今月の書評-110

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さて、紀元前3 世紀頃ともなりますと、さすがに南関東太平洋岸にも水田稲作農法が伝わります。
また、岐阜~長野~北関東においても、河川沿いに水田稲作農法が広まっていきますが、これも一気呵成に広まるというわけではなく、ジリジリと、蚕食的(さんしょくてき)に広まっていったようです。
すなわち、狩猟採集+小規模な畑作を行いながら一定のエリアを移動しつつ生活していた集団の間に、あまり利用されていなかった河岸の平地~台地を切り開いて水田に作りかえて稲作をもっぱらとして生活した集団が混在していった、というカンジです。
これを裏付けるかのように、この頃の出土人骨なども、縄文形質を色濃く残す集団と弥生の形質を有する集団とがモザイク状に出土する様相を呈する、とのことです。

このようにして、徐々に本州は水田稲作農法が広まっていきます。以下、図を参照のこと。

稲作伝播 紀元前3世紀.jpgおおよそ紀元前3 世紀ころになりますと、南関東海岸地方に環濠を整えた水田稲作農法を専らとする集落が登場します。
このころには東北にはいち早く水田稲作農法が広まっていたわけですが、地方によって違いも見られます。従いまして、日本海側を通って青森まで達した水田稲作農法が南下して拡散していった可能性と、関東まで達したものが海路で一気に仙台平野に伝播した可能性と、両者が考えられると思います。


水田稲作伝播 紀元前後.jpg
先に述べたように、中部地方~北関東~東北南部においても、蚕食的な形ではありますが、水田稲作農法が伝わり、紀元前後となりますと、一応北海道と南西諸島を除く日本全国で、水田稲作農法があまねく伝わる形となります。



稲作伝播 紀元後1~2世紀.jpg
ところが紀元を過ぎて1~2 世紀もすると、どういうわけか東北北部の人々は水田稲作をあきらめ、耕作地を放棄してしまいます。度重なる水害や、太平洋岸を襲った大津波のせいだ、と考えられていますが、本当のところは分かりません。
いずれにせよ、その結果、人口希薄となった東北に、北海道から続縄文文化を継承した人々、すなわちアイヌ人が南下してきます。
当初、アイヌ人たちは水田稲作耕作を行わず、もっぱら狩猟採集に励んでいましたが、時代が下るにつれ、彼らも水田稲作農法を取り入れた結果、大和政権に対峙する勢力を形成することとなります。

これは後々に詳しくお話する予定です。


稲作伝播 古墳時代.jpg
最終的に、上図のような形で日本列島は一旦固定されます。
これに弥生文化とは全く別の時間を過ごしていた沖縄の人々のエリアが加わり、当時の日本列島全体の図となるわけです。

次回は、西日本と東日本の違いがどのようにして生まれたか、妄察していきます。




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2021年2月28日 11:22に書いた記事です。

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