2011年12月アーカイブ

いよいよ今年も押し迫ってきましたが、皆様ご機嫌いかがですか?本日は師走も30日で、明日は紅白歌合戦。なんか今年はガガだのゲゲだのギギだのとかが出るとか、、、。やっぱし三波春夫と村田英雄が出ないと紅白歌合戦じゃねえ~~~~、とTVの前で一人罵るセンセは相変わらずのワガママオヤジで御座います。

さて、今年はホントに色々ありました。本邦大地震は言うに及ばず、タイの大洪水、欧州情勢は混迷の一途を深め、さらにはオサマビン・ラーディン、カダフィー大佐、金正日と、大物が次から次へと昇天しまして、極東情勢も混沌として参りました。大物と言えば、キューバのカストロ元首相は健在ですね。旧ソビエト連邦のゴルバチョフも未だ意気軒昂。一方でセンセが大尊敬するイギリスのマーガレットサッチャー氏はアルツハイマー進行中とのこと。何と言うことでしょうか、、、。

さてさて、本日は大掃除も済み、年末年始の細々とした始末も全て完璧に終えましたので、空いた時間でブログの続きを書き足していこうかと思います。お題は、「豪徳寺時代の遊び」です。

小学生にとって、遊びは仕事です。センセは心からそう思います。全身全霊を傾けて日がな一日遊びに没頭出来る時代は、長い人生を通じてこのときしかありませぬ。また、それを社会が「良し!」とするのも小学生時代ならでは、であります。遊びを知らずに小学生時代を過ごしますと、その後の人生、ナカナカの影響が生じるかと、個人的には常日頃より思っております。従いまして、国や地方自治体は、通り一遍、かつ、お仕着せのつまらぬ「児童公園」なんぞ作らずに、もっと小学生の眼差しをもって、彼らのための遊び場を作ってやらねばなりませぬ。安全確保は大事ではありますが、それ一本槍と言うのも能がありませぬ。言うはやすし、横山きよしかも知れませんけど、、、。

さてさてさて、豪徳寺は城山小学校の小学生達は、当時の少年サンデーや少年マガジンに影響されまして、専ら「戦争ごっこ」ばっかりやっておりました。戦争ごっこにはいくつか種類がありまして、大別して(1)普通の戦争ごっこ、(2)ドロ投げ合戦、(3)空中戦、の三種類に分類する事が出来ます。

(1)の普通の戦争ごっこは他愛もないものでして、竹切れや棒きれを鉄砲に見立てて敵の背後に回り、「バン!」と声を出したら相手は「うう~~~、やられた~!」とか言って死んだと見なす、と言うだけのものです。当時の小学生は大概巨人軍やら阪神の野球帽を被っておりますが、頭にハンカチを乗せ、その上からこれらの野球帽を被りますと、あたかも南方の日本兵の様に見えますので、その様な格好をして戦う訳です。豪徳寺は井伊家の菩提寺だけに塀で囲まれた立派なお墓が多く、これらの塀の陰で待ち伏せしている敵兵の背後に回り、これを殲滅する訳です。お年玉を貰いますと早速近くの駄菓子屋に行き、「銀玉鉄砲」やら「2B弾」やら「紙巻き火薬の拳銃」やらを購入しますので、棒きれの代わりにこれらで勇ましく戦う局面もある訳です。2B弾なんぞは当然手榴弾の代わりとなる訳であります。

(2)のドロ投げ合戦はもっと過激なものでして、ドロと申しましても田んぼのドロなどでは無く、関東ローム層の赤土の土塊の事です。東京も下町になりますと、これは沖積地帯ですから、地面は田んぼの土に近く、さらにその下を掘り下げますと海砂川砂が出て参りますが、豪徳寺のある山の手は洪積時代の火山灰が主体で、これに有機物が混ざって出来た赤土で出来ております。この赤土はホクホクしておりまして、これを掘り出して手で適当な塊に分割しますと投げ易く、当たっても石の様に痛くはありませんので、両軍共にこれを相手めがけて投げ合うのが「ドロ投げ合戦」という訳です。

豪徳寺の境内には小さな小山がありまして、これを「203高地」に見立てて頂上にロシア軍、これを下から日本軍が攻める訳です。当然頂上のロシア軍が有利ですが、日本軍の方が敢闘精神が強いものですから、突撃に次ぐ突撃でこれを駆逐する訳です。当然センセが日本軍の総大将です。まずは部下が突撃しますが、頂上からはロシア軍の土つぶてが雨あられと飛んできます。先鋒は「天皇陛下万歳!」とか言ってバタバタゴロゴロ倒れていきます。その後総大将がやおら「突撃!」とか叫んで土塊を投げつけながら、勇ましく突進!ついにこれを駆逐し、竹竿にハンカチを結びつけて日の丸の代わりにして振り回し、「占領!」となります。赤土ですから石つぶてとは違ってそんなに痛くはありませんが、それでもみんな怖いので、勇気を振り絞って突撃する側が大概は勝つ仕組みになっておりました。けれども突撃の最中に近距離から顔面に命中する場合もありまして、そんなときはやはり小学生ですので、「うえ~~~ん!」とかなる場合もある訳です。そして誰かが「うえ~~~ん!」となった時点で、戦い終了となる場合もしばしばで御座りました、、、。

ドロ投げ合戦の舞台は豪徳寺が主体でありましたが、城山城址公園でもしばしば行われました。城山公園は今ではずいぶん整備されてお上品の様ですが、当時は山あり谷ありお堀ありの三拍子揃った、誠にドロ投げ合戦にうってつけの場所でした。奥の方には防空壕の様な洞穴もあり、探検場所としても格好の舞台でありました。

大体想像出来るでしょうが、ドロ投げ合戦はしばしばご近所迷惑ともなりました。

ある時、一丁目の連中と二丁目の連中とに別れ、スターリングラード攻防戦もかくやと思われるほどの市街戦を繰り広げた事があります。センセは二丁目の総大将でしたが、一丁目の連中を追い詰め、これに向かって土塊を投げつけたところ、背後の民家の窓の方にまっしぐら。「ガッシャーン!」と言う音が聞こえましたので、たちまち「総員退却!」の号令を発令する事となりました、、、。

当時、城山小学校のすぐ近くには三階建ての代々木ゼミナールの寮がありまして、その後一丁目の連中はここに立てこもりました。二丁目はこれを攻めに攻め、とうとう屋上まで追い詰めることに成功しましたが、ここで代ゼミの寮長の登場と相成ります、、、。激しい戦闘の結果、階段やら踊り場やらの戦闘の爪痕ものすごく、寮長の剣幕これにも増してものすごく、一丁目二丁目両軍ともに打ち揃って敗北感にうちひしがれ、さらに担任の先生の名前を聞かれるに及びては、一同、玉音放送を聞くが如きに、垂れた頭(こうべ)から落ちる涙は未だに語りぐさでございます、、、。

(3)の空中戦も面白く、これは自転車を飛行機に見立て、相手の背後に食らいついて五秒間「ダダダダダ!」と言えば撃墜!となるものです。これも豪徳寺が主な舞台でしたが、世田谷区役所の広場でも良く行いました。世田谷区役所は今も当時も変わらぬ佇まいで、広場にはコンクリート製のベンチがあちらこちらに存在しています。広場が太平洋、ベンチを航空母艦と見立て、米軍太平洋艦隊と日本の連合艦隊が北太平洋上に於いて一大航空戦を行う訳です。

空中戦にはもう一つ過激なヴァージョンがありまして、これは敵の自転車を足蹴りにし、文字通り倒すものです。これはさすがに地面がコンクリートの場所では行わず、専ら豪徳寺の境内が舞台となりました。このヴァージョンでは「爆撃機」も登場しまして、爆撃機の場合は自転車の荷台に後ろ向きで機関銃手が座りまして、これを背後から追撃する戦闘機に対して懐に忍ばせた土塊を投げつける訳です。ただしこれを撃墜した場合は銃撃手のダメージは相当大きいものがありましたので、あまり成り手がおりませなんだ、、、。

当時の城山小学校の小学生の守備範囲は、西が八幡様、南が馬事公苑、東が松陰神社、北が梅ヶ丘の根津山でした。と言うのも、当時漸く自転車は一人一台が当たり前の時代となり、これに加えて未だ自動車の往来はさほど激しくなく、遠出をしても余り危険が無かったからかと思います。

先日豪徳寺駅から小田急線に乗りまして、梅ヶ丘の駅を過ぎると左に根津山が見えてきますが、鬱蒼とした木立に囲まれた小山が目に入ってきまして、「?????」とした思いに駆られました。センセが小学生の頃の根津山は木々は殆ど無く、所々にコンクリートの堀を巡らしてある丘陵地でした。このコンクリートの堀を「ベトン要塞」と見立て、相変わらずの203高地へ突撃!の場所でしたが、あれだけ育った木々を目の当たりにして、年月の移ろいを確かに感じたセンセで御座いました、、、。

続きです。

おそ松くん以外で当時の小学生に大きく影響を与えたマンガは、忍者マンガでした。忍者マンガと言えば、まずは少年サンデーの横山光輝の「伊賀の影丸」が真っ先に記憶によみがえりますね!これに加えて白戸三平の「サスケ」、「ワタリ」、「忍者武芸帳」、「カムイ伝」、「カムイ外伝」と続きますね。小学生としては、さすがにカムイ伝あたりは難しくて、これを全巻読みこなしたのはもっと先のこととなります。

小学生的には伊賀の影丸の「木の葉隠れ」あたりが無難なところでして、豪徳寺の境内は秋ともなりますとケヤキの落ち葉が堆積しますので、これが「木の葉隠れ」の絶好の材料となるのですね!他には手裏剣を用意しなくてはなりませんが、これはノートをこっそり破って(こっそり破らないと小学生の立場ではお母さんに叱られるからです)これを折って手裏剣にするのですね。しかしながら一個や二個の手裏剣では使い物にならないので、たくさんのノートを破る羽目となる訳です。その後の始末はご想像通りの結末となる訳で御座います、、、。

白戸三平の忍者マンガは誠に「科学的」でして、様々な術に関して逐一解説してくれるので、小学生としては大変有り難かったですね。例えば「土遁(どとん)の術」では「背中に石綿で出来たマントを羽織ってその上で火を燃やしながら暑がっている振りをしつつ地面に穴を掘り、穴の底に逃げ込む」わけですね。瞬間的に。一見身軽な忍者ですが、どとんの術を一発やるだけでも少なくとも石綿作りのマントを常日頃から携帯していなくてはならない訳で、まあ大変苦労の多い術ですね! ともかくも、どとんの術を一発行うと、その後、家に帰った時にはどのような目に遭うか小学生でも大体想像出来ますので、これはほとんど行われる事はありませなんだ、、、。やっぱり木の葉隠れと手裏剣一本槍でしたね、当時の少年忍者としては。

関谷ひさしの「ストップ!にいちゃん」、桑田次郎の「エイトマン」、ちばてつやの「紫電改のタカ」、小沢さとるの「青の六号」と「サブマリン707」、貝塚ひろしの「ゼロ戦レッド」、石森章太郎の「サイボーグ009」などなど、、、。

テレビで初めてアニメ動画が出来たのもこの頃で、これは皆さんご存じの「鉄腕アトム」ですね。鉄腕アトムの動画は初回より大変出来の良いもので、現在見ても違和感が全くないものでした。少々遅れて「鉄人二十八号」が登場しますが、小学生の目から見ても出来は劣っていましたね。さらに「おそ松くん」も動画となりましたが、これはさらに悪かったですね。「風の藤丸」は良かったです。「フジサ~ワ~、フジサ~ワ~、フジサワヤ~ク~ヒ~ン」というフレーズが耳に残ります。いきなり動画として登場した「オオカミ少年ケン」も大変出来が良かったですね!おまけで付いているケンのシール欲しさに、飲みもしないのに森永のミルクココアを買ってもらった小学生は大勢居たかと思います。その後は柱やらタンスやら冷蔵庫が「ケン」やら「ジャック」やらのシールでべたべたとなったのも、言うまでもありません。大変残念な事は、サブマリン707の動画が出来ると言う情報が少年サンデーに載りまして、これはファンとしては大いにワクワクして待ち望んでいたのですが、結局放送しなかった事ですね。いったい何が問題だったのでしょうかね?未だに謎です。

結局センセはマンガ好きが高じて、その後、親にせがんで石森章太郎の「漫画家入門」、「続:漫画家入門」という本を買ってもらい、いっぱしにケント紙やらGペンやら墨汁やら揃えて自作のマンガを色々描きちらかして、「将来の夢:漫画家になること!」などとほざく事になるのです。

 

 

本日は平成23年12月23日(金)、祝日です。何の日でしたっけ?クリスマスイブイブ??                  あ、天皇誕生日ですか。センセの世代では天皇誕生日は四月二十九日、と言うのが頭にありまして、今では昭和の日、となっておりますね。ところで「みどりの日」というのがありますけど、以前は四月二十九日がみどりの日ではなかったでしたっけ?なんか良く分かりませぬ。みどりの日があるなら赤の日とか青の日とか黄色の日とか無いとヒジキだ!なんて小学生だったら言いそうですね。

祝日というのはセンセにとってはボーナスな様なもので、丸一日自由時間が生じます。毎週の土日は何かと忙しいのでブログの更新などは出来ませぬ。そこで、祝日を利用して書き足しています。本日は豪徳寺時代の続きで、マンガのお話を致します。

昭和三十年代、少年サンデーとか少年マガジンだとかの少年向け週刊誌が出る前は、もっぱら貸本と月刊誌が主でした。豪徳寺周辺にも数件の貸本屋がありまして、わちさんぺいの「火星チャン」だとか、水木しげるの「カッパの三平」だとかを借りて読んでおりました。水木しげるなど今では漫画界の巨匠の様に言われておりますが、当時のカッパの三平なぞを見ますと、上手いのか下手なのか訳の分からぬ奇っ怪な雰囲気濃厚のマンガでした。有名な往復ビンタの場面もしょっちゅう登場しますが、あれは本人が兵隊の頃に食らったものをそのまま描いているのでしょうね。わちさんぺいは火星チャンの他にも「ナガシマクン」とか「背番号110番」とか描いておりますけど、大戦中の陸軍機「隼」のマンガを知っているヒトは極少数でしょうね。隼の細部に至るまでリアルで、おまけにあの淡々とした画風で描くものですから、プラモデルがそのまま活躍している様で、センセのお気に入りのマンガの一つで御座いました。

月刊誌は分厚くて、毎号どっさりと付録がついており、たくさんの種類がありました。今思い出しても、「少年」、「少年画報」、「冒険王」などと言う名前が出てきます。中でも「少年」が有名で、手塚治虫の「鉄腕アトム」も横山光輝の「鉄人二十八号」もこの雑誌に連載されていたと記憶します(間違っていたら、ごめんなさい)。その他には山根赤鬼だったか青鬼だったかの「よたろうくん」などを覚えています。

月刊誌全盛の最中に、少年サンデーと少年マガジンが創刊されました。毎週の表紙を飾るのはお相撲さんか長島選手か王選手か零戦か戦艦大和か、のいずれかでした。初期の頃は毛むくじゃらの朝潮とかも表紙を飾っておりました。その後は大鵬と柏戸が交互に登場、と言う時代を迎えるわけです。数年後には少年キングも登場しますが、これはその後廃刊の憂き目にあう事となります。

当時は太平洋戦争の影響そのままに、零戦や隼などの戦闘機や戦艦大和などの軍艦の詳細な絵や内部の見取り図などを毎週のように特集しておりました。これらの絵は小松崎茂や長岡修三らが描いておりまして、センセを含む当時の小学生は、これらの勇ましい絵にずいぶんと影響を受けたものでした。

赤塚不二夫の「おそ松くん」のお話をします。

少年サンデーにおそ松くんが登場するまでは、寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」や少年マガジンのちばてつやの「誓いの魔球」などが人気がありまして、センセは本屋でよく立ち読みをしておりました。おそ松くんが初めて登場した時はセンセは小学二年生でした。今でもはっきりと覚えているのですが、いつものように宮の坂の駅前の本屋さんで少年サンデーを立ち読みしておりますと、その名も「おそ松くん」とヒトを小馬鹿にした様な名前のマンガが載っていました。泥棒がおそ松くんの家に盗みに入りまして部屋を物色し始めるのですが、チョロ松カラ松イチ松トド松十四松など、次から次へと同じ顔したおそ松くんの兄弟が出てくるので、とうとう泥棒は頭から湯気を出して発狂して目出度し目出度し、と言うお話でした。

センセはもうおっかしくって店先で鼻水垂らしながらギャハハハ大笑い! 

その後もイヤミだのチビ太だのハタボーだの訳の分からぬキャラクターのオンパレードで、誠に当時を語るに外せない一世を風靡した現象となったのは、皆様もご承知のところです。

ちなみにこの当時のセンセの写真は、ほとんど全て「シェ~~~~~!」のポーズばっかしなのは言うまでもありませぬ、、、。                            

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