中山博士の横顔: 2013年12月アーカイブ

昭和30年代の思い出:総集編-7

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・・・・あ~ナンか気が滅入ってきた・・・・明日はお正月なのに、いったい何を好きこのんでこんなおどろおどろしい事を書いているのだろう・・・・。

でも、よく考えたら、さっきの傷痍軍人のお話は正月の明治神宮参拝時の話だし、ボロ市のヤクザのケンカは師走も晦日の話だし、ある意味、この時期にふさわしいお話かも知れない、、、。

 

気を取り直して、その他に昭和30年代を特徴付けるバイオレントな事柄を思いつくままに挙げてみると、

1. 神風タクシー

2. カミナリ族

3. ロカビリー

4. 愚連隊

5. 60年の安保闘争を含む各種学生運動や労働争議

などが挙げられます。例えば今では日本人の運転マナーはYoutube 等でも賞賛の的となっておりますが、昔は日本人ドライバーと言えば、これはイコール神風タクシーと言うくらいのものでした。カミナリ族なんぞはバイクのマフラーを取っ払ってバリバリバリ~~~~!!!と、けたたましく街路を疾走するものですから、今の暴走族なんぞとは比べものになりませぬ。当然ヘルメットもしませんし、排気量の限定もありませんから、16歳になったらいきなり750CCの単車にメットなしで乗るのが当たり前でした。ちょいと時代は下りますが、光クンも委員長を後ろに乗せて、二人ともメットナシで、CB750 を疾走させていたものです。平尾昌明とか山下敬二郎のロカビリーの舞台、一度見てみるとヨロシかと思います。愚連隊、今で言うDQNの事ですが、同士の抗争とか、学生運動や労働争議の凄まじさとか、今の日本人、ホントにおとなしくなったモノです。

 

で、そろそろ話も締めていきたいと思います。たぶん「三丁目の夕日」とか「ふーてんの寅さん」とかの影響で、「昭和の昔の日本人は、貧しくとも、清く正しく美しい世界を生きていたんだ」とか、誤って考えちゃってるヒトが若い連中に居るのだと思います。でも、決してそんな単純なものでは無い事が、ある程度は分かって頂けたかと思います。所詮子供だったセンセの身の丈程度の経験に基づいた、数も少ないお話に過ぎませんが、少なくとも、日本人の立ち居振る舞いは、昔も今も本質的には変わっていない事に気づいて頂ければ、幸いであると考えます。寧ろ今の日本人の方が圧倒的に紳士的ですし、物わかりが良いですし、穏やかです。つまり、草食的で野心に欠け、引きこもりがちで、そのくせ些細なことに過敏です。

最近のTVのコマーシャルで、「子供達は免疫が未熟。だから・・・」と言うのがあります。センセはそれを最初に見たとき、「うんうん、ナカナカ良いところに気がついた様だ。だから免疫を鍛えましょう、と言うのだな」と期待して見ていたら、「だから除菌しましょう!」と来たもんだ!!!オイ!!!

「除菌しましょう!じゃ無いだろ!それだと未来永劫に子供の免疫が鍛えられないだろ!除菌しましょうじゃなくて、大豆麹乳酸菌発酵液を飲んで子供達の免疫を鍛えましょう!が正解だろ」と叫んでしまいました。・・・・・ううむ、漸く最後に締めることが出来た様ですね!

それでは皆様、この一年、大変にお世話になりました。最後に御礼を申し上げたいと思います。そして、来年に向けて、この場をお借りいたしまして、皆様のために祈念させて頂きたく存じます。

このブログを読んでくださっている方々にとって、来年は、とても良い年と成りますように!それ以外の人々には、それなりの年となりますように!

昭和30年代の思い出:総集編-6

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・・・・失礼いたしました・・・・突然取り乱してしまいました・・・・。

傷痍軍人の姿から、今度は東京清瀬の昔の結核病院の雰囲気を思い出してしまいました。フェノールやクレゾールの臭いとか、とびひの治療に用いるヴァイオレットの色だとか、、、ナンか、、、メメクラゲに刺されたオトコを思い出す、、、、。

世田谷の世田谷通りには、代官屋敷というものがありました。今でも存在していると思います。この代官屋敷界隈の世田谷通りでは、昔は年末になるとボロ市と言う縁日がたち、植木や瀬戸物、古着などの出店が軒を連ね、近在の人々が集まって、大変賑やかでした。今でもあると思います。で、植木や瀬戸物類の出店に混じって、セルロイドのおもちゃ売りやカルメラ焼き、今川焼きなどの店も出て、子供達もお小遣いを貰っていそいそと出かけたものでした。

その中で、アンペラ作りの見せ物小屋なども建ちました。たぶん、ですけど、現在ではこの様なものは無いと思います。アンペラと言うのはムシロの事で、掘っ立ての木枠にアンペラを掛け、急ごしらえの見せ物小屋に仕立てる訳です。これらの見せ物小屋には、木の看板に泥絵の具で色彩も鮮やかに「蛇女」とか「ろくろっ首」だとか「象おんな」だとかの絵が描かれ、小屋の入り口に掲げられる訳です。これらの絵を一瞥しただけで小学生レベルの子供達にとってはオシッコちびりそうになりますし、親からは絶対に入ってはいけないと念を押されておりますので、センセは覗いたことはありませんが、当時中学生であったセンセの兄が、「蛇女」の見せ物を覗いてみたそうです。

で、その内容はと言うと、ナンか、女が鶏の首の羽毛をむしって、そのまま首にかじりついていた、と言う事でした、、、、、、、ナンというのか、、、、、、コメントの仕様も有りませんが、、、、。

 

 

ある年末の夜、両親にボロ市に連れて行って貰いました。相変わらずの人混みの中、ケンカがあり、ヒトが刺されたとの事でした。人混みをかき分けて現場に行くと、既に刺されたヒトは病院に担ぎ込まれた後の様でした。その場には、夥しい血が、まるでプールの様に、残っておりました。師走の寒風吹きすさぶ夜、出店のアセチレンの光が煌々と、真っ赤な血溜まりを映しておりました。この時、小学校も低学年であったセンセですが、酸化ヘモグロビンの真っ赤な色は、今でも脳裏に焼き付いて離れる事がありません。

 

昭和30年代の思い出:総集編-5

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今日はいよいよ大晦日。昨日の予想通り、大納会は年初来の高値で大引けとなりました!めでたしめでたし、と言いたいところではありますが、その後に為替は下落、、、。逃げ遅れたセンセは高値を掴んだまま、悲しいお正月を迎えそうです、、、。

さて、昨日からの続きです。ナントカ今年中にこの話題を終わらせたいと思ってます。本日は、昭和30年代のバイオレンスとおどろおどろしさ、について書きます。

昨日も書きましたが、最近ではクールジャパンの影響もあって、ネット上では自分達に対する自画自賛が行き過ぎている感があります。これは、これまでずう~~~っと続いてきた自虐的感覚の裏返しに過ぎない面もあり、致し方ない側面もありますが、明らかに間違っている所も目に付きますので、此処で実際の見聞に基づいたお話をして、認識を改めて貰おうというのがセンセの魂胆であります。昨日は昭和30年代の日本人のマナー、当時は「公衆道徳」と呼んでいましたが、は決して良いモノではなかった、と言うお話を致しました。本日は昭和30年代の闇の部分のお話しをいたします。そんなたいそうなものじゃないけど、、、。

3. 昭和30年代=ガロの世界

ガロって、知ってます?青林堂という出版社から出ていたマンガ雑誌で、白戸三平のカムイ伝とか、つげ義春のねじ式とか、知る人ぞ知る、当時をある意味代表するマンガを掲載していた雑誌です。実際はガロが出版されたのは昭和39年、東京オリンピックが開催された年ですから、昭和30年代を代表する雑誌と言うよりも寧ろ40年代を代表する雑誌と言うべきかと思いますが、そこで描かれている雰囲気は、これは昭和40年代のものでは無く、将に昭和20年代から30年代のものですので、ここで当時の雰囲気を説明するためにも、この雑誌を取り上げたいと思います。

個人的に言えば、昭和39年の東京オリンピックが開催されるまでの日本は、これは戦前の文化の集大成であると思っています。戦争で日本全土が焦土と化し、これがほぼ完全に復興したのが昭和39年。要するに、戦前の文化と技術が最高潮に達したのが昭和39年、と考えます。例えば、当時の東京は主道路の殆どに未だ都電が走り、蒸気機関車も現役。オート三輪に荷物を満載し、郊外では未だ舗装されていない道路を砂埃を巻き上げつつ、白煙を吹き出しつつ走っていたのがこの年まで。東京オリンピック以降は、新幹線が出来、高速道路が完成し、カラーTVが普及し、その他その他、これまでと大きく質的変化を遂げていき、日本は、全く新しいステージに入ります。昭和39年までとそれ以降とは、日本人の考え方や立ち居振る舞い、即ち文化が、質的に大きくガラっと変化して行きます。

昭和39年に刊行された漫画雑誌ガロは、そんな昭和30年代の、未だ戦前の日本文化の残滓を色濃く残していた時代を表現したマンガで溢れておりました。

現代の「アニメ」で育ったヒト達には、日本人外人を問わず、「つげ義春とか花輪和一の漫画の世界って、訳わかんない~っ!」とか言うと思います。以前にも書きましたが、この当時の水木しげるのマンガも、現在よりも遙かにおどろおどろしく、訳わかんないものでした。どういうモノであったかは実際に本を購入して読んで頂くしかありませんが、彼らのマンガの中で表現されているおどろおどろしさについて、センセが当時見聞した事柄を紹介して、これらに基づき考えてみたいと思います。

傷痍軍人って知ってます?

傷痍軍人と言うのは、基本的には戦争で負傷した兵隊~軍人一般を指す言葉ですが、ここで言う傷痍軍人とは、戦争で片手片足を失い、義手義足に白い単衣(ひとえ)の病院服をまとって首から賽銭箱を提げ、カーキ色の軍帽を被り、アコーディオンを引きながら街角に立って物乞いをしていた一群の人々の事を言います。今ではもちろん全く見かけることはありませんが、昭和30年代には普通に居りましたし、昭和40年代中頃までは見かけたかと記憶しております。彼らの境遇~政府の処遇、待遇その他、政治的事柄に関してこの場で申し上げることは一切致しません。飽くまで、小学生だったセンセの目から見たその光景について、正直な感想を述べるだけです。

実は昭和30年代を語るときにセンセが真っ先に思い浮かべる光景と言うのが、靖国神社や明治神宮など、正月の参拝客で混雑している参道の大鳥居の下で、彼ら傷痍軍人の一群が、もの悲しくもアコーディオンで軍歌を奏でている光景です。現在、この雰囲気をある程度感じられる状況としては、年末の銀座などの人通りで賑わっている場所で救世軍のヒト達が義援金活動をしていますが、あの雰囲気にちょっとだけ似たものを感じます。でもほんのちょっとだけ。やっぱりつげ義春や花輪和一のマンガの中に、彼ら傷痍軍人らが醸し出していた雰囲気、現在では日常の中に殆ど見いだすことの出来ないその雰囲気を、濃厚に感じることが出来ます。

余談ですけど、大分麦焼酎のTVコマーシャル、明らかにガロの影響を受けていますね。

で、その様な雰囲気の中、小学校に上がるか上がらないかと言う年であったセンセは、両親と共に、明治神宮に正月の参拝に出かけました。たくさんの参拝客でごった返す中、玉砂利を踏みつつ大鳥居の下まで来ると、そこには傷痍軍人の一群が居り、もの悲しくもアコーディオンを演奏する中、センセの目の前に居た中年の女性がいきなり仰向けに倒れ、白目をむき、口からは泡を吹き、手足をぶるぶると痙攣させ始めました。てんかんです、、、。

・・・・・・・・・

あ~~~~~、もうこれ以上は書けない!

 

昭和30年代の思い出:総集編-4

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と言う訳で、状況の変化に従って人々の立ち居振る舞いも変化し、それに伴って当該の立ち居振る舞いに対する世間の評価も変化する、と言う当たり前のお話でありました。引き続きまして、昭和30年代の一般的な振る舞いではあるが、現在から見れば信じられない!と言うカンジのお話を、さらに継続して行きます。

2. 昔の日本人、シモの方はどうだった?

その2です 。この項では、専らシモネタをお話致しますので、もしも小学生のよゐこのみなさんがこれをご覧の最中でしたら、お父様お母様にご相談の上、継読のご判断をお願い致します。

昭和30年代の道路は、バスなどが通る大きな道は別として、家屋が密集する市街地の道は、未だ多くが舗装されていませんでした。で、小学生が通学の途中、或いは遊んでいる最中にオシッコをしたくなれば当然そのままタチションとなる訳で、誠に極普通の光景ではありました。で、小学生の場合は許されるかもしれませんけど、では大人の場合はどうであったか?大人も普通にタチションをしておりました。

道々には木製の電信柱が立っておりまして、犬類の連中がこれ目がけて片足を挙げるのは本能の成せる技かと思いますが、万物の霊長たる人間の大人の雄もまた、これ目がけて大いに開放感に浸る訳であります。で、この様な光景を目の当たりにしても、特に違和感はありませなんだ。

それどころか、万物の霊長たる人類の雌類もまた、しばしば道ばたでいたしておりました。この場合は流石にタチションとは言いませんし、少なくとも豪徳寺界隈においては道ばたと言う訳にはいかない様ではありましたが、お寺の境内、人様の家の庭先、公園の植え込み等々、それなりに人気の少ない場所で、しばしば見かけた光景ではありました。大人の雌でもこの有様ですから、未だ色気にはほど遠い女子小学生あたりでは、これは結構普通の行為でした。

小だけでは有りませぬ。大の方も結構有りました。

現在では犬のお散歩をするときは大の方の始末をするのがマナーだそうですが、昔はそんなやかましい事は有りません。そのまんまさせて、何のお咎めも無かった訳です。で、小学生の場合、夢中で遊んでおりますと、踏んだりします。で、「くっせ~」とか仲間に囃される訳ですが、時々踏んだものの上に紙が乗っている場合がある訳です、、、犬は後始末に紙は使わないので、、、この場合は、結構、心理的ダメージには大きいモノが有りました、、、。

現在の町では、この様な光景は全く無いとは言えないでしょうけど、殆ど消滅したかと思います。今では駅にもコンビニにもスーパーにもガソリンスタンドにもパチンコ屋にもトイレが備わっており、申し入れれば快く貸してくれるでしょう。仮にこれらの施設が無く、街灯の灯りがまぶしいところであっても、いざとなれば近くの民家に駆け寄って事情を話せば、それなりに始末が足せるかと思われます。けれども事実として、昭和30年代の一般的光景は、上で述べたようなものでありました。

お話変わって、赤ん坊への授乳の光景も特に珍しいものでは無かった様に思います。余り印象は残っていないのですけれど、友達の家に遊びに行った時に友人のお母さんが妹や弟に授乳させている光景に出くわすとか、或いは常磐線あたりの電車内で赤ん坊に授乳させているのを見たような記憶が残っています。当時は兄弟姉妹の数も現在よりは多いのが普通でしたので、そんな光景も当たり前の事ではありました。

さらにお話はエスカレートし、ピンクの領域へと入ります。

これははっきり言って、昔の方があからさま、現在の方がむっつりです。昭和30年代は今と違ってメディアとしてのネットが有りませんし、新聞ラジオテレビを介しての広告にはそれなりに規制が掛かっておりますので、映画会社の宣伝方法としては、いわゆる立て看板によるものが多く見られました。嵐勘十郎の「鞍馬天狗」とか「明治天皇と日露戦争」だとかの映画の立て看板広告が、道ばたの電柱に括り付けられているのが普通でした。で、当然、ピンク系のものも時々出現する訳です。

ピンク系のもの、当時は少なくとも上半身には規制が掛かって居らず、そのまんまでした。通学路にも堂々と掲げられておりましたので、当然当時の小学生の目にも大いに触れていた訳であります。で、「事の本質」を未だ知らない小学生ではありましたが、何となくクスクスと可笑しいものに感じてはおりましたので、これらは格好のいたずらの材料となるわけです。ま、これ以上は書きませんけど、、、。

山梨に石和(いさわ)温泉という温泉街がありますが、これは昭和36年に偶然に発見され、その後に温泉街となった比較的新しい観光地です。昔、石和温泉が出来たときのドキュメンタリーフィルムを見た事がありますが、新しい温泉が湧き出たというので、近在の老若男女がこぞって湯に浸かりに来ました。未だ単に地面にお湯を満たしただけの、家屋も囲いも何もないプールの様な場所に、裸になった老若男女が集団で混浴する様(さま)には、現在では相当に驚くものがあります。さらに、この様な光景をフィルムに撮しているカメラマンの行為に対して誰も抗議の意志を示さないと言う事実にも、驚きを感じます。「山梨だから」と言う訳でも無く、その当時はこの程度にはおおらかであったと言う事かな?とも思いますが、昭和36年と言う時代を考慮に入れても、流石に東京では無理な光景ではあったかも知れません、、、。

昭和30年代の思い出:総集編-3

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続きです。

センセが小学生の頃、世田谷の豪徳寺山門前に住んでいた事は以前にお話し致しました。現在の豪徳寺は大変立派な佇まいですが、往時のそれは今昔物語の「羅生門」にでも出てきそうな雰囲気であった事も述べました。で、当時の境内には古池があり、たくさんのヒキガエルや雷魚が居りました。現在でしたら、名刹の境内の古池にいらなくなった電気冷蔵庫や洗濯機、テレビセットなどの粗大ゴミを投げ入れて放置するなどしたら、それこそニュースで報道されて大騒ぎになるかと思いますが、当時の豪徳寺の古池には、古畳、タンスの類、下駄箱その他その他がまことに無造作に投げ捨てられて居りました。

いたずら盛りの子供にとって、古池に捨てられている古畳なぞは打って付けの冒険道具でして、ハックルベリーやトムソーヤと同じく、これらを筏(いかだ)代わりにして古池探検をする訳です。一歩間違えば、と言うカンジですけど、これが子供と言うモノです。

で、何が言いたいかと申しますと、確かに粗大ゴミのリサイクルシステムなどが無かった時代とは言え、古畳や古ダンスなど、いらなくなったとは言え、恐れ多くも徳川幕府の元大老が眠る菩提寺に知らんぷりして捨てるか、オイと言う事です。

当時の日本人などと言ってもそんなもんです。

当時の小学生達は、豪徳寺の境内で、専ら戦争ごっこをして遊びほうけていた事もお話しいたしました。真夏の盛りですと、一戦が終わると駄菓子屋に行き、お小遣いで一本5円のアイスキャンデーを買って来て境内で食べる訳です。キャンデーの棒には「アウト」とか「ホームラン」とか書いてありまして、ホームランであればもう一本ただでもらえますが、アウトだと外れですので、その場で棒を捨ててしまいます。キャンデーを包んでいた包み紙も当然その場でただ捨てます。せんべいやかりんとう、あめ玉などを買ってきても、それらの包み紙もその場で当然の様に捨てます。屑箱など有りませぬ。ただ自然に、良心の呵責もなく、当たり前のように捨てます。そんなもんです。でも当時の町中、そんなに汚い印象は有りませぬ。何故か?ここからが重要です。重要と言うほどのモノでも無いけど、、、。

まず当時は「クズ拾い」が居りました。センセが小学生の頃には既にあまり見かけなくなったのですが、それでもたまに居りました。背中に駕籠をしょって、長い竹の「トング」の様なもので捨てられた紙類を拾って行きました。それらの紙を「バタヤ部落」に持って行って一つにまとめ、古紙再生業者に売るためです。バタヤとは、今で言うところの廃品回収業者の事です。何故バタヤと言うのかは知りませぬ。豪徳寺の近くにも、玉電の宮の坂駅の向こう側にバタヤ部落があり、そこからバタヤのおじさんやおばさんがリヤカーを引いて各家庭をまわって居りました。「くずや~、おはらいっ!」とか言ってね!記憶では、古新聞や古瓶、空き缶などをバタヤさんに出す時、わずかですけどお金を貰っていたと思います。これがそのうち時代が経つにつれ「皆様毎度おなじみのちり紙交換でございます。」に変わり、小銭の代わりにチリ紙を渡す形式となり、今ではそれも無くなって、自治体が主体となって有料、或いは無料で(つまり税金で)、回収する形式に変化していった訳です。

昔のチリ紙、今のトイレットペーパーやティッシュペーパーとはずいぶん違ったものでした。現在のトイレットペーパーやティッシュペーパーにも古紙再生品がありますが、昔のものに比べると大変きれいです。値段が高いものは純粋にパルプから作りますので、きれいな上にお肌にも大変優しくなっておりますが、昔の「チリ紙」となりますと、古新聞や古雑誌を漂白もせずにそのまま再生しますので、色は灰色で、赤や青に色が付いた部分も点在し、「肌触り」ももの凄く、ナカナカのものでは有りました。知らない間におしりの粘膜もずいぶん鍛えられたかと思います。センセが小学校三年生ぐらいの時に初めてクリネックスティッシュが出てきましたが、最初はこれを使い捨てにするのが酷く罰当たりな気がして、恐れ多くてナカナカ使えませなんだ、、、。きったない話ですが、最初に水洗トイレになったときも、いちいち水を流すのがバチアタリな気がして、何回か溜めた後に流す、と言う事を個人的にしておりました。センセの後から入ってきたヒトは大変だったかと思いますが、、、。

ええっと、さてと、、、。

みんなが紙とかそのまま捨てていてもナンかそんなに汚いカンジがしなかった理由の一つに、プラスチックの普及がまだまだ低かった事が挙げられると思います。これは結構重要な点です。

センセの個人的感覚として、町のゴミが目にも鬱陶しくなり始めたのは、丁度1980年になる頃からです。昭和も50年代半ば以降ですね。丁度その頃、コンビニと自動販売機が町中に溢れる様になりました。コンビニや大型スーパーが出現する以前は、魚野菜その他、買い物に出かける場合は必ず「買い物かご」を肘に掛け、出かけるのが常でした。サザエさんの「あれ」ですね!ところが丁度80年に差し掛かる頃から例のビニールのレジ袋が登場し、買い物をすれば無料でこれに入れてくれる様になりましたので、これは便利と言えば大変便利になりました。便利にはなりましたが、小間物一品買ってもこれに入れてくれますので、ある意味かえって邪魔になる場合もしばしばです。で、邪魔なレジ袋をそのまま道に捨てます。昔でしたら道路も舗装されて居らず、捨てられる袋も紙袋でしたので、雨が降ればそのまま流れ、ぼろぼろとなり、最終的には土に帰って殆ど目立たなくなります。けれども80年代ともなりますと、舗装も行き届き、歩道も完備され、植え込みなども整えられまして、見た目も昔に比べてずいぶんきれいになっている訳です。そういうところに白いプラスチックの袋が捨てられるわけですから、これはいつまで経っても土に帰ることもなく、きれいな緑の植え込みとは大きなコントラストとなりますので、否応なく不愉快なモノとして目立つ様になる訳です。

同じように、町中に溢れた自動販売機からは飲み干された空き缶が道に溢れ、さらにはこの時分には車の普及率も大幅に増えたため、車内で飲食されたものがレジ袋に入れられて道ばたに放置される、と言う状況も増加した訳です。即ち、日本人の本質~行動パターンは殆ど変化して居ないのだけれども、取り巻く状況が変化したために、以前と比べて町が汚くなった様に感じられているのかと思います。そして、その悪化した印象の原因について、「現在の日本人のマナーが昔に比べて悪くなったためである」と言う風に、単純に考えているのかと思います。けれども昔の事を考えますと、これには裏付けが無く、どちらかと言えば寧ろ逆であったような気がします。

ここら辺の事情は、携帯の登場から現在のスマホに至るまでの変化で説明すると分かりやすいかと思います。

携帯電話が初めて登場し、世に普及し始めた頃、大体今から十数年前の頃ですが、当時は携帯電話も文字通り電話機能しか付いて居ないので、電車内で使用する場合は、皆、会話口に耳と口を押し当てて、実際に声を出して会話する事となります。会話だけならまだしも、相手側から連絡が入ればチリリリリンやらピンポンやらチャンチャラチャンやら様々な受信音が車内で鳴り響きますので、当然、携帯の普及前とは異なって車内はうるさくなり、社会問題となったのは皆様もよくよくご記憶の事であります。当時も「若者のマナー云々」が問題視された訳ですが、程なく、会話では無くてメールによる通信に切り替わり、電車内での携帯による文字通りの会話は、現在では殆ど過去の物となっております。けれども今度は若者がいつでもどこでも携帯片手にピコピコメール送信をし始めたものですから、これを見て、「今時の若者は携帯の画面を見ながらピコピコしとる!けしからん!」と言うお話となる訳です。センセはもはや若者とは言い難い年齢ですが、それでも若者を代表して言いたいのですけど、「ど~すりゃエエネン!!!」と言うカンジでしょうか、、、。で、今度はスマホが出てきましたので、ピコピコの代わりに、何と言ったら良いんだろ、スイッチョスイッチョとか、ヒョイッヒョイッっとか言う感じで、画面を操作して居る訳です。「今時の若者は画面をスイッチョスイッチョしとる!実にけしからん!わしらが若い頃は、画面をピコピコしていたもんじゃ!」等と嘆く年配者がそのうち増えるかも知れませんのう、皆の衆、、、。

昭和30年代の思い出:総集編-2

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これから述べていくお話の中で、いくつか、事によると「差別的」と見なされる言葉が出てくるかと思います。もちろん、センセが差別的感情をもって、それらの言葉を使う訳ではありません。加えて実際にこれらの言葉が差別的であるかどうか、それも定かではありません。いずれにしましても、それらの言葉は実際に昭和30年代に使われていた言葉ですし、無理に転換すると酷くおかしな言葉に成り、加えて当時をありのままに記述すると言う趣旨から外れますので、そのまま使用致します。また、飽くまでセンセが幼少期に見聞してきた事柄に基づいている訳ですから、見聞の幅と程度が限られている事も明らかです。けれども、時代の変化というものはヒトが成長するにつれて忘れてしまいがちなものですし、加えて、それらの変化そのものが日常的な些細な事柄であればあるほど、記録にも残らずに忘却の彼方へと飛び去ってしまうだけでなく、全く事実と異なるお話が意図的に流布される恐れ無きにしもあらずですので、やはりこの様な作業は必要であると感じます。以下、いくつかのテーマに絞ってお話して行きますね!題して昔の日本人のマナーは良かったが、今はひどい?です。

1. 昔はゴミを捨てなかった?

飽くまでも昭和30年代と比較したお話です。江戸時代がどうであったか、それは知りませぬ。まず、日経新聞のコラムでも述べられていた、汽車~電車内のゴミについてお話しいたします。

昔の電車は、国鉄の車両はみんなえび茶色。窓は開閉式。外板はリベット打ち。床は木製で油が引いてあって、通路の真ん中には真鍮製の棒が一本あって、電車が大きく揺れた時にはこれにつかまって倒れないようにする。ラッシュアワーの時、この棒の近くに立っていると体が棒にギューギュー押されて中身が出そうになる。だからそのうち無くなった。でもこのタイプの車両は段々減っていき、最後は南武線と常磐線に払い下げとなる。

一応扇風機がある。夏のラッシュ時には、扇風機の風が一巡して自分の方向に向かってくるのが唯一の楽しみ。でも小柄な中学生としては、大人に遮られて、扇風機の恩恵も余り無かった、、、。座席は、山手線や中央線などは今と同じで進行方向に一列のベンチ式だが、ローカル線は、これも今と同じで、進行方向に直角~対向に設けられたベンチ式。

で、当時の日本人の最大の贅沢が、たまの長い休暇が取れれば家族うち揃い、列車に揺られて温泉旅館に泊まりに行くこと。東京だったら熱海とか、最大に奮発して長野あたり。これらの近場だと、特急には乗らずにせいぜい急行、多くは鈍急各駅停車でのんびり揺られていくことになる。当然時間も掛かるが、「長く時間を掛けてゴットンゴットンと観光地まで揺られて行く」と言う事自体が、将に「旅」の楽しみであった訳だ。今で言うところのキオスクなどは無く、駅弁売りが首から提げた箱に駅弁を入れて「峠の釜飯弁当~~!」等と駅のホームで売り歩く。真鍮製のフックをひねって窓を押し上げ、駅弁とお茶を買う。センセが小学生頃に、お茶がビニール製の容器に入れられて売られ始めた。それ以前にどのような形態でお茶が売られていたか、ちょいと記憶に有りませぬ。

駅弁とお茶以外に、どういう訳か知らないけど、必ず「凍ったみかん」が売られていた。この「凍ったみかん」、普通の店では余り見かけず、どういう訳か駅弁と一緒に売られていた。それも赤いビニールの網のなかで、まるごと凍ったまま売られていた。何故駅弁と「凍ったミカン」なのか、今でも謎のままである。で、初め頃は物珍しさもあって、駅弁を買うときには必ず凍ったミカンも買っていた。でも、あんまし美味しいモノでは無い事が判明したので、程なくこれは買わなくなった。みんなも同じ気持ちであった様で、程なく「凍ったミカン」は見かけなくなった、、、。で、列車は駅を出立し、ゴットンゴットン揺られながら、皆で駅弁を食べ、お茶を飲む。で、目的地に到着して列車を離れる。で、駅弁の空き殻はと言うと、紐で結わえ直して座席の下に放置してそのまま、、、。

それどころでは有りませぬ。当時はローカル線の場合は全席喫煙可能だったので、大人は酒を飲みながら煙草ぷかぷかふかし放題。当時はカップ酒は無かったので、一升瓶の形を小さくした様な一合瓶に入った酒が売られていた。一方、子供はジュースを飲む。瓶に入ったバヤリースを駅弁売りが栓抜きで開けてくれたのを飲む。或いは、缶ジュースを飲む。ジュースの缶に付いている缶切りで缶に穴を開け、そこから飲む。穴は必ず二個開ける。これらの酒瓶、バヤリース、缶ジュースの缶も、当然の如く、座席の下に放置する。列車が動き出すと、これらの酒瓶が列車内をゴロゴロ転がり出すのも、旅の風情と言うところ、、、。

昭和30年代の思い出:総集編-1

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皆様コンニチワ!ご機嫌いかがでしょうか。本日は平成25年12月30日。いよいよ今年も大晦日を残すだけとなりました。本当に月日の経つのが早いですね!

皆様のこの一年は如何でしたか?良い一年だったでしょうか?センセの場合、アベノミクスのお陰で大変良い一年となりました!「アベちゃんにクロちゃん、ホントにアリガト!この調子で来年もがんばってね!」と、エールを贈ろうと思います。

さて、クリスマス休暇も終わり、来年に向けて再び欧米のファンド勢が東京市場に参入を開始しておりますが、為替も株も目の前で年初来の高値を更新しております。こうなりますと、ちょいとした切っ掛けでドカンと利食い売りが発生しますので、ここから追っていくのはナカナカ勇気がいります。けれども本日は大納会。大引けに掛けてさらに一段高となる可能性大ありです。さてどうします?

・・・・・いきなり相場の話で恐縮です。本論に戻りますね!

タイトルにもあります通り、本日は「昭和30年代の思い出」についてお話致します。

この話題について書こうと思い立った切っ掛けは、本日の日経新聞のコラムで、「昔は良かった、と言う話がしばしば口に上るが、昔の方がひどかったぞ!」と言う趣旨の話が述べられていたからです。これはセンセもしょっちゅう感じていた事で、つい先日、弊社喜源バイオジェニックス研究所のセレブのヒト達wが研究所見学に来たときにもこれが話題となりました。研究所の近くの戸倉上山田温泉で温泉に浸かり、美味しい料理などをつつきながらの中で出てきた話題です。

今回は「昔の日本は、本当のところはどうだったのか?どのような流れを経て今日の様な姿になったのか?」と言う事をテーマにして、センセが実際に見聞きしてきた事柄を元に、書いていこうと思います。

最近はネット上に氾濫する情報がもの凄く、量、範囲、速度、どれをとっても旧来の媒体は太刀打ちできないかと思います。加えて、従来の、いわゆるマスメディアによる情報は、ある種特定のイデオロギーに基づいた篩(ふるい=メッシュ)が掛けられておりますので、新聞でしたら、いくつかのものを同時に読んで初めておおよそ中立の情報が得られると言うカンジですし(センセの場合も新聞は二紙とっております)、さらには、表だった情報には必ず裏話がありますので、これを知るためには各種の週刊誌などを読む必要が出てきます。ネットですと、これらを一網に出来ますので、圧倒的に有利です。

圧倒的に有利なネット上の情報ですが、もちろん欠点もいくつかあります。最大の欠点は、情報を発信する側の多くが匿名(anonymous)なので、責任が無く、深く考えることもなく、自らの一時の感情の垂れ流しに過ぎない場合が相当に多い事です。最近では北東アジアの近隣諸国との関係が非常にこじれておりますので、三者入り乱れてネット上では大変な中傷合戦が繰り広げられております。第三者的にこれをサーフしておりますとめちゃくちゃ面白く、センセの場合も腹を抱えて「ブッハハハハ!」と爆笑しておるのですが、これら三カ国のネットの連中の少なからぬ部分が、「自分達には100%瑕疵(かし)が無い!相手が100%悪い!」と言う類の主張をし、これらが三者共に巴の如く入り乱れて互いに噛みつき合っておる訳です。日本に関して言えば、最近は「クールジャパン」が世界的に流行して居りますので、昔を知らない若い連中が、当の日本について、ひどく誤った印象をもってネット上で議論している点が大変に気がかりです。どう考えても、「自分達には100%瑕疵(かし)が無い!」などと言う事は「100%あり得ない!」ので、先の日経新聞のコラムを切っ掛けとし、「昔の日本は、本当のところはどのようなカンジだったのか?」と言う点に注目して、昭和30年代を振り返ってみたいと思います。

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