今月の書評-98

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さて、紀元前後の中国の史書の中ですでに「倭人~倭国」という独立した名称が冠されていた一群の人々ですが、その理由が「この時代にはすでに列島の少なくとも西半分を版図に収めていた」ためであることは明白です。要するに、この時代において、すでに「倭国」は、少なくとも当時の半島南部の列国にとって、無視しえない「強国」となっていたことを意味します。

では、紀元前1000 年頃に北九州に水田稲作をもたらした人々は当初から「倭人」だったのか、あるいは倭人はその後に列島に入植して勢力を伸ばした連中なのか、あるいは色々な移住者が居たが、入植後、時間を経るうちに列島において混ざり合って「倭人」となったのか?

個人的には、「倭人は当初から倭人であった。その後に色々混ざるが、列島においては倭人文化が首尾一貫して優越~拡散し、その後の古墳時代へと移行していった」と考えています。さらに言うならば、北部九州~半島南部に水田稲作の技術を伝えたのも倭人そのものだ、と考えています。

以降、その理由を述べていきます。例よって、妄想です。
まずは大雑把に、あらすじを述べます。


入れ墨の風習その他の記述や人類学的証拠などから、倭人はそもそも「呉」の勢力圏であった江蘇省沿岸部に小国を形成していた部族であったと考えられ、その生業は「半農半漁」であったと思われる。
「農業」従事者は水田稲作を、「漁業」従事者は海士漁を主に行っていた。
呉の滅亡よりもはるか以前に、少なくとも一部が、半島南部に移住する。直接日本列島ではなく、まずは朝鮮半島に移住した最大の理由は、先行する東夷の部族により「海を横切れば、そこには移住できる場所がある」ことがすでに明らかとなっていたからである。
地理学的にも明らかなように、朝鮮半島は北部と南部では気候風土が大きく異なる。半島中北部は大陸的な冷涼乾燥地帯である一方で、南岸部は対馬海流の影響で温暖湿潤な気候である。また、海岸部はいわゆるリアス式海岸であるため、海士漁を含む漁猟にはうってつけの場所である。
これまでの議論から、陸稲は山東半島から伝播したかもしれないが、水稲は半島南岸部より北上したと考えられる。
水稲の半島北上開始時期と列島への伝播時期とには大きな隔たりはない。
むしろ列島伝播の方が古い可能性がある。
水田稲作は、単に「稲モミを持ってくればよい」というものではない。すなわち、当時の最新技術を有する一群の専門集団が断固たる決意をもって移住することが必要である。このことを考えると、いきなり北九州の地に呉の沿岸地域から移住することは考えられない。まずは半島南岸部に居を構え、拠点を確保した後に、対馬~壱岐~北九州へと向かったと考えられる。この時、半島南部に居住していた縄文人が大きな役割を果たした可能性がある。
付帯する土器などの要素からも、大陸から直接伝播したのではなく、半島南部に、一定程度の期間、居を構えた後に伝播した可能性が高い。
半島南岸部、特に半島東南部から北九州の地が、これ以降、分かちがたく一つの文化圏を形成する点こそが、当初から「倭人」が列島に関わってきたことを強く示唆するものである。

次回、各々に関して、より詳しく突っ込んでいきたいと思います。




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年8月13日 15:47に書いた記事です。

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