喜源テクノさかき研究室: 2021年8月アーカイブ

今月の書評-134

| | トラックバック(0)
毎日毎日ブログばかり書いてるので少し飽きてきましたが、まだまだ先は長いので、頑張ります!

スサノオノミコト、乱暴が過ぎて高天原のみんなから憎まれ、ボコボコにされておん出されてしまいます。
で、どういうわけか出雲に行くのですが、併記の一つでは、出雲に行く前に新羅に立ち寄ります。そこもおん出された後に出雲に行く構成になってます。
で、その後に例のヤマタノオロチを退治して古事記ではクシナダヒメ、日本書紀では稲田姫をお嫁さんにしてハッピーエンドとなりますが、古事記ではこの後に、かの有名な「因幡の白兎」のお話が続きます。

で、その内容は誰もが知るところですが、古事記では「素兎」と書いてシロウサギと読ませます。で、しばしば指摘されるところですが、この「シロ」と新羅との間にはナンカ関係があるのではないのか?シロウサギは海の彼方からワニ(フカ~サメ)を騙してぴょんぴょん跳んできたわけだが、これは新羅から難民のようなのが流れ着て、それを大国主命が哀れに思って助けるお話なのでは?
とか・・・。

また、出雲国風土記には「国引き」のお話がありますが、ここでも出雲地方の土地を増やすために新羅国に綱を掛けてみんなでえんやこ~らと引っ張るお話が出てきます。新羅としてはたまったものではないと思いますが・・・。

もちろんこの当時は未だ「新羅国」という国は無いわけで、以前にも指摘したように、たぶん、以前から、倭人は半島の東海岸地方一帯を「しらき」と呼んでいた可能性があります。

改めて地図を見るまでもなく、北九州に至るには半島東南部から対馬~壱岐を通るのが最短ですが、出雲地方では寧ろ半島東海岸地方との間が地理的に近いことから、この地が何かと影響した、それが神話やおとぎ話、伝説として残った、と考えても違和感はありません。
以前にも述べましたが、土器のレプリカ法によれば、列島最古の穀物圧痕が付いた土器片は出雲地方の遺跡から出土しております。この穀物文化も、ことによると、半島東岸地方から伝わったのかもしれません。

いずれにしましても、魏志倭人伝において「列島には多くの国々があるが、蝦夷を除き、それらは全て倭種である」との記述から、大きな括りにおいては半島に由来する倭人は同族ではあったのでしょうが、より小さな出自、例えば氏族とか部族とかの括りでは、いくつかに分かれていたのだと考えてます。

寧ろ、それが自然です

で、このような出自を異にする部族~氏族の間で、状況に応じ、婚姻関係を結ぶなどして、連合~同盟関係を結ぶ必要性が生じたのだと思います。
高天原をおん出されたスサノオノミコトがめでたくクシナダヒメと結婚するお話も、恐らくは、その流れで解釈できるのでは?と思います。

とつたいもん土器の限界-3.jpg
これは「今月の書評-105」に載せた図ですが、ここでは北九州、南九州、出雲の、少なくとも三か所の地域にそれぞれ別の由来の弥生文化=同じ倭種ではあるが、氏族~部族が異なるもの、が伝播した可能性を示してあります。恐らく、もっとあるかと思います。

日本書紀の神武天皇東征のお話の中でナガスネヒコを打つ話がありますが、ナガスネヒコは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に仕えていた地元の豪族です。で、自分の妹をニギハヤヒノミコトに嫁がせて親戚関係となったわけですが、このニギハヤヒノミコトは半島由来の由緒正しい「天つ神」です。
で、神武天皇、これを聞いて一瞬ためらいましたが、結局、ナガスネヒコを斬ってしまいます。同じ天つ神ではあっても、たぶん、別の氏族だったからでしょうか?

この経緯を見ても、天皇家とは出自を異にする半島由来の氏族が、日本各地に三々五々に、渡来~分布していたことが分かります。

上図は、弥生時代において、最も早く水田稲作~穀物作が伝播した地域を表しています。北九州に最初に伝播したのは分かりやすいですが、南九州と出雲地方、共に早期に伝わっています。そして、両者とも、クロボク土の分布と縄文遺跡分布とからも分かるように、弥生文化が到達した当時、既に西日本屈指の強力な縄文勢力を形成しており、その後も縄文の影響力が後々まで残った地域であった、ということです。

実は、ここに、ヤマトの秘密があるのです!!!妄想だけど・・・。




今月の書評-133

| | トラックバック(0)
毎日毎日雨また雨・・・。
どこにもお出かけできませぬ・・・。
加えてコロナが「もういいっ!」てくらいに猛威を振るい、踏んだり蹴ったりの夏休みでありますが、みなさまは何をされてます???

センセのバイクも丸一年乗ってないので、走るかどうか、心配です。

と言うわけで、ブログの続きです。
今月の書評-131」で列挙した疑問は全て相互に関連しあってるので、個別に答えるのではなく、総合的に考えていこうと思います。


日本書紀、古事記ともに、初めの方は色んな神様が生まれる話のオンパレードですので省略し、何となく現実っぽい?ところから始めます。例の凄まじいオトコ、スサノオノミコトです。カタカナで統一します。

スサノオノミコトの話の中で、多くのヒトがこれまであまり指摘していない興味深いところが一点あります。それは、スサノオが姉の天照大神とケンカして勝った嬉しさに大暴れする場面ですが、生き馬の皮を剥いで姉が織物を織っている小屋に投げ入れる、という有名なシーンがあります。古事記、あるいはその他の併記によって「暴れ馬を田んぼに追い込んだ」とか、「ブチ模様の馬の皮をはいだ」とかいろいろ細かな違いはあるのですが、全ての併記において「馬」が登場します。

で、列島において確実に馬が存在した証拠は4 世紀を待たねばならず、魏志倭人伝の記述でも、2~3 世紀の倭には牛も馬もいないことが明記されてます。

殷墟からは戦車のくびきに括りつけられて殉葬させられた馬の骨がたくさん発掘されてますので、既に紀元前10 世紀くらいまでには中原で多くの馬が使われていたことは明らかです。
で、馬が半島東南部で使われるようになった時代がいつ頃なのか、色々調べても良く分からないのですが、魏志倭人伝の元本である「三国志」には「倭人伝」だけでなく、三韓、沃沮(よくそ)、濊(わい)、高句麗など、当時の朝鮮半島の多くの国々の事情が事細かに描かれてますので、読むと、これら全ての国々は押しなべて牛馬を利用しています。

で、大陸と地続きの半島末端までは比較的速やかに牛馬の文化が伝播したと考えられますが、列島に伝わるのがずいぶんと遅いような気がします。

やはり暴れる馬を船で運ぶのが大変だったからなのでしょうかね?
分かりませぬ・・・。
半島に最も近いところは北九州なのですから、北九州の連中が早くから馬を輸入していれば、これは大きな軍事力となり、その後の歴史も変わった可能性がありますが、馬が登場するのは、先に述べたように、崇神天皇以降のヤマト政権の勢力が伸長し始めるのが明白となってから漸くの事です。
こういう点を見ても、ナンカ、北九州勢力ってそもそもやる気があるのか?
疑問になります。

で、それはともかく、スサノオノミコトが馬の皮を剥ぐような乱暴狼藉をしたのは未だ馬が居なかったととびちゃんの時代よりもよっぽど昔の出来事ですので、やはり高天原は日本列島にはない!少なくとも東京都葛飾区四つ木ではない!ことは明らかです!!!

また、スサノオノミコトが生き馬の皮を剥いだ、という一つの併記がありますが、獣医師でもあるセンセとしては「これはあり得ない!」と断言せざるを得ません。

どれだけ暴れるのか、想像も出来ませぬ・・・。

で、これは生き馬の皮を剥いだのではなく、「皮を利用するためとはいえ、健康な馬を殺してはなりませぬ!」というような「おきて」が当時存在し、これに背く行為であるので悪い!ということを表したのだと思います。それだけ馬や牛は貴重な存在で、大切に扱われていたことを傍証するものだと思います。

センセは一応、獣医師の免許を持ってます。
でも、臨床はトンとご無沙汰なので、今では犬と猫の区別もつきませぬ・・・。
記憶によれば、確か、毛深い方がイヌ、でしたっけ?

違ったか???

毛深いイヌ.jpg
イヌ、だと思います。 docdog さんより
https://www.docdog.jp/2020/11/magazine-dogs-s-a-3513.html





今月の書評-132

| | トラックバック(0)
アメリカ軍が撤退したとたん、アフガニスタン政権はあっという間に崩壊してしまいました!
遠く離れた他国の出来事、我関せず、でしょうかね?日本の方々!
香港の民主化運動にせよ台湾問題にせよ、ここで本質論に立ち返って、よおおっ~~~く考えてくださいよ、みなさん!!!

さて、まずは高天原です。簡単です。朝鮮半島東南部のどこかです。オシマイ。

次行きます。



って、あまりにも簡単すぎる?も少しジタバタひねくってみる?

分かりました。でも、ちょっとだけよ~

まず、人間は天空に住むことはできません。人工衛星でもない限り。
で、この時代、人工衛星はありません。
従いまして、高天原にヒトが住んでいたとすれば、高天原は天空にはありません。オシマイ。

これでOK 牧場?まだ駄目?じゃ、も少しやってみる。

この時代、人間が天空に住めなかったことは分かる。でも、朝鮮半島以外のどこかかもしれないのでは?

答え:以下の候補地は全て可能性が低いです。

1) 南極
2) 北極
3) アマゾン
・・・・・
100) 東京都葛飾区四つ木
・・・・・

もうバカバカしいので止めますが、上記の思考パターンは、実は重要です。
一見バカバカしく思われるかもしれませんが、このように極端に描き出せば、「可能性」を指標としてより正解に近いものに絞っていく思考の道筋が分かると思います。

「車を真っ直ぐ走らせる」ためには、右と左の両極端が必要です。
普段の我々が通る道は右左がハッキリしてるので意識することはありませんが、サハラ砂漠ラリーに参加するヒトなど、意味はよくわかると思います。

「愛はお金では買えないわ💛」とJK が言った。
では100 万円では?1000 万 では?1 億では?・・・・・1000 億円では???
100 人のJK が居たとして、 数人くらいはそれでも意見を変えない可能性はありますが、結構の数のJK が上記の「せり値」のどこかで脱落するかと・・・。

いずれにしましても、「ありえる」、「ありえない」を指標として比較的広範囲にスクリーニングを行うだけで、結構、目標近くまで到達できます。そこからさらに絞り込むのがナカナカ厄介な作業なんですけどね!


で、ずいぶんと回り道をしましたが、どんな民族にも天地開闢(かいびゃく)以来の神話があります。狩猟採集を行っている民族などでは「おらの先祖はオオカミじゃわ!」、「おらのとこはバッファローだで!」なんてのが多いのでしょうが、農耕が始まるとたちまち「太陽神」てのが登場します。分かりやすいですよね!

縄文人の場合はイノシシを祭っておりました。イノシシをご先祖としていたかどうかは、分かりませぬ・・・。

で、ご多分に漏れず、ヤマトの連中もまた、太陽の女神さまを拝し奉り(はいしたてまつり)、高天原という天空にある架空の場所を設定し、彼女の居住地をこれに充当しておりました。で、奈良盆地にヤマト政権ができ、その後の歴史が動いていくのは現実ですから、どこかで神話から現実の話に移行しているはずです。それが天孫降臨の場面で、南九州にヤマトのご先祖一派が移住する場面です。で、ホントに天空から移住するわけありませんから、じゃ、どこが一番可能性が高いかというと、朝鮮半島東南部のどこか、というわけです。

このレベルのお話に時間とエネルギーをかけるのは嫌なんですけど、「東京都葛飾区四つ木だ!」とかいうヒトが居るもんで・・・。← ホントか???



せっかくですので、この流れで、も少し書きます。コロナに絡みます。

コロナが流行りだした頃、マスク着用率が高い日本に向けて、アメリカ大手の新聞が「ウイルス対策としてマスク着用は無意味!」とか主張してました。覚えてる?

現在でも、マスクしないで野外でBBQ とかして騒いで注意したら「マスクがコロナを防ぐ証拠はあるのか?」とか言って反発するHD Horse and Deer連中が居ますが、同類です。

で、マスクとコロナを例にとって、先の「論理の道筋」について解説します。

どんなマスクを着けていてもコロナ感染を100% 防ぐことはできないと思いがちですが、ある種のマスクを着けていれば、少なくとも気道感染は100% 防ぐことができます。
それはどのようなマスクかというと、100% 空気との接触を遮断するタイプのマスクです。このマスクをすれば空気を吸うことができませんので、コロナも100% 気道に侵入することができません。従いまして、このマスクをすれば、100% コロナの気道感染を防ぐことができます。その代わり窒息死するけど・・・。

じゃ、と言うんで、薄いガーゼ一枚でできたマスクをするとします。
この場合はスースー楽に呼吸ができるので、とても快適です。
けれどもコロナもスースー侵入します。

で、この場合のコロナウイルスが気道に侵入する確率ですが、たぶん、100% ではないと思います。99.999・・・・% くらいスースー侵入できると思いますけど、極々わずか、阻止されるウイルス粒子が存在するはずです。

じゃ、ガーゼを二枚にすると、三枚にすると、四枚、五枚・・・恨めしや~~~。

というカンジで、どこかで「呼吸もできる、ある程度コロナの侵入も防げる」枚数を見つけることができます。その場合、コロナ侵入阻止の確率は、もちろん100% ではありません。

で、それで良いのです。
何もマスクでコロナを100% 何としても阻止しなくてはならない、というわけではないのです。それが10% であっても20% であっても30% であっても、「大した苦労もお金もかけずにそれなりに効果が期待できる」のであれば、大いにすれば良い、というお話です。

何もスーパーコンピューターの「富岳」を使ってシミュレーションをするまでもないのです。

上記の、「ガーゼ一枚で99.999・・・%の侵入率(架空の数字ですよ!)から、息が出来ないタイプのマスクの100% 阻止率のどこかで現実的なマスクの存在意義が発生する」というものの考え方、これが大事であるということです。

社説で堂々と「マスク無用論」をぶち上げたアメリカ大手の新聞社ですが、ハーバードだかエールだかの優秀な大学を卒業された方々が書かれたものでしょうが、それでもこのような簡単ではあるが合理的なものの考え方ができない方々も大勢いらっしゃるわけでして・・・。

ましてやマスクしないでBBQ して外で騒ぐ輩は何をかいわんやかと、今更に呆れてそろそろソーメンでも食べようかと考えてるセンセでありました。
 






今月の書評-131

| | トラックバック(0)
「古事記、日本書紀の謎に迫る!」
というカンジの表題の本は数多いですが、ホント、謎多き書物ではあります。

で、以下、センセが「???」と感じる謎また謎を列挙してみたいと思います。以下。

● 高天原とは何か。どこかに想定されるのだろうが、それは何処か?
● 神話が最初に来るのは分かりやすいが、何故にその次に出雲が登場するのか?
● 北九州勢力に全く触れていないのは何故なのか?
● 日本書紀が後のヤマト政権の人々が恣意的に自分たちに都合よく作ったお話であるとするならば、さっさと高天原から奈良盆地に降臨すれば良いだけのことだが、何故にわざわざ南九州の高千穂に降り、そこからわざわざ東征して行かなくてはならないのか?
● 神武天皇が東征のために高千穂を出立し、河内にたどり着くまで何故に7 年もかかったのか(古事記では16 年)?

等々。

それでは早速始めませう!

まず初めに、日本書紀~古事記は「ヤマト政権の人々が恣意的に自分たちに都合よく作ったお話ではない!」という点を、別の視点から考えてみたいと思います。

そもそも論として、古事記の序に書かれてあるとおり、天武天皇の御代、詔を発し、「諸家が各個に保存している帝紀や本辞などには相互に色々な異論が書かれている。これではまずいので、これを逐一検討、統一して、後世に残そうぞ!」というのが、記紀編纂の主たる動機であったわけです。
で、諸家とはなんだ?とのことですが、これは天皇家に昔から仕えていた氏族連とか、あるいは分家連とかの家々のことだと思います。
で、ヤマト政権は本家筋にあたる天皇家だけで成しえた政権ではなく、これらの昔から付き従ってきた「お仲間」全員で成しえたものであることは明らかですから、これらのお仲間の間で代々伝わってきた「歴史の口伝書」みたいなものを一方的に無視し、主家の都合で勝手に「これぞ正当の歴史書である!」としたところで、お仲間連~分家連は黙ってはいないことでしょう。

日本書紀を読んでいて気付くことの一つが、当時の天皇は異母弟その他からしょっちゅう命を狙われており、絶対的に強力な独裁者などとは程遠い存在である、との認識です。あの気ままに過ぎる雄略天皇ですら、日本書紀では「悪い天皇である!」との評価が下されてますし、武烈天皇に至っては何をかいわんやかと・・・。

そのような「御行状」まで、ホントであるか否かは別として、委細記しているところを見ても、記紀が単なる「天皇家のためのプロパガンダ本」では無いことは明らかだと思います。

従いまして、記紀中の数多い注釈や異論の併記などからも分かるように、細かな意見の相違はあるとしても、物語の大きな流れとしては、諸家ともに大差は無い、と見なして差し支えないと思います。

要するに、高天原から高千穂に降り、長年かけて奈良盆地に政権を打ち立てたという話の流れは天皇家並びに諸家共に共有する話であり、仮に天皇家が「いや、これではまだるっこしいから、さっさと高天原から奈良盆地に降りたことにしよう!」と言ったところで、「自分たちの苦労話を抹消して主家に都合よく話を作り上げることなどもってのほか!帝はご乱心あそばされた!」とか言って、周りの者どもはみな大反対するのが関の山です。




今月の書評-130

| | トラックバック(0)
オリンピックが終わったと思ったらコロナが大変なことになってると思ったら大雨が降り続いて日本列島はもう大変!
ここ長野でも本日は色々と警報が発せられてます。
だもんで、せっかくの夏休み、ゴルフの練習も控え、お部屋で過ごします。

ま、涼しくて良いのですけどね!


で、今後は、古事記、日本書紀、風土記を中心に読み解き、ヤマトに政権が打ち立てられるまでの過程を明らかに妄想していきたいと考えてます。

で、これらの資料ですが、神話実話~虚実ないまぜの、ごった煮も同然の代物ではありますが、先の魏志倭人伝との対比からも、「飾った話や作られた話の裏側にはナニカが隠されているのだ!」と考えてます。
これらの先人が残してくれた貴重な資料を「どれもこれも裏付けがない!」と一括して目もくれない態度は、言わしていただければ、寧ろ科学的な態度ではないと思います。これらの混沌としたお話の背後に潜む古人のメッセージを読み取るためにはどうすれば良いのか、まずは方法論について考察し、すでに明らかとなっている考古学的証拠などと照らし合わせ、追及していくのが、科学的スピリットを有する本当のサイエンティストであります。

で、鎌倉幕府以来数百年にわたって政治の表舞台から退いていた朝廷でしたが、幕末から明治維新にかけての動乱期、幕府に対抗する権威の必要性に加えて西欧諸国の帝国主義に対応する一つの方法論として、従来の封建制度を廃棄し、古代以来の天皇を頂点とする政治体制が再び作り上げられました。当時の欧州の絶対王政に対比すべく作り上げられた体制であると思いますが、そこは日本人の優しさというか曖昧さというか、大日本帝国憲法に規定されるように絶対王政とは程遠く、ために、ある意味、寧ろ、後々に禍根を残す結果となったのは、皆様もよくご承知のことであると思います。

で、このような背景から、歴史書としての日本書紀の側面が強く押し出され、果ては神武天皇から今上天皇に至るまでの全ての天皇陛下の名前を暗記させられるという、今では信じがたいような学校教育がなされただけでなく、日本書紀中のいくつかの誤謬を指摘しただけで問題視され、果ては裁判沙汰にまで至るという、しょうもない結果に陥りました。

で、戦後はこれの反動が生じ、先に述べたように、日本書紀を含め、これらの資料の重要性が一切否定される時代を迎えるわけであります。

で、その後に考古学的成果~自然科学の進歩などもあり、「いやいやナカナカそんなにバカにしたものでもなかろう!」というカンジの今日この頃かな?
少なくとも個人的には。

で、方法論です。簡単です。単純に、常識に照らし合わせて、「あり得る、あり得ない」と判断してけば解決です。これで大部分スッキリします。

で、これで解決できない「灰色」の部分、そこが面白いのです!
こういうところで、センセを含む多くの方々の妄想の嵐が吹き荒れることとなります。

要するに、これまでと同様、好き勝手に書いていきます!

以降、お昼を食べてから!






今月の書評-129

| | トラックバック(0)
さて、「今月の書評-111」で、2009 年に国立歴史民俗博物館(歴博)の方々が、箸墓(はしはか)古墳の周濠から集めた土器片など、当時の遺物を試料として炭素同位体による年代測定をしたところ、卑弥呼が死んだ頃の年代にぴったりと該当した、という研究結果を発表した話をしました。

上記論文はネットから読めます。相当に専門的ですけど、興味のある方はどうぞお目を通してください。センセも読みましたが、少なくともセンセのような素人が指摘できるような瑕疵(かし)は見当たりません。但し、専門の方々がお読みになれば、当然、別の見方も生じるのでしょうけど・・・。

で、日本書紀では箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓として描かれてますし、宮内庁も「ととびちゃんの墓」と認定しておりますので、ここは相当に「ととびちゃん=卑弥呼さん」である可能性が高まってまいりました!



日本書紀の崇神紀においては、その他にも魏志倭人伝を裏書きする個所があります。以下。

「是歳(ことし)、異俗(あたしくにのひと)多く帰(もうき)て、国内(くにのうち)安寧(やすらか)なり。」

意味。今年は海外からも多くの人々がやってくるほどに、平穏な世の中となった。

この海外からのヒト=海外(わたのほか)の荒ぶる俗(ひとども)、ではありませぬ!異俗(あたしくにのひと)とは、まさに帯方郡からの使者のことです!

で、ととびちゃんも古墳に収められてしまった後、彼女の跡を担ったお方が崇神天皇の娘である豊鍬入姫命(とよすきいり ひめのみこと)、いわゆる「トヨちゃん」です。魏志倭人伝では壹与(いよ)と記載されてますが、邪馬台国の段と同じく、臺与(とよ)の間違いであるのは明らかです。トヨちゃんは天照大神にお仕えする任に付いたこともお話しました。

こうなりますと、日本書紀、個人的には、相当程度に信頼できる書物であると思います。魏志倭人伝での第三者的な記載が当事者においてはどのように記されているのか、そこのところの読み方のコツをつかめば、日本書紀を掘り下げることにより、弥生時代からヤマト政権樹立に至るまでの道のりが自(おの)ずと分かってくるのでは?と感じます。そのうち江上波夫氏の「騎馬民族日本征服論」を彷彿とさせるような、壮大なお話を展開したいと考えてます。

一つ気になるのは、「今月の書評-103」で言及したように、魏志倭人伝の方が日本書紀よりも圧倒的に古く、日本書紀を編纂した時には編纂者、あるいは編纂委員会の方々は、当然ながら魏志倭人伝を含む海の彼方の膨大な文献を読んでいたのは間違いのないところであるにも関わらず、何ゆえに、普通に日本書紀を読んでも直ぐにはととびちゃんが卑弥呼さんであるとは分からないのか?わざとそうしたのか、あるいは編纂者も分からなかったのか?

いくつかの可能性があると思いますが、実は、日本書紀の編纂者は、卑弥呼さんを「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)のお后(きさき)の神功皇后(じんぐうこうごう)に比定」している説が有力です。そのためにわざわざ魏志倭人伝から導かれる年代に細工を凝らし、神功皇后の時代に引きずり込んでいる、とのことです。

恐らくは、魏志倭人伝の記述中の「女王」という言葉に惑わされ、これに合致する方を探したところ、神功皇后に行き当たった、というのが正解でしょうか?神功皇后は皇后ですのでいわゆる女帝=女の天皇ではありませんが、対外的にも対内的にも旦那さんを圧倒する活躍をされたお方です。で、編纂者委員会の方々も、分かっていたのか分からなかったのかは分かりませんが、ともかくも、「女王」にふさわしいお方として、倭迹迹日百襲姫命ではなく神功皇后を選んだのでしょう。センセなんかも、指摘されて初めてととびちゃんの存在に気が付いたくらいですから・・・。

以上から、「卑弥呼さん=ととびちゃん」であると認定いたします!
問題解決!




で、日本書紀やら古事記やら風土記やら考古学的証拠などから鑑みて、この崇神天皇の時代に倭国は統一に向けて大きく動き出した、と考えてます。
今月の書評-125」で、崇神天皇が神浅茅原(かむあさぢはら)に日本各地から多くの豪族を集めて大々的な祀りごとを行ったことが非常に重要な意味を有していた可能性があると指摘しましたが、この時に、これまで各地で行われていた宗教的風習を取りやめて新たな方針を採用すること、そしてそれはヤマトを中心として統一的になされるべきことの合意を取り付けたのではないのでしょうか?

どゆことかというと、あの有名な銅鐸
まず間違いなく当時の神事にかかわる重要な祭器と考えられる物品ですが、この時代を境として全く作られなくなります。
作られなくなったのに加え、破壊されたり埋められてしまった銅鐸も数多くあったようです。

この時代の人々の宗教心を考えると、崇神天皇の時代に生じた疫病(パンデミック)、それに続く各地の反乱の原因はまさにこれまで執り行ってきた銅鐸の祀りにある、従って今後はこれを行わず、別の形に象徴されるものをもってこれに替える、そしてその新たな象徴の元に、諍い(いさかい)を鎮め、倭国全体の統一を皆で図っていこうではないか!との合意に至ったのではないのでしょうか?

それではその新たな象徴とは何か?

答え:前方後円墳です。




銅鐸.jpg
東京国立博物館展示物 ウイキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8


箸墓古墳-2.jpg
空から見た箸墓古墳。日本初の大型前方後円墳です。

朝日新聞HPより
https://www.asahi.com/topics/word/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3.html


今月の書評-128

| | トラックバック(0)
で、ゴルフの練習の結果ですが、いきなり絶好調!
「あ、こういうことね!」ということで、玉もよくつかまる。
先日全米オープンで優勝した笹生優花選手を真似したおかげでスイングを壊したセンセでしたが、元に戻った。というよりも、より良いスイングになった。
スイングのパワーは足腰から生まれる、ということの意味が漸く分かったような気がする。

そのうち稲見萌寧選手に果たし状を送ろうかと思う。

センセがいつも行く練習場は千曲川対岸の塩田平にありますが、300 ヤード打ち放しの大変広い練習場です。空(す)いてるし。
で、虫も多いが動物もやってくる。
先月はタヌキがのそのそ歩いてた。
先週は三頭のニホンジカの親子が300 ヤード先を悠々と横断してた。
悔しいのでドライバーをぶんぶんぶっ飛ばしたが、届くわけない・・・。
先頭のお母さんシカ、時々止まってこちらを見る。
明らかにバカにしてるようだ・・・。

でも、バンビのような子鹿クン、ホントにカワイイですね!

このブログのどこかで書いたけど、千曲川の向こう側にはニホンジカがうようよ居る。一方で、川のこちら側には居ない。カモシカはたくさん居るけど、ニホンジカは、少なくともセンセは見たことがない。山には、クマは居るけどサルは居ない。


数年前、別の練習場での出来事です。
その練習場は千曲市の千曲川沿いにあり、ケージに囲まれた150 ヤード程度の狭い練習場です。
で、ネットのポールの先端に、ハヤブサが止まってる。
で、一羽のハトと思しき鳥がケージ内に侵入してきたその瞬間、ハヤブサはその鳥に向かって急降下!数度にわたって体当たりしますが、その都度、鳥の羽毛が周囲に舞い散る!で、三回目の攻撃で仕留めた!
センセの打席の目の前であった!

で、可哀そうなハトくん、と思ってよく見ると、ハトではなくてカッコウであった・・・。ハヤブサは、ゴルフ場のケージを利用し、カッコウを追い詰めて狩りをしていたのだ。

・・・カッコウの獲物だったのであろう・・・。


ハヤブサ.jpg
ハヤブサの雄姿 山科鳥類研究所HPより
http://yamashina.or.jp/blog/2017/10/theme_talk1710/


カッコウ.jpg
カッコウ 鳥の図巻より
https://torinozukan.net/kakkou.php


今月の書評-127

| | トラックバック(0)
オリンピックも今日で終わり。
先週末に夏バテで倒れたセンセの連休は、冷房を効かせた部屋でひっくり返ってうんうんうなりながらもビール片手に連日のTV 観戦です。
日本選手大活躍の今回ですが、何と言っても女子プロゴルフの銀メダルと野球の金メダルには大感動!
夏バテも癒えた本日は、早速に稲見萌寧選手のスイングを真似すべく、午後から練習場に行くつもりです。

・・・どうせ討ち死にするのはみえみえですけど・・・。


さて、一度はお告げを外した「ととびちゃん」でしたが、その後に天皇暗殺計画を予見し、謀反一味の壊滅に大きな役割を果たします。
で、その後にととびちゃんが死ぬと、大きなお墓が作られました。
日本で初めての巨大前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳です。

より小型の前方後円墳は箸墓以前にも作られましたが、全長およそ280 メートルにも達する大型の前方後円墳は、箸墓が初めてです。

箸墓古墳が本当に倭迹迹日百襲姫命の墓であるかどうかについては疑問を持つ方々も居られますが、仮に本当にととびちゃんのお墓であるとするならば、これは生前のととびちゃんの影響力の大きさを強く物語る証拠である、と言えるでしょう。

ととびちゃんの死因に関して日本書紀ではしょうもない話を紹介してますが、古事記では、似たようなお話を倭迹迹日百襲姫命ではなく活玉依毘売(いくたまよりびめ)のお話として描いてます。
魏志倭人伝によれば卑弥呼は生涯独身だったということですので、日本書紀において「倭迹迹日百襲姫命の夫は人間ではなく、三輪山の神様であった」と想定したのは、話の流れとして辻褄があいます。ま、古事記のお話をパクッて話を盛ったのだとは思いますけど・・・。

魏志倭人伝によれば、卑弥呼が死んだとき、径百歩あまりにもなる大きな塚を作り、さらには奴婢(ぬひ)を百人余りも生き埋めとした、と書かれてます。
「径百歩あまりにもなる大きな塚」が古墳を意味することは明らかですし、当時、貴種のヒトが死んだとき、近習の者たちを墓の周りに生き埋めとしたという記述は日本書紀、古事記ともに書かれてますし、当時の朝鮮半島でも同じような風習があったことも考古学的に証明されていますので、これも本当のことだと思います。
但し、これまで必ずしも遺骨などの証拠は発掘されていないようなので、考古学者の間ではこれを疑う方々も居られるようではありますが・・・。




今月の書評-126

| | トラックバック(0)
一回目のワクチンの後、翌日は一日中筋肉痛で、センセのゴルフのごとくに腕が上がりませんでした。
今回の二回目、看護師さんがおっしゃるには、「一回目よりも副反応が強く出る可能性がありますから、明日は仕事をしないでゆっくりしていてください。」とのお言葉でした。
センセの場合、土日の午前中に実験の準備をしないと翌週の実験ができなくなるのでせっかくのお言葉を無視して仕事してましたが、あまり肩は痛くない。
でも、やや、体が重い。
でも、大したことない。
良かったです。
で、ブログを書いてます。


さて、せっかく神懸かりした「ととびちゃん」でしたが、霊験あらたかならず、国の乱れは続きます。で、天皇のお嘆きには激しいものがありましたが、夢の中にでてきた神様の言う通りに色々と大掛かりにお祀りしたところ、漸く疫病も止み、国内が平穏となってきます。

で、天皇、この機を逃さず、一気に全国を平定すべく、手を打った。以下。

「民(おほみたから)を導く本(もと)は教化(おしえおもぶくる)にあり。今、既に神祇(あまつかみくにつかみ)を礼(ゐやま)ひて、災害(わざわい)皆(みな)耗(つ)きぬ。然れども遠荒(とほきくに)の人等(ひとども)、猶(なほ)正朔(のり)を受けず。是(これ)未だ王化(きみのおもぶけ)に習(なら)はざればか。其れ、群卿(まへつきみ)を選びて、四方(よも)に遣(つかは)して、朕(わが)憲(のり)を知らしめよ」とのたまふ。

意味、分かりますよね?続きます。

九月(ながつき)の丙戌(ひのえいぬ)の朔甲午(きのえうま)に、大彦命(おほびこのみこと)を以て北陸(くぬがのみち)に遣(つかは)す。武ぬ川別(たけぬかはわけ)をもて東海(うみつみち)に遣(つかは)す。吉備津彦(きびつひこ)をもて西道(にしのみち)に遣(つかは)す。丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)をもて丹波に遣(つかは)す。因(よ)りて詔(みことのり)して曰く、「若し(もし)教(のり)を受けざる者あらば、乃ち(すなわち)兵(いくさ)を挙げて討(う)て」とのたまふ。

いわゆる四道将軍(しどうしょうぐん、よつのみちのいくさのきみ)の全国への派遣です。重要なことは、これが、ヤマト政権による武力による日本全国統一活動の記紀における初見である、ということです。

日本書紀では、上記に記されるように、単に派遣した、としか書かれてませんが、風土記には、派遣された各将軍の平定活動がも少し細かく書かれています。常陸(ひたち)国風土記には、東国の荒ぶる賊を平定するために崇神天皇が「比奈良珠命(ひならすのみこと)や建借間命(たけかしまのみこと)」を派遣した話がでてきますし、肥前(ひぜん)国風土記にも土蜘蛛(つちぐも)征伐のために健緒組(たけおぐみ)を遣わす話がでてきます。これらの名は先の将軍とは異なりますので、将軍の配下の武将であったのでしょう。

古事記では福島県の会津まで遠征したという記述が見られます。
地元では、これを記念した「四道将軍まんじゅう」まで売られているとか・・・。

で、一旦は平定が完了したかに見えますが、天皇、再度、将軍たちを派遣します。以下。

「今、反(そむ)けりし者、悉(ふっく)に誅(つみ)に伏す。畿内(うちつくに)には事なし。唯(ただ)し、海外(わたのほか)の荒ぶる俗(ひとども)のみ騒動(とよく)こと未だ止まず。其れ、四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)等、今、急(たちまちに)発(まか)れ」とのたまふ。

この「海外の賊」を半島の新羅などに比定してはいけませぬ!
この当時、未だヤマトは半島に軍事的なちょっかいを出してはいませんし、何と言っても倭国の平定に躍起となっている時代です。新羅国が成立するのはまだ先の話ですし、当時は斯蘆(しろ、さろ、しるら)と呼ばれていました。

但し、当時の倭人は早くから「しらき」と呼んでいた可能性があることが指摘されています。

じゃ、この海外(わたのほか)の荒ぶる俗(ひとども)とは誰か?

答え:九州島の熊襲です。


四道将軍まんじゅう.jpg
これが四道将軍まんじゅうだっ!!!
感動ものですね! 
職人さまが心を込めて作り上げておられるそうです。
https://routeguide.jp/sakura/modules/spot/?lid=6206





今月の書評-125

| | トラックバック(0)
日本選手大活躍のオリンピックですが、同時にデルタ株も大活躍!
どっちが勝つか、決勝までもつれ込む展開となっております!← 不謹慎

で、昨日、ボクチンは二回目のワクチンを打ってまいりました。
これで怖いものなしだ!
矢でも鉄砲でも持って来~~~い!!!
始末に困るので、ホントに持ってきてはいけませぬ!


さて、卑弥呼こと「ととびちゃん」の続きです。

疫病や反乱に悩んだ崇神天皇(すじんてんのう)は、多くの豪族連を集め、どのように対処すべきか、占いを行います。
この時「ととびちゃん」、魂がいきなりぶっ飛んでトランス状態となり、大物主神(おおものぬしのかみ=大国主命)に神懸かりしていわく、
「私(大物主)をよく祀れば(まつれば)、天下あまねく平穏となろうぞ」と宣い(のたまい)ます。以下、原文。

是(ここ)に、天皇(すめらみこと)、乃(すなわち)神浅茅原(かむあさぢはら)に幸(いでまし)て、八十万(やそよろづ)の神を会(つどえ)て、卜問(うらな)う。
是の時(このとき)に、神明(かみ)倭迹迹日百襲姫命(やまと ととび ももそ ひめのみこと)に憑りて(かかりて)曰く(のたまわく)、「天皇、何ぞ国の治まらざることを憂ふる。若し(もし)能く(よく)我を敬い祭らば、必ず当に(まさに)自平(たひら)ぎなむ」とのたまふ。

さすがに八百万は多すぎるので、八十万としたのでしょうかね?
いずれにしましても、ずいぶんと神懸かりなお話なので、現代人からすると単なるおとぎ話として読み飛ばす可能性がありますが、当時の人々の考え方からすると、現実にあった出来事である可能性は十分にあると思います。
特に、八十万の神=多くの豪族連と考え、彼らもまた同じような信仰と宗教心を共有していたと考えるならば、この神浅茅原(かむあさぢはら)で執り行われた祭事は、国難を乗り切るうえで、非常に重要な意味を有していた可能性もあります。

現代でも政治のことをしばしば「まつりごと」と読ぶことがありますが、当時はまさに祭政一致の時代、トランスに陥った「ととびちゃん」の口から発せられた神様の言葉に対して、天皇ですら、恐れ多くもひれ伏した、ということなのでしょう。

以下、魏志倭人伝の原文です。最も有名な一節です。

その国、本(もと)また男子を以て王となし、往(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻防すること歴年、乃(すなわち)共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。

どうでしょうか?
第三者的に外野から見た場合、神懸かった女巫女の口から出る言葉に恐れおののいて政治を行う天皇の姿は、巫女こそが実質的な王、天皇は彼女を補佐する存在として、目に映ったのではないのでしょうか?



ちょっと気づいたのですけど、「その国、本(もと)また男子を以て王となし、往(とど)まること七、八十年。」という文章、引っ掛かりませんか?
あまりここを指摘してるヒトってみたことないけど・・・。
センセが知らないだけかもしれませんが・・・。

どゆことかというと、この文章は、明らかに、崇神天皇が皇位を継いでから7~80 年、という意味ではありませんよね?
で、ヤマト政権を奈良の地に打ち立てた神武天皇以来、崇神天皇に至るまでに「女帝」は居りませんから、これは「この国ができてから7~80 年の間、代々の天皇は男性であった」という意味であるとしか解釈できない文章です。

で、皆様もご承知の通り、古事記日本書紀共に神武天皇の東征のお話には非常に重きがおかれ、様々なエピソードで彩られておりますが、そこからの数代の天皇に関しては、やれどのような子供をたくさん残したか、のレベルの記述で終わるのが延々と続きます。記紀の中で一番退屈な個所です。加えて、神武天皇を含め、これらの天皇の在位年数~寿命がしばしば天文学的、というのは大げさですが、明らかに生物学的常識に反するものが見受けられることから、神武から崇神に至るまでの途中の時代に関しては、そもそもの存在を含め、信憑性に疑いの目が向けられています。

で、そのような「取ってつけたような」数代の天皇の記述が続いた後、崇神天皇の段になって、再び具体的かつ詳細かつエピソードに富んだ記述となります。

で、このような「取ってつけたような」数代の天皇の記述が何を意味するのか、ここでは議論しませんが、魏志倭人伝の記述が意味するところを素直に解釈すると、神武天皇がヤマトに政権を樹立してから崇神天皇に至るまでの期間は7~80 年である、誤差を加えても100 年に満たない程度なのではなかろうか?
という疑問が生じます。

ここら辺の事情は、考古学的にはどうなのでしょうかね?

少なくとも「紀元は2600 年!」というのが大げさに過ぎるのは確かである、とは思います。


崇神天皇.jpg
第十代 崇神天皇のお姿、とのことです・・・。
ウイキより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87



この過去記事について

このページには、喜源テクノさかき研究室2021年8月に書いた記事が含まれています。

前のアーカイブは喜源テクノさかき研究室: 2021年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別アーカイブ