日々のお話: 2018年8月アーカイブ

お悔やみ申し上げます。

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アレサ・フランクリンが死にました。
76 歳。
すい臓ガンだそうです。

昭和40 年代:時代と音楽-12」でもご紹介しましたが、アレサ・フランクリンと言えばまさにソウルの女王
1960 年代のヒット曲としては、小さな願い:I Say a Little Prayer」、「Respect」、「Baby I Love You」、「Chain of Fools」、「Think」、「A Natural Woman」などが有名どころです。
1970 年代では、「Spanish Harlem」、「Until You Come Back to Me」などがヒット!

たぶんその後もいくつかヒット曲を出していると思いますが、オトナになったセンセがラジオを聴かなくなったので、分かりませぬ・・・。
けれどもグラミー賞を18 回も取ったり、女性で初めてロックの殿堂入りしたりなど、相変わらずの活躍は耳にしておりました。
さらには黒人女性として初めてTIME 誌の表紙を飾るなど、アメリカ文化を代表する一人であったのは間違いありません。

オーティス・レディングもジェームス・ブラウンもアイザック・ヘイズもマイケル・ジャクソンもプリンスもBB キングもウイルソン・ピケットもマーヴィン・ゲイも、みい~~~んな居なくなってしまいました。

そして昨日アレサ・フランクリンが仲間に加わりました・・・。

お悔やみを申し上げます・・・。


今月の書評-33

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縄文時代の人口は、発掘される時代時代の住居跡の数に仮定の居住人数を掛けて見積もられます。
最盛期には日本全国で26 万人にも達したと考えられる縄文人口ですが、縄文後期(3300 年前)になると減り始め、晩期(2900 年前)では7 万5000 人程度にまで減少してしまいます。いったい何があったのでしょうか?

● 縄文後期、なんで急激に人口が減少した?
特に長野を中心とする中部地方で、極端な人口減少が生じました。

大局的には、気候変動による植生の変化で説明されています。
環境考古学者の安田喜憲氏によれば、4000 年くらい前に温暖な時代は終了し、さらに3000 年前になると寒冷~乾燥した時代に突入した、とのことです。
実際、三内丸山遺跡から得られる花粉情報(鼻炎とは関係ありませぬ)によれば、あれだけ豊富だったクリの花粉が一気に影を潜め、代わってトチノキの花粉が増えてきます。同時期に海水面も大きく下降しているので、この当時、寒冷~乾燥化が進んだのは確かなようです。

興味深い点は、常識的には寒冷化が最も影響すると考えられる東北地方の人口はあまり減らず、中部地方、特に長野県で激しく減少している点です。
長野の諏訪~伊那谷~八ヶ岳山麓辺りは縄文中期には日本有数の人口稠密地帯であったにもかかわらず、後期から晩期にかけてゴーストタウン化してしまいます。縄文後期、関東もまた人口を減らしますが、どういうわけか貝塚の数は増加し、貝塚の規模も拡大するという摩訶不思議な現象が生じます。さらに、これまで人口が希薄だった西日本では、後期から晩期にかけて、逆に人口が増加に転じます。

但し、西日本の人口増加の程度は大きなものではありません。従いまして、日本列島の総人口は激減することとなります。

これらのことをどのように見ていけば良いのでしょうか?

まず、三内丸山の花粉情報から、クリへの依存が断ち切られたことは明らかです。クリ花粉に代わって登場するトチの実ですが、普通のドングリとは異なり、アク抜きの際に木灰(アルカリ)による処理を必要とするなど、デンプン採取に手間がかかるそうです。その結果、この時代になってようやくトチの実の利用が可能となったと考えられています。必要は発明の母ということで、生き抜くために一所懸命工夫をこらした結果なのかも知れません。

そうなりますと、東北のトチのアク抜き技術が長野に伝わらなかったのでしょうか?いやいや、縄文の情報伝達を考えると、それは考えられないでしょう。

また、落葉広葉樹の中でも比較的暖かな環境を好むと言われるクリですが、寒冷化が進んだと言っても再び氷河期に逆戻りしたわけではないのですから、普通に考えればクリの至適生息域が青森から南下するだけ、とも言えます。

一つの考え方として、クリがクローン化していた、というのも面白い仮説だと思います。仮に三内丸山の栗林が接ぎ木によって作られたものだとしたら、大いに可能性があります。
環境が適する場合、クローン生物はあっという間に生息数を拡大しますが、わずかな環境の変化でこれまたあっという間に数を減らしてしまいます。1000 年も続いた東北の栗林ですが、直接的には病害虫が関連しているのでしょう。けれどもそのような病害虫によって一気呵成に絶滅がもたらされたとするならば、その事実そのものが、三内丸山のクリの遺伝的多様性の喪失を示唆するものです。このような出来事は人類の歴史の中で良く起きることで、19 世紀のアイルランドで生じたジャガイモ飢饉が有名ですね。

日本人の好きなソメイヨシノも、ことによると、ちょっとした環境の変化で一気にやられてしまう可能性、無きにしも非ずです。

でも東北の縄文人口はあまり減らずになぜ長野で激減したのか、これだけでは説明がつきません。
晩期になると大陸から系統の異なる人々(弥生系など)の流入があったから、彼らを通じて縄文人が未だ免疫を持たない疫病が伝わった、という説もありますが、それならば西日本で逆に人口が増加した現象の説明がつきません。弥生系の人々、北九州から広がりますので・・・。

三内丸山は別として、東北は広い地域に比較的分散して住んでいたので食料圧が高まってもナントカ耐えることができたけれど、長野は諏訪~伊那~八ヶ岳山麓など、比較的狭い地域に当時最高の人口が密集していたので、圧がもろにかかってしまった。加えて飢饉に疫病はつきものですので、それで一気にやられてしまった。疫病の種類は分かりませんが、それほど伝染性が強いものではなかったので、東北地方に至ることはなかった。・・・などと考えてみてはいかがでしょうか・・・。
クリやジャガイモと同じく、ハプロタイプからみても遺伝的多様性に富んでいたとは思えない縄文人ですし、土偶や石棒、イノシシ祭りなどを見ても出産率の低下に悩んでいたと考えられますので、現代から見ればつまらない伝染病でも、彼らを壊滅させるのには十分な力を持っていたのかも知れません。

また、長野で人口崩壊が始まっている最中に、なぜ関東では貝塚数が最大化し、規模も大きくなったのか?

恐らくは、長野からの難民が流入し、一時的に人口が増加したのではないのでしょうか?加えて海面が下降してしまいましたので、良い漁場も失われていった。そうなりますと海に対する単位面積当たりの収奪圧力はかえって高まりますので、貝塚の数も規模も逆に増加する。けれどもそれは長続きしないので、最終的に関東地方の人口も激減した・・・。

要するに、縄文バブルが弾けた!ということです。

面白いことに、東北地方ではこれ以降、亀ヶ岡文化という縄文の最後を飾る高度な文化が花開きます。火星人説で有名な「遮光器土偶」が代表ですが、その他にも酒器や漆細工など、独特の魅力に富んだ遺物が多く出土するようになります。
クリが失われても知恵と工夫でナントかバブルの崩壊を乗り切った東北ですが、このような亀ヶ岡文化は東日本の縄文難民と共に列島を南下し、果ては沖縄にまで到達することとなります(今月の書評-31)。

遮光器土偶.jpg
遮光器土偶 ウイキペディアより 


そしてまさにそのような頃、海の彼方から新たな文化を持つ人々がやってきました。弥生人の到来です!


今月の書評-32

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続きです。

アク抜きを施せばドングリは食べられることが分かった縄文人は、
温暖化によって落葉広葉樹林が広がって
クヌギやナラのドングリが豊富に採れるようになった中部地方に定住した。
けれどもそこには一つ、問題があった。それは、
「海が無いので塩分が摂れない!」
ということであった。
一方で、関東に移住した連中は、縄文海進によって豊かな海の幸に恵まれた。
けれどもそこには一つ、問題があった。それは、
「漁具を作り出す道具が無い!」
ということであった。
そこで長野の連中は考えた。それは、
「和田峠で産出する黒曜石を関東の連中のところまで持っていき、
塩や魚、貝の干物と交換したらいいんじゃね?」
ということであった。
というカンジで、ここに両者 winwin の関係が出来上がった!


ここから先は簡単ですね!明確な物流システムが一旦出来上がれば、あとはそれを拡大していけばよいだけですから。
その後、糸魚川の河口域で取れるヒスイ、東北地方で取れるアスファルト、和田峠や神津島で取れる黒曜石、関東の魚介類、さらには沖縄や奄美大島産のコウヤガイ、北海道からもたらされる種々の産物などなど、日本全国を網の目のように結ぶネットワークが完成しました。このような経緯を経て、東日本が縄文中期の消費と物流の中心となったわけです!妄想だけど・・・。

ここで、あの有名な三内丸山遺跡が登場します。縄文前期から中期にかけて栄えました。今からおよそ5000 年くらい前です。
数百人規模で住んでいたと考えられている大規模な集落ですが、これを支えていたものが、クリですクリ!クリックリックリ!!!

クリ.jpg
庭木図鑑 植木ペディアよりhttps://www.uekipedia.jp/


鈴木三男氏のブログによれば、まさに三内丸山の縄文人は栗林の中で生活していたも同然だそうです。遺跡の土壌から得られた花粉の分析を行ったところ、縄文前期時代はミズナラやコナラなどのドングリを主に食べていたようですが、前期の後期(ややこしい!)から中期の全盛期には、見つかる花粉という花粉はクリばかり!およそ9 割もの花粉がクリのもので、ここから推定して「三内丸山の縄文人は栗林の中に住んでいた!」と結論づけています。

当然ながら、これらの栗林は人工林です。
また、接ぎ木の手法を用いて増やしていた可能性も指摘されています。
さらに、これらの栗林は1000 年以上も存在し続けたそうですから、何らかの形で肥料などを与えて懇(ねんごろ)に手入れをしていたと考えられます。
こうなりますと、もはや「農」と言っても過言ではない、と思います。

農!と言える縄文!」・・・。

食用としてだけでなく、建材としても用いられました。三内丸山と言えばあの有名な大型掘立柱建物がすぐに念頭に浮かびますが、あれは直径1 m にもなるクリの柱6 本をおったてて作ったものです。あれを中心にして盆踊りでも踊ったのでしょうかね?とにかくすごいものです。

三内丸山遺跡が縄文の最盛期を代表するものであることは、論を待たないところです。一説によれば、500 人くらいは住んでいたんじゃないの?とのことです。

三内丸山遺跡に限らず、縄文時代にはすでにヒョウタンやエゴマ、熱帯ジャポニカの稲、その他ヒエや大豆などが栽培されていたことが明らかとなっています。
関東や中部、東北の太平洋岸や北海道東岸などでは広大なクロボク土(火入れの跡。今月の書評-2)が見られますし、土器の作製のために燃料用の樹木の伐採なども行っていたでしょうから、縄文人は単純に自然と共存していたというよりも、自然に手を加え、すでにある程度の収奪を行っていた人たち、という見方もできるかと思います。




今月の書評-31

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さて、縄文時代の最大の謎、

その一:なんで圧倒的に東日本が栄えた?
その二:なんで衰退した?

について最後にひたすら妄想しまくって、そろそろ縄文から離れたいと思います。

● 縄文時代、なんで圧倒的に東日本が栄えた?
何も最初から東日本優位だったわけじゃないようです。

縄文時代というと関東平野の奥地まで海が入り込んだ「縄文海進(じょうもんかいしん)」などを思い浮かべてひたすら温かかったように思いがちですが、縄文草創期(およそ1万2000年くらい前)においてはまだまだ寒く、海水面も現在より20 m近くも低くて、植生も亜寒帯に生えるような針葉樹林が主体でした。気温の上昇につれて植生も温帯化し、落葉広葉樹林に置き換わっていくわけですが、その場合は必然的に南の方から暖かくなっていくはずです。日本列島の場合は南九州から、ということです。

で、その時代にはすでに北海道にはアイヌ人のご先祖さまたちが居ましたし、日本最古の縄文土器(1万6500年前)は青森県から出土しているので、「日本列島の縄文文化の発祥の地は何処なのか?」という問題に対する答えは未解決です(というより、言葉の定義の問題かもしれませんが・・・)。また、より新しい時代の縄文土器は、「今月の書評-14」でも書いたように、主として堅果類のアク抜き用に用いた可能性がありますが、草創期の青森や北海道ではまだまだアク抜き技術はなかったと思われますので、単純になんらかの食材の「煮炊き」用に用いられたと思われます。実際に、土器の内側からサケなどの魚を煮炊きした時に付着したと思われる脂肪酸が検出されています。

一方で、近年、南九州の1万2000年くらい前の地層から、多くの縄文遺跡が発掘されました。これらの遺跡からは、多くの土器や石器と共に、数千年後に東日本で出土するようになる土偶や耳飾りが多数出土しました。また、特徴的な点として、丸木舟を作る用途で用いられたと考えられる丸ノミ型石斧、堅果類調理用の石器用具、さらには多量の炭化したドングリまで出土しました。この丸ノミ型石斧は南九州のみならず、種子島や奄美大島、さらには沖縄本島からも出土しているので、これら南九州の草創期縄文人は南方から丸木舟に乗って北上し、沖縄を経て南九州に定着した可能性もありますが、朝鮮半島~中国大陸由来であると考えられる細石刃が多く出土していることから、朝鮮半島南部由来である可能性もあります。北九州からも縄文草創期の遺跡が発見されていますので、朝鮮から北九州、そして南九州からさらに南下した結果、島々に丸ノミ型石斧が残された可能性の方が高いと思います。加えて沖縄県の縄文遺跡からは南九州に先立つ時期の土偶が出土されないので、この点からも、南下説に軍配が挙がると思います(ちなみに、2017年に沖縄から縄文晩期の東北の亀ヶ岡式土偶が発掘されました。これは沖縄の縄文文化南下説を補強する発見です)。

出土したドングリは照葉樹に属するシイやカシのものではなく、落葉広葉樹のコナラのドングリですので、当時の南九州は現在よりも冷涼な落葉樹林帯に属していたことが分かります。彼らがドングリのアク抜き技術を持っていたかどうか、遺物からでは確実な所は分かりませんが、個人的には持っていたと考えています。

なぜか。

「だって渋くて食べられないじゃん!」

・・・当たり前の発想です・・・。


その後、縄文早期(およそ9000 年前)になるとさらに大規模な集落跡が南九州で発見されますが、これらの集落は「今月の書評-20」でご紹介した「喜界カルデラの大噴火」で壊滅してしまいます・・・。ナムナム・・・。

で、小田静夫氏の「遥かなる海上の道」(青春出版社)に興味深いことが書かれています。それは、喜界カルデラの大噴火後の縄文早期の終末期ごろ、関東~中部にかけて東海系の縄文土器が多く搬入されると同時に、伊豆諸島では関西系の土器が多数発見される、とのことです。

ここから導けるストーリーは、以下のようなものです。


南九州は壊滅したが、辺縁の縄文人はかろうじて生き残った。
地元では生きていけないので、一部は朝鮮半島に、
一部は関西から関東~中部地方に移住した。
同時に日本列島の気候がどんどん温暖化していった。
温暖化しすぎて、西南日本では照葉樹林帯になってしまった。
照葉樹林帯のシイやカシのドングリでは腹いっぱい食べられない。
中部以北の落葉樹地域ではたくさんのドングリが実っている!
加えてクリやクルミのようなアク抜きしなくても良いものが採れる!
関東では「縄文海進」が進んで魚介類が豊富に採れる!
で、もともとそこに住んでいた縄文人らと大いに交わった。
同時に、
南九州から伝わったドングリのアク抜き技法や土偶、
耳飾りなども教えてあげた。


その後の展開は次号で!


今月の書評-30

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みなさまこんにちは!研究所も今日から夏休みです! ルンルン♪ ♪ ♪ 
しかも本日は涼しい!この調子で一週間もってくれれば良いのですが・・・。

で、先日NHKのニュースでやってましたが、鳥取の弥生時代の遺跡から出土した40体の人骨を用いてDNA 分析を行うとのこと!
実は弥生時代の人骨って、縄文人に比べて出土率が低いらしいです。ましてやDNA 分析できるほどに状態の良いものはほとんどないとのことですので、大いに期待できます。

また、鳥取ですから、古代の出雲とも深く関連しているのではないでしょうか?

知ってるヒトは知ってるでしょうが、出雲地方って、東北地方と何らかの関連があると考えられている場所なのですよね!
両者とも言葉にズーズー弁が残っているし、斎藤成也氏の「核DNAでたどる日本人の源流」によれば、現代の出雲の人々の核DNA パターンと東北地方の人々のそれとはよく似ているとのことです。出雲地方はむしろ朝鮮半島に近いわけですし、歴史的にも何かと大陸との関係が指摘されていますので、DNA も朝鮮の人々により近いだろうと考えがちですが、ナカナカどっこいそうはいかない!
また、この先、今月の書評シリーズでは日本語の起源にも触れていく予定ですが、その際、「日本人とは?」を考えていく上で、DNA パターンとズーズー弁という言葉の特徴とがセットになっているという事実は誠に重要な点なのです!

斎藤氏の分析はあくまで現代人を用いたものですから弥生時代以降のノイズがたくさん混入しているわけですが、今回、直接的に弥生人骨を用いた分析結果が出れば、これは日本人形成における重要な転回の時代を直接的に反映することとなりますので、今からすんごくワクワクしています!
単に縄文系のDNA の有無だけじゃなく、朝鮮半島や長江文明、あるいは遼河文明や黄河文明を作り出した人々の影響すら検知できれば、ことによると、教科書を大きく塗り替える結果となるかもしれません。

さらに言えば、出雲って、ヤマタノオロチやスサノオノミコト、さらにはオオクニヌシノミコトなどの神話の宝庫ですので、ことによると、これらの神話を何らかの形で裏付けるような、そんな結果すら期待してしまいます。



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