出来ないし、ここは一つ、ブログを更新することに決めました。決めたは良いのですが、何を書こうか、思案中・・・。

で、一つ閃いた!

実はセンセは典型的な「本の虫」です。
小学生の頃から本はたくさん読んできました。
今でも月額平均して1~2万円くらいアマゾンで買って読んでます。
夕食後、一旦仮眠してから起きだし、毎日2~3時間くらい、研究とは直接的には関係のない勉強をしたり、自然科学でも他分野の本を読んだりするのが日課です。
勉強時間が終わると「枝豆」をつまみながら「月桂冠」やら「剣菱」やらで晩酌するのですが、晩酌しながら軽めの本を読むのも楽しいひと時です。この季節ですと、剣菱の熱燗がサイコーですねっ!

と、脱線しましたが、ならば本の話をしよう、と思い至りました。
センセが感銘を受けた本を紹介し、関連した内容について興味の赴くままに書いていくのもナカナカ面白かろう、と考えまして、新たなカテゴリーを開設いたしました。その名も「今月の書評」!まずは第一回の始まりでございます。

とりあえず、ここ数か月の間に購入して読んだ本を以下に羅列してみました。

今月の書評-2.jpg
これを見ますと明らかな点が一つあります。分かりますか?
それは「小説のたぐいが無い!」ということです。



センセは小説、読まんです。TVドラマも「よっぽどのことが無い限り」、見ないです。昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」も、たぶん「地元だから」見続けたんだと思います。長澤まみと竹内子の演技に関しては、コメントは差し控えさせて頂きます・・・。

でも、小さい頃はもちろんそうではありませんでした。小説もたくさん読みましたし、TVドラマもそこそこ見てました。森繫の「七人の孫」とか大河ドラマ「赤穂浪士」とか渥美清の「泣いてたまるか!」とか、懐かしいですね!「七人の孫」の主題歌なんか、まだ覚えてます。

「♪ だ~けどだけど、これだけは言える~♪」なんてね!

小説も、中学から高校~W大学にかけてたくさん読みました。夏目漱石や森鷗外などの定番はもちろんのこと、家に「日本文学全集」が揃ってましたので、全てではありませんが、結構読破してると思います。中勘助の「銀の匙」とか、未だ心の片隅に、巣くっているような気がします・・・。W大学中にはヘルマン・ヘッセに随分影響されました。ここら辺の事情は「昭和40年代:時代と音楽-29」にも述べられています。

ところがその後、ある時点からはほとんど小説~ドラマのたぐいは見ない~読まない状況となってまいりました。なぜなんでしょうかね?特に意識的に「見ない~読まない」というわけではないのですが、「読もうという気持ちがジェンジェン出てこない」というのが正解です。たぶん恐らく、「自分のやりたいこと、やるべきこと、やらなくてはならないこと」がハッキリ認識できた時点から、小説~ドラマに対する欲求が薄れたように思えます。「アイデンティティーが確立した時から」と言い換えても良いかもしれません。

今現在ではハッキリと次のように言えます。

「事実は小説よりも奇なり!」

ということです!

で、先の一覧表の中で真っ赤に塗られているところがありますが、それらがセンセが感銘を受けた本です。飽くまで「センセが感銘を受けた」に過ぎませんので、その他の本が劣るというわけでは決してありません。また、数は少ないのですけど、一覧表の中には「買うのがもったいない!」との低評価を下したいものもあります。但し、それらの指摘は差し控えたいと思いますので、どうぞご了承ください
感銘を受けた本の内容ですが、その道の専門家にとってみれば当たり前のことで「なにをいまさら」という場合も多いかと思います。けれども、その道を踏み外している外道のセンセとしてみれば、「目からまなこ、・・・じゃなくてうろこ」の本もしばしばです。また、専門的であると同時に大変読みやすく、言葉の端々から著者の深い教養や人格などがほのかに炙り出されてくるような本なども、赤く塗っておきました。

第一回目としましては、そんな本の一つ、山野井氏の「日本の土」をあげたいと思います。では一旦ここまで!


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