日々のお話 の最近の記事

今月の書評-47

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さて、日本列島最古の水田跡が、佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡。紀元前930 年頃のものと言われています。今からおよそ3000 年前のものですね!
その次に古い水田跡は、あの有名な博多の板付(いたづけ)遺跡から出土。ここからは水田跡以外にも、環濠集落や甕棺、青銅の矛と剣など、弥生時代を彩るものが数多く出土しています。菜畑遺跡も板付遺跡も、当然ながら、北九州です。

菜畑遺跡.jpg
菜畑遺跡 Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1


で、いきなりの水田談義で始まった今回のブログですが、弥生時代開始の合図が「水田耕作の開始」と定義されますので、やはりここから始めなくてはなりません。
で、「今月の書評-32」でも指摘しましたように、すでに縄文時代においても「農耕」は存在していたわけで、しかも、米作りすら行われていたのも確実視されています。

Q:じゃ、縄文時代の米作りをもってして弥生時代の始まりだ!
   とは言えないのはなぜか。
A:それは、縄文時代の米作りは水田耕作によるものではなく、
   陸稲(りくとう=おかぼ)によるものだからです。

Q:じゃなぜ、水田耕作をもってして弥生時代の定義とするのか?
A:それは、水田耕作による稲の栽培法というものが縄文式陸稲栽培とは
   大きく異なるものであり、それが北九州に現れたことから、
   縄文文化とは全く異なる文化を有する連中が、
   半島を介して、
   この時期に日本列島に出現したことを意味するものだからです。

事実、水田耕作に伴う様々な付帯物(土器、石器、その他)もまた従来の縄文式とは全く異なるものであり、さらに、出土する人骨の形質~DNA の特徴もまた、縄文人とは大きく異なります。
そして、これらの新しい文化をもたらした連中は大陸由来であり、その後に日本列島を席巻した結果、現在の日本人が出来上がったというのが結論です。

で、なぜ分かり切ったようなことを今更ながらにクドクドと述べているのかと言えば、「現代日本人は縄文人が直接に進化して生じたものであり、我々が話す日本語は縄文語が進化したものであり、稲作は日本で発明されて朝鮮半島に伝えたものであり・・・・・。」とか言う連中が、数は少ないとはいえ、未だにいるからです。
あるいは逆に、戦前の国家史観の反動からでしょうか、朝鮮半島における古代日本の影響力を全く無視するような見解も見られます。

弥生時代を調べ始めると、必然的に朝鮮半島との関連が非常に重要であることに気づきます。その時、現代の国家~民族~国境を念頭においてイメージすると、大きく道を誤ることとなります。ましてや政治的~思想的~感情論的な視点からの解釈の結果、事実が捻じ曲げられる可能性すらありますので、センセも大いに気を付けたいものだと思います。

今回はこれまでっ!



やったね!大坂!!ナンバーワン!!!

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ネイオ~~ミ・大坂!!!

全豪勝った!!!
世界ランクNO.1!!!



あ~~~、もういいわ。
ゆっくり眠れるわ。
少なくとも来週一週間、ウキウキしながら過ごせるわ・・・。


オイオイ、事によると、マルチナとかグラフとかセリーナとかに続く、
女子テニス界のスーパースターになるんじゃないのか????
期待してるぞ、ネイオーミ!!!


おじいちゃんもさぞかし喜んでいることであろう!!!





今月の書評-46

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おとそ気分もすっかり抜け落ち、週明けからは今年一年に向けてフル稼働すべく、やる気満々のセンセです。

で、アイヌ語=縄文語ではなく、アイヌ人=縄文人ではない!と強調してきたセンセですが、では、どんなものでもよいけど、縄文語って、ちょっとでもいいから、今の言葉に残ってないの?
と色々考えてみましたところ、一つひらめいた!


「エミシ」って、事によると、縄文語なのでは?


以下、エミシは縄文語だ!というセンセの妄想を開陳したいと思います。

弥生時代の始まりを水田稲作の開始から、と定義すると、およそ紀元前1000 年くらい前にさかのぼります。北九州のお話です。
列島の他の地域は、未だ縄文時代。
例の、亀ヶ岡文化の時代です。
ここから水田稲作を特徴とする弥生文化は九州においては南進を、他の列島においては東進~北進していくわけですが、西南日本においては縄文人の人口は希薄でしたので、若狭湾から伊勢湾を結ぶ線までは比較的速やか(それでも300 年くらいかかった)に弥生文化は浸透して行きました。
けれども、ここでしばらく足踏みします。なぜか。

東日本にはいまだ多くの縄文人が住んでいたから。

遠賀川式と亀ヶ岡式-2.jpg

けれどもじりじりと東進~北進を続け、前300 ~400 年ころには青森にまで到達します。
その後、稲作文化は東北三県から一旦消滅し、北海道からアイヌ人が南下してきてペツだのナイだの色々残していきますが、アイヌ人の南下もここまで。
山形~宮城以南から中部~関東にかけては、弥生人と縄文人が点在~混合した状況が数百年続くこととなります。

と、いうことはですよ?当然のことではありますが、弥生人が最初にencounter した異文化~異人種の連中はアイヌ人ではなく縄文人であったわけです。
当ったり前ですが。

で、その後には近畿に大和政権が生じて列島全体の行政権の一体化を進めていくこととなりますが、当然、近畿以東の特殊性は十分に認識されておりました。すなわち、そこの住人は「我々」とはちょと(あるいは相当)違う、という認識で、これを「エミシ」と呼ぶこととなります。

で、エミシという言葉の文献における初見は、日本書紀、神武記の「愛瀰詩」という単語ですが、いわゆる「万葉仮名」で書かれてます。これが程なく「毛人」に置き換わり、さらに時代が下ると「蝦夷」という字を当てることとなります。

愛瀰詩は万葉仮名ですから特に意味はありませんが、毛人という文字を当てれば意味明瞭です。今でいう「濃ゆい連中」というカンジで、縄文人の形質の特徴の一つを明確に表現するものです。従いまして、エミシ=単に東北に移住した弥生系の人々、であるはずがないのも当たり前です。

さらに、蘇我毛人(そがのえみし)などの例から明らかなように、当初は、エミシ=猛々しく勇敢な人々、という含みがあったと思われます。
大和政権の東進に対する彼らの強力な抵抗を裏付けるもの、とも言えます。

で、漢字はともかく「エミシ」という音ですが、関連した言葉は日本語にはありません。従いまして、弥生人が縄文人を表現するために作り出した単語ではなく、当の縄文人が自分たちを表現するために使用していた単語であるはずです。
で、「俺たち」とか「我々」とか「ヒト」とか、そんなカンジの言葉だったのでしょう。

で、日本書紀にすでに記載されている単語ですから、それ以前にはすでに使われていたのも明らかです。

以上を考え合わせると、弥生時代の人々が列島を東進~北進する際に遭遇した縄文人との接触の中で縄文人から得た言葉の一つが「エミシ」であり、時代が下るにつれてさらに意味を拡張してエゾ~エビスとなった、と、センセは考えてます。

「エゾやエビスはエミシよりもさらに北の連中であり、エミシとは多少とも文化を異にする連中である」という説もありますが、面白い見解だと思います。

一方、金田一京助や大野晋氏によれば、「ヒト」を表すアイヌの古い言葉に「エンチュ」という単語があるそうです。これが色々変化して「エミシ」になった、ということです。

たぶん、基本的には正しいと思います。

じゃ、エミシはアイヌ語?ということですが、違うと思います。

今月の書評-43」でも指摘したように、アイヌ語の中には縄文語から取り込まれた単語が存在している可能性があります。
「エンチュ」は古語であると同時に雅語であり、また、北海道ではなく樺太のアイヌの中にわずかに保存されていた単語であるということから、相当に古い時代の言葉であるのは間違いありません。加えて、歴史時代のアイヌ人が自らを「エンチュ」と読んでいたという記録も見出せません。
ということは、相当古い時代にアイヌ人の先祖と縄文人の先祖が始めて会遇したとき、まさに弥生人がそうであったように、アイヌ人もまた、縄文人(あるいは旧石器時代人である可能性も!)から、その言葉を獲得したのかもしれません。

従って、「エミシ」が古い言葉であり、これがアイヌ語に取り込まれた後に「エンチュ」となって残った、という可能性もあります。


以上、あることないこと、あるいはないことないことを述べてきましたが、結構、自信があります。合理的に考えて、どうあっても東日本の縄文人に初めて接触したころに得られた単語であって、ペツ~ナイの人々との接触によって得られた単語ではないと思います。

こう考えますと、現代においても東日本と西日本とは様々な点で異なるわけですが、東日本の人々にとってはなじみのある言葉だけど西日本の言葉とは大きく異なる言葉の中には、実は縄文由来の言葉が結構埋もれている可能性があるのでは?とも、時々思うセンセです。


今月の書評-45

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紅白歌合戦もダウンタウンもものともせず、縄文に固執するセンセです。

さて、北海道には登別、紋別、芦別などのベツ~ペツの付く地名や、稚内、幌内などのナイが付く地名が多いのが特徴ですが、これらが「川」を意味するアイヌ語であることはご存知の方も多いかと思います。

で、これら、ペツとナイの付く地名が東北北部にも多く存在することも、知ってる人は知ってると思います。以下、分布図です。

ペツ、ナイ.jpg
一見して明らかなように、青森~岩手~秋田に多く分布してますが、宮城~山形となると減少し、福島~新潟には(たぶん少数はあると思いますが)見られません。

で、これらの東北三県にペツ~ナイの付く地名がこれほど多く残存していることから、これらの地域には、過去にアイヌ人が住んでいたことは明らかです。

で、問題は、これらの地名はいつ付いた?ということです。

もしも亀ヶ岡文化を生み出した連中が純粋のアイヌ人であったとするならば、これら東北三県のペツ~ナイは彼らが名付けたものである可能性は、あります。
しかしながら、図からも明らかなように、見事に、ある一線(二線?)で停止しています。沖縄にまで影響を及ぼした栄光の文化にしては、東北三県でピタッとペツ~ナイが停止しているのは不自然です。

恐らく、この一線の南には、南下を阻止するナンカ(ダジャレです)が存在していたと考えられます。

で、種明かし。

これらの地名は、4世紀から6世紀にかけて北海道から南下してきたアイヌの人々の残した遺産なのです。

問題:では、なぜ一線で停止しているのか。
答え:一線の南には、すでに北上を開始していた倭人と、元々そこに住んでいた元縄文人が居たから。

じゃ、亀ヶ岡文化を生み出した連中は何者なのか?
アイヌとはまったく関係ないのか?

ここからは個人的な妄想も加えたお話になります。

三内丸山の時代からすでに、東北北部と道南地方は、丁度朝鮮半島の南沿岸から北九州がそうであったように、一つの文化圏を形成しておりました。
道南地方の背後には、Deep North、樺太経由の人々=アイヌ人による、津軽~道南文化圏とは多少とも色合いの異なる縄文文化がありました。
その結果、津軽~道南文化圏は、アイヌ文化と縄文文化が互いに融合~刺激しあう場となったはずです。
加えてシベリアからのツングース系文化との交流もあり、農産物としてはソバを植え、道南の豊かな海産資源も利用して、列島の縄文文化が疲弊する一方で、ここに栄光の亀ヶ岡文化が花開きました。

けれども主体は縄文系であり、deep なアイヌ系とは異なるものでした。

紀元前3~4世紀になると津軽地方にも水田耕作技術が到達し、ナント、彼らはこれに挑戦!一旦は成功します。その結果、ここに東北の縄文時代は終焉を迎えることとなりました。

けれども程なく気候は再び冷涼化し、稲作は見事に失敗!
津軽サイドの元縄文人は再び南下し、東北は閑散とした状況となります。

一方、道南サイドの連中にとってはさすがに北海道での水田耕作の選択肢はなく、引き続いて縄文時代を送ることを選びました。
ここで一旦、津軽~道南文化圏は分断され、道南はdeep 系アイヌの影響を強く受ける状況となりました。「続(ぞく)縄文時代」の始まりです。

このような状況で数世紀が過ぎたころ、樺太からギリヤーク系の連中が北海道に到着、定住生活を送るようになりました。「今月の書評-24」でご紹介した粛慎(しゅくしん)=オホーツク人(ニブフ人の祖先)です。
アイヌ人とオホーツク人とは基本的には敵対関係にありましたが、それでも男女関係というのは敵対関係にあるほど燃えちゃったりしますので、アイヌのロミオと粛慎のジュリエットとの間には子供ができちやったりしたようでして、アイヌの血には列島の他の地域ではナカナカ見られないタイプの北方由来のDNA タイプが、すでに縄文時代においても明確に検出されます。

で、これらオホーツク人の侵入に押された結果、紀元後の4~6世紀、ところてん式にアイヌ人は津軽海峡を渡り、今や人口希薄となった東北地方に侵入していった結果が、東北地方に今に残るペツ~ナイの地名というわけです。
これらの流れは、基本的に、考古学的にも文献的にも、確かなものだと思われます。

で、再び自問自答したいと思います。

「もしも縄文人=アイヌ人であり、縄文語=アイヌ語であったとするならば、ペツ~ナイの地名は東北三県に限られることなく、ましてやあの一線で停止するようなこともなく、少なくともより南部の関東~中部~北陸までは、比較的良好に残っているはずだ!それがあの一帯だけに限定されるということ、それ自体が、縄文語とアイヌ語は違うということを意味するものだ!」

と結論付けたいと思います。

実際は、関東や中部などにも、僅かではありますが、ペツ~ナイの地名があります。有名なのは「黒部川」ですね!クルペツです。
また、日本語としては意味不明な地名もアイヌ語で解釈すると意味が通じる、などという例もいくつか見られます。
例えば東京~埼玉の古い呼び名である「武蔵(むさし)」ですが、日本語としてはイミフです。けれどもこれをアイヌ語で解釈すると、「草の野原」という意味になるということです。

しかしながら、こういうのは眉唾ものだと思います。

東北三県のペツ~ナイの分布と北海道アイヌの距離的な近さ、さらに考古学や文献に基づく確かさに比べ、イミフな地名を適当に拾い上げ、アイヌ語で解釈して意味が通じるからといっても、それを縄文語=アイヌ語の証拠とするには余りにも苦しすぎます。古代朝鮮語を研究してるヒトが日本各地の地名をバッシバッシと古代朝鮮語で切りまくった本を読んだことがありますが、同じ穴のミーアキャットです。

しかしながら、「ならば、本当の縄文語とはどういうものなんだ?」と聞かれても、「分かりませぬ・・・。」と答えるしかありませぬ・・・。

現代の我々が知っている地名のほとんどには、漢字がふられてます。これが、実は、厄介なのです。
漢字には「音(おん)」があると同時に、意味があります。そのため、「音」に付けた漢字の意味に引きずられ、「音」までもが変化する例がしばしば見られます。北アルプスの「白馬」が良い例です。

白馬って、「ハクバ」じゃないです。白い馬じゃないんです!
あれは「シロウマ」と読まなくてはならないし、「シロウマ」は「白い馬」のことじゃないんです!知ってるヒトは知ってると思うけど、知らないヒトはググってください!

ということで、漢字によって古い時代の読み方がひん曲げられてしまうので、地名から縄文語を読み解く研究は実に難しい作業だと思います。でも、地道に丹念に拾っていけば、事によると、思いもよらない言葉が実は縄文語だった、などという結果も、将来的には得られるかも知れません。

言語学の先生たちには大いに頑張ってもらいたいところです!


では、とりあえず「ゆく年くる年」だけはチェックしたいと思います。
それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

カルロス・ゴ~~~ン!



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