中山博士の横顔: 2017年1月アーカイブ

昭和40年代:時代と音楽-38

| | トラックバック(0)
ここ数日、坂城は本当に寒い日が続いてます。今朝も最低気温が零下7℃。このような厳寒の日々がこれから2月半ばまで続くわけですが、このような中、さすがにバイクに乗る気力はありませぬ・・・。また、この時分は少し山の方に入ると至る所で凍結した路面に遭遇しますので、バイクに乗るべきではありません。どうしますかね?やっぱ、スキーだね!10数年ぶりに、近場の菅平にでも行ってくるかな?

と、連休初日に考えたセンセですが、二日目には早くも挫けることとなりました・・・。だって、昼から雪が降るって天気予報で言ってるし・・・。スキーだから雪が降って当たり前?いやスキーもやはり、快晴の中でやりたいよね!(明らかに出不精の言い訳です・・・。)

さて、長々と続いてきた「昭和40年代:時代と音楽」シリーズ、そろそろ締めくくりの時も近づいてきました。ざっとまとめてみますね!

センセが小学校4年生の昭和39年=1964年に東京オリンピックがありまして、翌年の昭和40年に世田谷区から足立区に移りました。当時の足立区はまだまだ田舎で、見渡す限り田んぼだらけの世界でした。世界の音楽シーンではビートルズとローリングストーンズに代表されるリバプールサウンドが席巻していた一方で、日本ではベンチャーズや加山雄三、平凡パンチやアイビーファッションが流行しておりました。世界情勢としては、米国の北ベトナムに対する北爆開始や、黒人過激派指導者のマルコムXの暗殺事件などがこの頃です。日本国内は佐藤栄作首相の長期政権下にあり、朝永振一郎博士がノーベル賞を取ったのが、この年です。

昭和41年=1966年=小学6年生時にビートルズが来日。GSと呼ばれたグループサウンズが登場し始めたのが、この頃です。ファッションも、アイビーカットからマッシュルームカットに移行。ミリタリーファッションなんてものも、流行りだしました。中国で文化大革命が始まった年でもあります。

昭和42年からの3年間=1967~69年=センセの中学時代ですが、ビートルズは公演を停止し、実験的音楽を量産し始めた時代です。リバプールサウンドに代わり、サイケデリックサウンドやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなどのよりハードなロックが史上最大の盛り上がりを見せ、1969年のウッドストックに結実した時代です。マッシュルームカットから長髪、ヒゲ、バンダナ、パンタロンやミニスカートなど、若者文化はレインボーカラーのサイケデリックなものが花盛り。フラワームーブメントがピークを迎え、ヒッピーやフーテン、アングラ文化が登場した時代です。国際的には米国がベトナムで枯葉作戦を開始、ソンミ村事件、プラハの春、キング牧師暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、パリ五月革命勃発、いよいよ過激さを増す中国文化大革命、ニクソン政権誕生、アポロ11号の人類初の月面着陸など。国内的には、美濃部都知事就任、激しさを増す学生運動、川端康成氏ノーベル賞受賞、東大紛争~安田講堂占拠事件、府中の三億円事件、金嬉老事件など。TV「ゲバゲバ90分」のハナ肇、「アッと驚く為五郎~!」は、日本中を席巻した一大流行語となりました。

センセの高校時代の昭和45年から47年=1970~1972年、ビートルズは解散し、各メンバー毎に活動する時代に。特にジョン・レノンの「Mother」や「Imagine」は、その後の彼の「平和の伝道師」的なイメージを高めました。ただし実際の彼はそのようなイメージとはかけ離れ、内面的には大きく苦しんだ時代であったようです。ロックシーンにおいては、レッド・ツエッペリンやディープ・パープルなどのハードロックの全盛期。一方でCCRやサンタナ、ロッド・スチュアートなどがヒットを飛ばした時代でした。Grand Sweat Revivalが自由が丘でデビューした時代でもあります(同時解散)。R&Bはソウルミュージックとなり、ジャクソン5やカーペンターズが大活躍し始めた時代です。世界情勢は、ベトナム戦争や文化大革命は相変わらず、中華人民共和国の国連復帰~台湾の脱退、ニクソン大統領の突然の中国訪問~その後のウオーターゲート事件など。国内的には、三島由紀夫の切腹事件、大阪万博開催、よど号ハイジャック事件、ドルショックによる円の変動相場制への移行、浅間山荘事件、横井軍曹グアム島で発見、沖縄返還、田中角栄内閣の誕生、といったところでしょうか。松平監督率いる男子バレーチームがベルリンオリンピックで金メダルの快挙を達成したのが、この当時です。公害問題が一世を風靡し、光化学スモッグがしばしば発生。東京から富士山は見えないのが当たり前であった時代でした。

以降はソウルのダンスミュージックやフィラデルフィアサウンドなどの全盛期となり、ウッドストック時代の典型的なロックサウンドは影が薄くなっていきます。そして1976年、イーグルスの「Hotel California」によって、60年代ロックは自ら終止符をうつこととなりました(と、解釈されています)。1973年にはブルース・リーの「燃えよ!ドラゴン」が登場!海外文化=欧米文化一点張りであった時代に、アジアから風穴が開いた瞬間でした。
1975年、南ベトナム政府の首都であったサイゴンが陥落。ここにベトナム戦争は本質的に終了します。1976年の毛沢東の死去後、いわゆる「四人組」が逮捕され、ここに文化大革命も終了を迎えます。現在、GDP換算で世界第二位の大国となった中国が、強大国たるべく離陸を開始した瞬間です。国内では1973年に第一次オイルショックが発生し、時代の雰囲気は、「政治の時代から経済の時代」へと変貌を遂げていきます。国内の学生運動は組織間での血みどろな「内ゲバ」に変質し、国民の支持を完全に失ってゆくこととなります。

そして1980年12月8日、ジョン・レノンは、アメリカNYにおいて、狂信的なファンによって、拳銃にて殺害されます。齢40でした。ここに60年代のあの狂騒が、完全に幕を閉じることとなりました。合掌・・・。



そしてボブ・ディラン。
今年で76歳。
もち、ノーベル賞。
長生きしそうだね、ボブ?

聞いてる?





昭和40年代:時代と音楽-37

| | トラックバック(0)
高二の文化祭を無事に終えたGrand Sweat Revival でしたが、その後も活動を続けました。神宮外苑で開かれた素人バンドのコンサートに下級生の連中が参加したのに刺激され、我々も一般市民が聴きに来るようなところに出演すべく、さらに腕を磨き続けました。

この頃、バンドメンバーの変更がありました。「目指すべき音の追求でメンバー間で対立が生じ」、なんてカッチョイイもんじゃありません。単に「飽きたから?」くらいの理由でベースの++君がやめ、代わりに¥¥君が加入しました。さらに「オルガンが欲しいね!」なんて生意気言って、¥¥君の知り合いの女の子が加わりました。

この頃になるとセンセもある程度は上手くなり、簡単なリードギターなら演奏できるようになってました。また、文化祭終了後は学校で練習を行うことが困難になり、西荻窪にあるドラムの$$君の家や、永福町の女の子の家でやるようになりました。永福町の女の子の家は広く、思い切って練習できましたが、西荻窪の$$君の家は木造家屋が密集したところにある当時のごく普通の家でしたので、今から思えばあんなところ(失礼!)でよくやったもんだと感心しきりです。$$君のおばあさんからはよく叱られてましたが・・・。

で、高二の春休み、満を持して、自由が丘(だったと思うが・・・)で行われた素人バンドのコンサートに参加しました。何を演奏したか、実はあんまり覚えていないのですけど、サンタナの「Black Magic Woman」をやったのははっきりと覚えてます。なんせ「Black Magic Woman」のリードギター、センセが担当したもんで・・・。

一般聴衆に混じって級友らも聴きに来てくれて、ナカナカ盛況のうちに閉幕しました。コンサート終了後、永福町の五日市街道沿いにあったステーキ屋で、みなでハンバーグを食べて別れたのを覚えてます。懐かしいです・・・。

で、春休みが終わればもう高三!W高校は典型的な進学校でしたので、高三ともなればバンドにうつつを抜かしているわけにはいきません。でも「ビートルズのようなロックバンドになる!」とか一度は決心したセンセでしたので、バンド解散には抵抗があった。でも、このメンバーをよくよく見れば、とてもじゃないが一流になれるわけがない!ことぐらいはセンセでもよく分かる。特に、センセを除き、ルックス的にダメダメ(ホントに失礼!!!)!あ、こりゃあかんな~、てな調子で、すぐにあきらめがついたのは、今から思えば誠に幸いなことではありました・・・。


当時のセンセのスタイル、相当派手だった。

ビートルズの本に載ってた有名な「革ジャンにジーンズ、革のブーツを履いてポーズをとる、ハンブルグのビルの屋上のジョンとポールとジョージの写真」にあこがれて、髪はギトギトにポマードを塗りたくったリーゼント!ズボンはEDWINのジーパンを自分でミシンでギチギチに細くしたスカマン(横須賀マンボ)スタイル。その後にデビューするキャロルそっくりでした。
特にポマードは昭和30年代のお父さんなんかが使ってた麝香の香りがものすごい「黒薔薇コンク」とか「柳家のポマード」とか「丹頂のヘアスチック」とかを使ってた。髪に櫛を入れると櫛の目がすぐ詰まるぐらいベッチョベチョにつけて満員電車の中を通学してたもんだから、今から思えば周りの乗客が可愛そうだ・・・。教室に入ると教室中に麝香の香りが充満するもんだから、担任の先生が来るとすぐに「中山!窓を開けろ!!!」とか言われたりした・・・。うう~ん、ま、青春の甘酸っぱい思い出だネ!


当時のセンセのご行状、これ以上のご開陳は、どうぞご勘弁くださいませ・・・。


昭和40年代:時代と音楽-36

| | トラックバック(0)
バンドをやる前の中学時代、ラジオの深夜放送なんてのが流行りました。特にハープ・アルファートとティファナブラスの「Bittersweet Samba」 でオープニングが始まる「オールナイトニッポン」は、当時の中学生の「夜のお友達」でした。
センセも中三まではよく聴き、「カメカメ、エブリボディ!」とかナンとか、懐かしいです。でも、音楽に目覚めた後は日本のラジオ放送なんぞは物足りなくなって、進駐軍向け放送の「FEN」を専ら聴くようになりました。これも普段から兄の部屋から流れていた影響だと思います。

因みにFEN、今ではAFNと改称されているようですが、「エフ・イー・エヌ」と呼びます。昔、FENを聴きもしないのに聴いてるふりをする連中が「フェン」とか知ったかぶりしてよく言ってましたが、それを言うと「聴いて無い」ことがすぐにばれたもので、センセも「ププッ!」と腹の中で笑ったものです。

、、、、、、ププッ!

FEN ってFar East Network の略で、極東に在駐している米軍向けの24時間のラジオ放送です。ニュースや天気予報、「業務連絡」やキャンペーン放送などを除き、内容の大部分が音楽番組で占められているので有名でした。要するに、米国で流行っている曲を真っ先に日本で聴くことができるのが、FENでした。

FENで流す曲は流行歌だけではありませんでした。クラシック番組もありましたし、カントリー専門、イージーリスニング番組、さらにはラテン専門の番組もありました。イージーリスニングはPete Smith の「Sketches in Sound」という番組で、ストリングスのオープニングが印象的な番組でした。今でもあの美しいオープニングの旋律が、耳に残っています。日本のFMラジオ番組、城達也の「ジェットストリーム」を思い出して頂ければOKです。
耳に残っているオープニングとしては、当時のニュースの前に必ず流れた「Blood Sweat & Tears」の「Spinning Wheel」の出だしです。そうです、あの「チャカチャカチャー、チャカチャー!」です!

けれどもFENと言えば、やはりポップやロック、ソウルの番組でしょう。特に当時有名だったのが、オオカミの遠吠えで始まる「Wolfman Jack Show」!1973年に封切りされたジョージ・ルーカス監督の映画、「American Graffiti」にも出演していましたね!Wolfman Jack 以外には、American Top 40Charlie TunaDon Tracy、Golden Days of Radio、Time MachineDick Clark のMusic Machine なんかを良く聴いてました。
当時、大晦日になると、その年の年間ヒットチャートを一日中流す番組があり、しかも1950年代からの通算を延々と流しておりました。オープニングは、ビル・ヘイリーの「Rock Around the Clock:暴力教室」でした。
で、12月31日になると、センセはラジオの前にたくさんのカセットテープを用意して、一日中録音してました。今でも当時録音したたくさんのテープを持ってますが、ラジオから流れる音をカセットテープで録音するという超原始的方式なので、音としては凄まじい・・・。毎年録音してましたが、今、押入の中のテープをざっとチェックしたところ、大体1980年代の半ばくらいで録音が終了してるようです。大体この頃から、センセの「洋楽はやり歌」に対する興味が少しずつ薄れ始めたようですね。

「洋楽はやり歌」に対する興味は以前のようには湧かなくなったセンセでしたが、こんどは英語の勉強のためにFEN は相変わらず熱心に聴き続けておりました。ニュースやOPINION、Paul Harvey のThe Rest of the StoryMystery Theater なんかをテープに録音し、何度も聴いて勉強したものです。
また、ヒロコ・クボタさんのPhrase of the Day も懐かしい!「おはようございます=Good Morning」って、日本語も勉強しました www!「A Little Language Goes a Long Way!」という最後のフレーズ、今でも耳の奥に残ってます。


昭和40年代:時代と音楽-35

| | トラックバック(0)
さて、ビートルズの「Hey Jude」を聴いて音楽に目覚めたセンセですが、高校1年の年にエレキギターを覚えました。
センセの兄は、とうにエレキをやっていましたし、義理の兄(姉の旦那)もまたエレキ野郎だったので、家にはヤマハのアコースティックエレキギターやベース、アンプなどがごろごろしてました。12弦のアコースティックギターもありました。特に我が家が特別というわけでもなく、「家族勝ち抜きエレキ合戦」などの影響もあって、一家に一台くらいエレキがあっても可笑しくない時代でありました。で、初めの頃は兄や義兄にコードを教わりながら、一緒にビートルズの曲を演奏してました。

当時の家は足立区と埼玉県の県境にありました。今でこそ家屋が密集しておりますが、当時は見渡す限りの田んぼの中にポツネンと我が家がある、といった状況でしたので、アンプにギターを接続し、マイクを用いて歌っても、ご近所から文句もでませんでした。そもそもご近所、無かったので・・・。ご近所の文句どころか、夏になると大音響のカエルのバックコーラスが加わったものでした。両親も仕事で不在が多かったので、この方面からの文句も殆どありません。

初めの頃はただエレキを弾きながらビートルズの歌を兄や義兄と一緒に歌ってるだけでしたが、そのうち学校の仲間を一人、二人さそうようになりました。けれどもいまだバンドを作ろうという発想はありません。

ほどなく、兄が持っていたビートルズの伝記を読みました。結構分厚い本でしたが、一気に読んでしまいました。多感な年頃、この本がセンセに及ぼした影響力は非常に大きく、「よし、おれもバンドを作ってビートルズのようになるぞ!」と本気で思ってしまいました。バカですね、ホント!
で、その後、高校2年になると、仲間を集めてロックバンドを結成しました。その名もGrand Sweat Revival!!! 偉大なる汗の復活!
ナンかカッチョイイ名前ですが、ナンのことはない、「Grand Funk Railroad」と「Blood Sweat & Tears」と、「Creedence Clearwater Revival」の三つから一つずつ拾ってくっつけただけの名前です。

センセが通っていたW中学は中高一貫の私立校でしたので、バンド仲間はみな中学からの知り合いです。
バンドは、リードギター、サイドギター兼リードヴォーカル、ベース、ドラムスの4人編成。このうち本当に上手かったのは、リードギターの**君だけでした。センセはようやくコードを引ける程度でしたが、一番目立ちたがり屋でしたので、コードだけでもOKなサイドギターとリードヴォーカル担当。ベースの++君とドラムの$$君はバンド結成後に無理矢理に仕込んだという、とんでもないバンドでした。

で、秋の文化祭に向けて猛練習を開始!
曲目は、初期のビートルズの曲とCCRのものが大部分でした。その理由は、「演奏が簡単だったから」。CCRなんかは、殆どが三つのコードだけで引けますので、大助かり。リードギターの**君は上手かったので他の曲もやりたがってましたが、他のメンバーの腕がついて行けなかったので、無理。特にドラムの$$君なんかはもともとリズム感が無いので、彼を仕込むのに四苦八苦!バンドのオープニングテーマとしてビートルズの「Birthday」を選びましたが、途中のドラムの独奏で「ドンドコドンドコドンドコ・・・」のところがいくらやっても数が合わず、夜遅くまで「ドンドコドンドコドンドコ・・・」繰り返したのも良い思い出です・・・。

文化祭には他のバンド、特に一学年下のバンドも参加予定でした。で、先輩バンドとしては大いに気になり、連中が練習しているところを下見に行ったりするわけですが、彼らはリードギター+ベース+ドラムの三人バンドで、演目はグラファンの「Heart Breaker」や「Inside Looking Out」なんかのバリバリのハードロック!
あ、こりゃ敵わんな~と我々は焦りましたが、ともかく「ロックンロール路線で行くんだ!」とのメンバーの堅い決意のもと、途中から飛び入りで加わったヴォーカルの&&君も入れて総計5名、一致団結して文化祭に臨みました。

で、当日、ビートルズのBirthday」のオープニングで明けたGrand Sweat Revivalでしたが、恐れていた「ドンドコドンドコドンドコ・・・」も数が合い、その後は「Bad Boy」、「Dizzy Mis Lizzy」、「Proud Mary」、「I Heard It Through the Grape Vein」などその他、滞りなく演奏も終了し、聴衆の反応も上々!あとは下級生の演奏を待つばかりでした。で、いよいよ彼らが登場して演奏を開始しましたが、やっぱりグラファンのハードロックなんて重くて重くて一般には受けが悪く、焦った彼らはいきなりお友達連中が舞台に登って踊り出すなど、笑いを取ろうとの魂胆が見え見え!ギャハハハ!ざまみろ!・・・なんては思いませんでしたが、ま、とりあえず安堵したセンセ達でありました・・・。


昭和40年代:時代と音楽-34

| | トラックバック(0)
みなさま明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

年末年始、どのようにお過ごしですか?
センセはバイクでコケまくってます!!!

大晦日、裏の林道にふらっと入ったところ、ガレ場の上に雪が積もり、つるっつる・・・。右側にこけると崖から川へ真っ逆さまとなって100%お陀仏です・・・。さすがのセンセも新年は五体満足で迎えたいので、尻尾を巻いて逃げ帰ってきました。
で、このままおめおめとは引き下がれないセンセは、代わりに千曲川の河原を探索したところ、ダートの練習に持ってこいの場所が結構あるじゃありませんか!
やれ嬉しやとばかりにいろいろやらかしたセンセですが、速攻でひっくりコケました・・・。ブレーキターンの練習から始めましたが、結構上手くなった、と思った!90度くらい、ナンでもない!で、調子に乗って速度を上げて左にステアを切ってクラッチ切ってリア踏んでザザーッとケツを振ってカウンターをあてたところ、カウンターが強すぎて体がバイクを飛び越して右サイドに吹っ飛んだ!!!いわゆる「ハイサイド:Highside」ってヤツ?
その様子を土手の上のケットラのおっさんが見てるので、ちょいと恥ずかしくなったセンセはすたこら逃げ帰ってきた。でも、ただで帰るのも口惜しいので、途中のダートの凸凹の農道をスタンディングでぶっ飛ばしてきた。スタンディング走行なんぞはもはや朝飯前だ。ふとももも全く痛くならない。凸凹の凹の方は泥水が溜まっているが、泥水なんかなんのその!どんどんすっ飛ばす!股の下でバイクは暴れるが、上半身は安定感バツグンだ!だんだん上手くなってきたね!やった!

で、元旦は実家に戻り、二日に帰ってきた。三日の今日も天気が良い!朝はさすがに寒いが、昼からは絶好のバイク日和だ!というわけで、今日も河原で練習練習!

河原に到着してみると、同じようなヒト(たち)がご近所に居るようで、砂利の後にきれいな同心円がいくつもある・・・。アクセルターンのあとだ・・・。プレッシャーだなあ・・・。でも、誰も見てないからいいか、と、早速ブレーキターンの復習だ。ん、結構良いぞ!じゃ、もすこし速度を上げて派手にやらかすぞ!

「ドドッ~~!・・・・コテン!!!」

あ~あ、またやっちまったよ・・・。ヨッコラセっと・・・。で、ニュートラルにしてスイッチオン!・・・。あれ?・・・・。ニュートラルが出ない・・・。もう一度・・・。あれあれ?
駄目だ・・・。変だな?

てな調子で15分経過。もういよいよ駄目か、保険屋にスマホで連絡してレッカー出動か!?という次の瞬間、ようやくニュートラルが出た!なんで出なかったかは不明・・・。で、再びスイッチオンして、懲りずに再トライだ!

そのうちアクセルターンに挑戦し始めた。
停止状態からいきなりもなんなんで、8の字小回りの練習から始めた。8の字小回り、アスファルト上で超低速でやる分にはなんと言うこともないが、ダートの上である程度アクセルを明けながらやると難しい!!!
で、ステアをフルロックにしてバイクを倒し、アクセルを吹かしてクラッチをつなげばアクセルターンだ!ってえことは頭じゃ分かっているが、なかなかアクセルの吹かし加減とクラッチをつなぐタイミングが合わない。やたらと空ぶかしが多く、我ながら恥ずかしい・・・。でも、だんだん、ナンか、出来つつあるぞ!上手くつながってケツが上手く回ると、本能的にクラッチを切ってしまう・・・。そのため「ターン」まで行かずにバイクが立ってしまう・・・。で、クラッチを切るのを意識的に止めるとガガッ~と回った!いいぞっ!っと思った次の瞬間、コテン・・・。

最後に、「まずコケないであろう」と思われる「リフトアップ」の練習をちょこっとしました。でも、これもナカナカ上手くいかない・・・。Youtube とかみてるとみんな簡単に上げてるし、上げる方法も頭じゃ分かっているけれど、どういう訳か上がらない・・・。アクセルターンと同じく、たぶん、センセはクラッチをつなぐタイミングとエンジンの吹かし加減とが上手く合っていないのだと思います。まだまだ先は長いようですね!

で、本日だけで3回コケました。さすがにこれ以上バイクを持ち上げるのは体力的にキツイので、本日の練習はこれで打ち止め!バイクの通算コケ数も一気に増えて、これで9回!金鵄勲章は目の前だ!!!

この過去記事について

このページには、2017年1月以降に書かれた記事のうち中山博士の横顔カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは004)中山博士の横顔: 2016年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。