中山博士の横顔: 2015年1月アーカイブ

昭和40年代:足立区の移り変わり-5

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当時の足立区の川や池、田んぼに住んでいた水生生物のお話をします。

毛長川での釣り目的は、これはフナです。大部分が銀ブナ。池などでは時折金ブナを釣り上げる事もありましたが、毛長川では99%が銀ブナ。

ヘラブナは、居るのかも知れませんが、釣ったことはありません。ヘラブナは植物質の餌しか食べないので、赤虫では釣れませんでした。

稀にコイが釣れる時もありましたが、コイを釣るときはミミズを餌にしますので、赤虫オンリーの小学生達がコイを釣り上げる事は殆どありませんでした。

クチボソも良く釣れましたが、これは毛長川よりも、水深の浅い周りの池に多く住んでおりました。

タナゴも居たようですが、これはタナゴ専門の釣り方でないと釣れませんので、センセは一度も釣り上げた事はありませんでした。一度友人がセル瓶(せるびん)を使ってたくさん獲ったのを見せて貰った事がありますが、タナゴの美しさに見とれた記憶があります。仕事をリタイアしたらタナゴ釣りに挑戦するのも良いなア、と時々考える程です。

ドジョウも時々釣れました。ぬるぬるしてるので針を外す時がやっかいでしたが、釣るのでは無く「釣れてしまう」ので、致し方有りません。

毛長川でウナギを釣ったことはありません。一つにはコイと同じく赤虫ではまず釣れない事もありますし、基本的にウナギは夜釣りですし、或いは毛長川にはウナギは居なかったのかも知れません。

メダカもたくさん居りました。もちろんオレンジ色のヒメダカでは無く、野生のメダカです。フナ釣りの足下にちょろちょろと群れておりました。ナカナカ釣果が上がらないときなどは退屈しのぎにメダカ釣りに挑戦する事もありましたが、フナ釣り用の針でメダカを釣り上げる事は困難でした。それでも時々メダカの体に針が引っかかって釣れる事もありましたが、、、。

田んぼや池には夥しい数のトノサマガエルが居りましたが、毛長川にはウシガエル、いわゆる食用ガエルがおりました。夜になるとモ~モ~鳴く、あれです。食用ガエルのでっかいオタマジャクシもちょろちょろ泳いでおりました。

タニシも川底にたくさん居りました。釣りの仕掛けが少し長すぎると餌が底を這う事になりますが、その様な時にしばしばタニシが食いつくのでした。これも釣れると針を飲み込んでフタを閉じてしまうので、その後がやっかいな連中でした。

ハヤ(ウグイ)、ヤマベ(オイカワ)の類は全く居りません。手長エビも見たことありません。殆どはマッカチン(アメリカザリガニ)でした。

時代は下ってセンセが20代半ばの頃、オフロードタイプのバイク(ヤマハXT-200)にキャンプ用品を積みこみ、キャンプしながら色々な所に釣りに出かけていた時期がありました。千葉と埼玉と茨城の三県が交差する所に関宿(せきやど)と言う場所がありますが、関宿の近くに菅生沼(すがおいぬま)と言う名前の沼地があります。一帯は間違い無く関東沖積平野の原風景を残す所で、鬱蒼とした芦原が生い茂る沼地が南北に延び、そこかしこにハンノキが生い茂り、センセのお気に入りの場所でした。要するに、田んぼが無ければ関東平野はこんな風になるのだよ、と言う事を示している場所です。
菅生沼で糸を垂らすと、専らコイ、フナ、クチボソの類が釣れますので、基本的には毛長川と変わる事は有りません。ところが一度、ハスを釣り上げた事があり、びっくり仰天致しました。
ハスは琵琶湖水系に住む肉食魚で、少なくとも当時の関東にはまず居りません。成長すると30cm以上にもなりますが、センセが釣り上げたものは10cm程度のハスの子でした。何かの見間違いかと思いましたが、特徴的な下あごに間違いはありません。
アユ釣りの名所では、昔から琵琶湖で捕れた稚アユを放流する事が行われ、その為に関東にオイカワが広がったそうですが、菅生沼にアユが居るはずも無く、どうにも合点がいきません。事によると、ルアー釣りの連中が菅生沼に放流したのかも知れません。

先日、ふとしたことで、浜松町の浜離宮を散策する事がありましたが、美しい日本庭園の池を泳ぐニシキゴイに混じってブルーギルがうじゃうじゃと泳いで居るではありませぬか!それに加えてカメと言うカメは全てミドリガメ(ミシシッピーアカミミガメ)!!!日本を代表する庭園の池が外来種に完全に浸食されております。庭園の管理者、何してますかね?
今では関東のどこの川や池や沼でもブルーギル、ブラックバス、ミドリガメがうじゃうじゃ繁殖して居ますが、これ、ルアー釣りの連中が所構わず放流した結果です。ミドリガメは違うけど。連中、生態系の破壊者であるのみならず、日本文化の破壊者でもあります。超強力な法的措置を断固とるべきだと思いますが、どうでしょうか?日本人、この様な状況を見て何も感じないのですかね?理解出来ませぬ・・・。

さて、話を戻します。

要するに、昭和40年代初頭の足立区は田んぼが広がる田園地帯でした。これが急速に変化して行き、昭和50年頃ともなると、現在と余り変わらないDQNな光景が延々と広がる地域となりました。毛長川は急速にドブ化し、これが流れ込む綾瀬川は毎年毎年連続して日本ワーストワンの栄誉に輝く悪臭を放つドブ川と成り果てたのは、皆様も良くご存じの事かと思います。
今後、日本の人口は減少の一途を辿る事となりますが、かといって足立区が元の田園に戻る事は無いでしょう。地方の田園地帯には未だ懐かしい風景も残っては居りますが、稲作そのものが大きく改良され、冬場に水を張るような田んぼは姿を消し、水路もコンクリートで固められ、化学肥料を多く使用する様になりましたので、春先にレンゲを播く必要も無く、あれだけうじゃうじゃ居たトノサマガエルも、今では日本全国で姿を見かけることが殆ど無くなってしまいました。メダカに至っては、絶滅危惧種に指定されると言う信じられない有様です。
コンクリートで固められた農水路では、タニシの代わりにアフリカマイマイが大繁殖し、イシガメやクサガメの代わりにミドリガメが我が物顔に伸し歩いて居ります。

もちろん農業は「産業」であり、生産性が大事であるのは百も承知ではありますが、この様な時代の流れに寂しさを感じるのもまた、自然な心の動きと言うべきではあるかと思います。


昔の田んぼのあぜの隅には「肥溜め(こえだめ)」が必ずありました。金肥(きんぴ)と言いますが、水洗トイレと化学肥料の普及により、肥溜めの役割も終わりました。
センセが小学生の頃には既に役目を終えつつあった肥溜めですが、ここには必ずたくさんのトノサマガエルが、丁度お風呂に入っている様に、気持ちよさそうに浸かっておりました。
田んぼの「かいぼり」でフナやコイ獲りに夢中になったり、或いは遊びの最中に肥溜めの中に足をドプンと漬けてしまった経験を持っているのは、たぶん、センセの世代が最後かも知れません。

下の図は、例によって、フォトショップで描いた「肥溜めの図」です。

肥だめの図-2.jpg
ハンノキの枝に留まっているスズメと肥溜め風呂に気持ちよく浸かっているトノサマガエルの図・・・。
赤い点々はヘビイチゴ、緑の葉っぱはオオバコのつもり、、、。

気がつくと本日は平成27年1月4日。昭和40年からは今年で丁度50年!振り返るとホンノ少し前の気がしますが、よくよく考えると相当な時が経っているのですよね。ナルホド足立区も、良くも悪くも変わる訳です。今後の人口減少で日本はどの様に変化して行くのでしょうね?これも興味津々な所ではあります。

明日から新たな仕事の日々が始まります。坂城のセンセも、相変わらずの忙しい年を迎える事でしょう。

それでは皆様、今年もどうぞ宜しくお願い致します!!!

昭和40年代:足立区の移り変わり-4

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当時の足立区竹の塚周辺は見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼでした。
特に足立区と埼玉を分け隔てる毛長川(けながわ)沿いの土手道から埼玉側を眺めると、農家や神社仏閣の樹林が遠景を縁取り、春ともなると見渡す限り一面のレンゲ畑が広がり、川面に寄せる春風に乗ってヒバリが空高く舞い歌う光景が繰り広げられていたものでした。

センセ達は釣り竿を担いで自転車で竹の塚から伊興町へ向かい、毛長川の岸辺で糸を垂らしたものでした。伊興町(いこうちょう)からさらに西北に向かうと舎人町(とねりちょう)に入りますが、当時、ここは地図で見るとどういう訳か舎人町が複雑に入り組んでいて、訳分からない状況となってました。一体何故そうなのか、ちょいと調べてみたところ、どうやら話は江戸時代までさかのぼるそうです。詳しくはhttp://sci-tech.jugem.jp/?eid=189に載ってます。現在ではそれなりにまとめられて分かりやすくなっている様ですが、それでも完全とは言い難い状況だそうです。

この舎人町から伊興町にかけては小さなお寺がやたらと多く、これも子供心に不思議でしたが、これは関東大震災の時に下町で焼け出されたお寺さんがここにまとめて移住させられたためだそうです。要するに、足立区って、関東大震災の影響を二次的に大きく受けており、その知識無くして足立を語る事は出来ない、と言う事が出来そうです。

さて、この様な田園風景はさらに埼玉の奥まで延々と続いておりました。東武線の西新井駅から竹の塚に近づくと突如として団地群が現れると書きましたが、さらに進んで谷塚~草加を過ぎると、今度は松原団地のマンモス団地がいきなり出現します。
松原団地駅は松原団地が出来たのでわざわざ作った駅だと思います。このことからも分かる通り、松原団地は、当時は日本有数のマンモス団地でした。ところが基本的に湿地帯である荒川沿いの関東沖積地帯に作ったものですから、梅雨時や台風が来るとたちまち近在を流れる農業用水が氾濫し、これが団地に流れ込みます。団地の地形そのものが窪地に建てたも同然の構えですので、水はナカナカ引かず、毎年のように住民からの苦情が寄せられておりました。もちろん現在ではそれなりの対策が取られ、往年の様な被害には見舞われていない様ではありますが、、、。

松原団地と言えば獨協大学のキャンパスがある場所としても有名ですが、センセが小学生だった頃は獨協大のキャンパスは未だ無く、伝右川(でんうがわ)を境にして団地の反対側は一面の田んぼ田んぼ田んぼ・・・。
釣り竿担いで竹の塚からはるばる伝右川まで自転車で遠征した事もありました。
春のレンゲが一面に広がる田んぼに一歩分け入ると、夥しい数のトノサマガエルがぴょんぴょん飛び跳ねて、これを捕まえるのも小学生の役得でした。役得と言っても捕まえてどうする訳でもないのですけどね、、、。取りあえずぴょんこぴょんこするヤツは捕まえる、と言うのが小学生の本能でして・・・。

下の図は、伝右川で釣りをしている所をフォトショップで描いたものです。竹の塚から松原団地にかけての春の光景は、本当にこの様なものでありました。

獨協大前のレンゲ畑-2.jpg


昭和40年代:足立区の移り変わり-3

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武蔵野の面影を残す山の手の世田谷区豪徳寺、「Let's 豪徳寺!」の舞台ですが、、、
知らないヒトは知らないと思いますが、、、
どうでも良いですが、、、
そこから、下町と言うよりも寧ろ埼玉から茨城の水郷に至る「関東沖積地帯」の、「本来は湿地帯であるが、それを利用して田んぼに開発した農村地帯」の辺縁と言うカンジの当時の足立区に移ったセンセにとって、その地質学的差異ももちろんながら、文化の相違には大いに衝撃的なものがありました。

これから述べる事の中には差別的な表現や足立を故意に貶める(おとしめる)様な事が書かれていると感じる方も居られるかも知れませんが、決してその様な意図をもって書くものではありませぬ。ただひたすら、当時の小学生にとって驚きであった事実をそのまま書いていくつもりです。事によると当時のクラスメイトがこのブログを読む事があるかも知れません。その時にどの様に感じるかを考えるとためらいも生じますが、クラスメイトも今では皆立派な大人ですし、「ああそうだったね!」と思っていただくことを期待して、ありのままに書いて行こうと思います。

世田谷区豪徳寺の城山小学校から足立区竹の塚の保木間小学校に5年生の時に転校したセンセでしたが、直ぐにクラスのみんなと仲良くなりました。センセの人徳ですね!HD
でも、世田谷時代と色々違うところがあり、興味津々と言おうか面食らうと言うか、同じ東京でもこんなに違うものかな、と、小学生の身ではありましたが、強く感じたものでした。

まず始めに驚いた事は、クラスの三分の一が生活保護世帯であった事です。クラスメイトの大体の構成としては、三分の一が地元の農家の子供達、三分の一が関東大震災や戦後直ぐに移り住んできた人達の子供達、残りが高度経済成長による郊外の拡張に伴って移り住んできた最も新参の世帯の子供達で、センセはこれに含まれます。地元の農家の子供達の名字には古庄、五十嵐、石鍋の姓が多く、地主でもあり、農業だけでなく、地元の色々な産業にたずさわっている家庭の子女が多かったです。センセを含む新参者の多くは団地住民であり、その子供達の多くは、当時のはやり言葉で言うところの「鍵っ子(かぎっこ)」でした。その他の子供達の大部分は、いわゆる「都住(とじゅう)」に住んでおりました。都住とは都営住宅の事で、国が主体となって作った団地とは異なり、東京都が建てた住宅群の事です。家賃も格段に安価に設定されておりました。

当初、都住は戦前に建てられた古い木造のものが多く、これらが竹の塚周辺に点在しておりました。基本的には、関東大震災後の東京大改造計画に沿って建てられたものが多かったそうです。
これらの古い木造の都住は、トイレ、水道、炊事場は共同で、お風呂などもありません。男性の小用トイレなどは単にコンクリートの壁があるだけで、溝を伝って下水に流れ落ちる仕組みでした。水道の蛇口は緑青の浮き出た真鍮製で、建物一つに付き数個しかありません。
この様な建物の基本的な構造自体はその後も中野区辺りの下宿屋などに多く見られ、珍しくも有りませんが、何しろ殆どが戦前に建てられた古いものであるのと同時に平屋建てのものも多く、朽ち果てる寸前のものもあり、これらは確かに当時の足立を特徴づけていた建物群だと思います。

一度呼ばれて友人の家に遊びに行った事があります。木造の階段を上る時の軋む(きしむ)音や、夕方になると屋根裏から飛び出す無数のコウモリが印象的でした。友人一家は六畳一間に暮らしており、驚いた事には、父親が昼間っから部屋の真ん中で酒を飲んで寝ております。母親は枕元で洗面器を抱え、父親がときどき吐き散らかす「痰」を洗面器で受けております。
友人はクラスでも優秀であり、当時の学級委員長だったので、部屋の壁には委員長の免状が額縁に入れられて飾られておりました。僭越な物言いかも知れませんが、父親にとって、何にも増して誇れるものが、自分の息子たる彼だったのかと思われます。
兎も角も上の光景は、子供心の奥底に染みこんで、未だに放れる事の無いものであります・・・。

その後、この様な古い都住は、団地と同じ様な真新しい鉄筋のビル群に建て替えられる事となります。

小学生の服装も大きく異なり、夏場の世田谷では男子は押し並べて半ズボン姿で、下手をすると冬場でも半ズボンをわざわざ「着せられた」ものでしたが、ここでは夏場でも半ズボンは少なくて長ズボン、それも中学校の制服の「黒のサージ」の長ズボンを着ている連中が多かったです。ランドセルも少なく、中学生の「白のズック」のカバンで通学する子もたくさんおりました。さらには中学生の帽子をかぶっている連中も居り、間違い無く、年長者から譲り受けたものをそのまま使っていたのだと思います。センセもそのうち雰囲気に溶け込み、「黒のサージ」の長ズボンはセンセお気に入りのアイテムと成りましたが、、、。

言葉遣いも微妙に異なり、「くんさん」付けで呼ぶことは殆ど無く、あだ名での呼び合いは良いとして、どういう訳か姓と名を一気に通して呼ぶ事が多かったです。一つにはたぶん、古庄~石鍋~五十嵐の三つの姓が多かった事が原因かと思われます。一つのクラスに古庄姓が三~四人居る事はざらでしたから、、、。
世田谷では、自分の事を言うには、男の子だったら「ボク」、女の子でしたら「ワタシ」、相手方を呼ぶには、男子は「キミ」、女子は「アナタ」が普通でしたが、足立ではそんな流儀は無く、「オレオマエ、アンタアタシ」の世界でした。下手すれば「オイラ、オメー」と言う事です。

豪徳寺時代は戦争ごっこばかりやっていたセンセ達でしたが、足立ではそんな遊びをするものは一人もおりませんでした。で、何をするかと言えば、まずは魚釣り、次に野球、後はベーゴマとか将棋とか、あまり創造性に富んだものではありませぬ・・・。世田谷時代はみんなで創意工夫を凝らしていろんな遊びを発明したものですが、ここではありふれた遊びを小規模に行うのが普通でした。一つには、まわりは見渡す限り田んぼしか無いので、工夫発明の余地が無かったのかも知れません。ドッジボールとかSケンとかもやりましたが、そう言うのは世田谷でも足立でも時折行うもので、そんなにポピュラーなものではありません。
面白い事に、世田谷では男子と女子が一緒になって遊ぶ事は、殆どと言うか100%と言おうか、ありませんでしたが、足立区竹の塚の小学生達は、結構男女一緒になって野球やドッジボールをしておりました。今から思えば不思議な気がしますが、小学生も5~6年生となっていたからなのでしょうかね?世田谷と比べて性的にも「ませた」連中が多かった気がします。たぶん、住宅事情などが関与している気がしますが、、、。

もちろんセンセなんぞは純粋無垢で、事の顛末などは全く知らない小学生ではありました・・・。wwww

昭和40年代:足立区の移り変わり-2

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当時は既に新日光街道、即ち国道4号線は開通しておりました。その後に幾度となく拡幅工事が行われ、現在のような道となりました。新日光街道に対して旧日光街道が竹の塚駅と新日光街道の間を走っており、これは現在では旧道と呼ばれて道幅も狭いものですが、当時はこれの両脇を農水路が走っておりましたので、道幅はさらに狭いものでした。歩道すら無く、加えて電信柱が両脇に立っていて、農水路と道路を分け隔てる様なフェンスも無かったので、道を歩くにも危険が多く、漸く到来しつつある車社会には全く対応出来無いものでした。

下の絵は、当時の旧日光街道を思い出しながら正月休みを利用してフォトショップでセンセが描いたものです。

旧日光街道-2.jpg
もちろん当時は取りあえず舗装はされていましたし、電信柱もあった訳ですが、感じたままの雰囲気をそのまま伝えたく、ちょいと大袈裟に描いてみました。でも、竹の塚から伊興町に抜けて毛長川に至る道や、或いは水神橋から草加に抜ける旧道などは、将にこの絵の様なものでした。

両脇の家々の多くは農家や在来の商家で、中には小規模ながら牛を飼い、地元に牛乳を供給する家もありました。当然牛の臭いがしますが、当時は誰も気に止めません。牛舎から流れ出る排水もまた水路に流れ込みますが、その様な場所にはドジョウやフナも多くたむろし、小学生達は玉網や四つ手網をもって、どじょっこふなっこ獲りに夢中になっておりました。
団地が多く建ちましたので、農水路だけでは下水も成り行かず、都市で普通に見られる様な下水路も完備される様になりましたが、その様な下水路と在来の農水路とは連結されていますので、農水路からたくさんのフナ、ドジョウ、ザリガニの類も流れ込みます。山の手の世田谷から来た小学生にとってはこれらの水生動物は大変に珍しいものでしたので、初めの頃はしょっちゅうどぶさらいをして、どじょっこふなっこ獲りに夢中になっておりました。興味の対象が、武蔵野のカブトムシやクワガタムシからどじょっこふなっこに変わった、と言う事ですね。

時が経つに連れて新日光街道、即ち国道4号線の西側は段々と開発が進んで行きましたが、4号線の東側は開発速度も遅く、長らく田んぼと池とがはるばると続く場所でした。センセは足立区に引っ越してきて始めて釣りを覚え、竹細工の安い釣り竿と赤い玉浮き一個と赤虫を持って、これら田んぼの間に点在する池に足を運びました。これらの池は水深は極めて浅く、深いところでも30cm程度のもので、あぜ道にはハンノキが茂り、フナ、ドジョウ、マッカチンと呼ばれるアメリカザリガニなどの他に、クチボソがたくさんおりました。たぶん、休耕田としての田んぼにそのまま水を張ったものかと思われます。
クチボソは関東の言葉で、正式には「モツゴ」と呼ばれる魚です。その名の通り口が細くて小さいので、赤虫、ユスリカの幼虫ですが、でないと釣れない魚でした。姿形がちょいとワカサギに似てますので、たくさん釣ったクチボソを天ぷらに揚げ、「美味しいワカサギだよ!」と嘘を言って友達に食べさせたのは、さらに後になっての事であります・・・。

昭和40年代:足立区の移り変わり-1

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皆様明けましておめでとうございます!今年も宜しくお願い致します。今年の冬は例年になく寒いですが、体調管理は大丈夫ですか?

久しぶりのブログの更新です。昨年の夏休みは引っ越しの準備で忙しく、その後も何かと忙しく、年が明けて漸く時間がとれました。昨年の今頃はSTAP細胞のお話で盛り上がっていましたが、その問題にも漸くケリが付き、落ち着くべき所に落ち着いた感がします。ただ、死亡者が出たのは返す返すも残念な事ではあります。
何もそこまで、と言う感がしますが、研究者は一般にプライドが高い人間が多いので、むべなるかなと言う気もします。

プライドだけで生きてるヒトも結構居ますしね・・・。

せっかく好きな道を歩んでいるのですから、もっと研究自体から得られる喜びに身を委ね、周りの目や評判を気にせずに生きれば良いのに・・・などとセンセなんぞは考えますが・・・。
研究者も人の子、と言う所なのでしょうね・・・。

さて、今回は実はもすこしハードな内容のものを書く予定でしたが、準備に時間がかかりそうなので、お気楽系のものを書きます。昨年冬に昭和30年代の思い出を書いたので、続編として40年代初頭の雰囲気を書いていきたいと思います。

前回、昭和30年代は基本的に戦前の日本であり、昭和40年代になって脱皮した、と書きましたが、将に昭和40年代こそは高度経済成長の時代であり、所得倍増の時代であり、サラリーマン戦士の時代であり、インフレと狂乱物価の時代であり、そして、乱開発~公害~ゲバゲバに明け暮れた時代でした。
30年代に東京都世田谷区豪徳寺で小学生時代を過ごしたセンセでしたが、昭和40年、小学校5年生の時に、同じ東京の足立区に転校しました。その足立区の変遷を紹介する事によって、30年代から40年代の急速な移り変わりの様(さま)をお知らせする事が出来るかと思います。

東京の世田谷区豪徳寺界隈は典型的な「山の手」の住宅街で、小さいながらも落ち着いたたたずまいの住居が建ち並び、名刹豪徳寺を中心として、城山、八幡神社、松陰神社、ねず山、馬事公苑などが点在し、自然史的には武蔵野の面影を色濃く反映する地域でした。文化的にも洗練されており、小学生の話し言葉にも一定の節度が保たれ、男の子は「何々くん」、女の子には「誰々さん」と、くんさん付けで呼び合うのが普通でした。もちろんあだ名のある子にはあだ名で呼んでおりましたが、、、。

世田谷区から足立区に行くには、当時はまず小田急線で新宿まで行き、そこから総武線で秋葉原まで行きます。当時の秋葉原、総武線のプラットフォームから地面に降り立つのには階段しかありませんでした。若者は良いですが、お年寄りにはさぞかし、と言う作りでした。当時はどこでもそうでしたけど、、、。
昭和40年頃には既に地下鉄と東武線は繋がっておりましたので、直接に秋葉原駅から草加方面行きの電車に乗ることが出来ました。東武線の電車はオレンジとクリームの二色トーン、一方の営団地下鉄の方はジュラルミン作りの全面銀色の車両で、ナカナカ格好良いものでした。
三ノ輪を過ぎると地上に出、南千住の駅となりますが、当時の南千住界隈は誠に戦後昭和の雰囲気に満ちており、木賃宿が密集し、ニコヨンのおっさん達が立ちんぼし、小塚っ原の回向院には首切り地蔵があり、遠景には4本建てのお化け煙突が煙をモクモクと吐き出し、東京球場の建物があり、、、、。

倍賞智恵子が歌う「下町の太陽」そのままの場所でした。

南千住から北千住にかけても似たような雰囲気で、常磐線と平行し、途中で真っ黒に汚れた隅田川を横切り、北千住を過ぎると荒川放水路を渡り、小菅刑務所を右手に見ながら常磐線と交差し、一路竹の塚を目指します。

小菅、五反野、梅島、西新井までの東武線沿いは木造家屋が密集し、基本的に南千住の延長みたいな雰囲気でしたが、西新井を過ぎると途端に景色が変わり、見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼ・・・。所々に農家とお寺が点在するだけの風景が延々と続く中を電車は緩やかに右にカーブし、程なくして速度を落とし始めると、右手にどど~んとテッコンキンクリートの「高層建築群」がいきなり現れます。
ここが竹の塚で、高層建築群(と言っても4階建てですが)は、日本住宅公団がこの時期、日本全国に大々的に建て始めた「団地」なのでした。

竹の塚の駅舎は今では立派な駅ビルとなっておりますが、当時は単なるローカル線の粗末な駅舎でした。東口に降り立つとロータリーが有り、歩道を完備した立派な道路が東に向かって一直線に伸びてますが、これは竹の塚開発のためにわざわざこしらえた道であった様です。一歩中央を外れると、両脇に農水路を備えた昔ながらの農道が縦横に走り、立派な団地群のまわりは見渡す限りの田んぼ田んぼ田んぼ・・・。広々とした田んぼ群の真ん中に、非常なる違和感をもって団地群が存在すると言う、それが40年代初頭の足立区竹の塚の光景でした。

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