今月の書評-96

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「縄文人がそのまま進化して現在の日本人になった!」とか、
「今の日本語は、縄文語が発展したものだ!」とかの説はハナから(新羅語です)無視してお話を進めていきますが、北九州に点在する紀元前およそ1000 年前の水田稲作や支石墓群の遺跡をもたらしたのが果たして言うところの「倭人」そのものなのか?というのは、実のところ、いまだ不明です。

また、この当時に北九州に定住した連中が話していた言葉がすでに「日本語」の体裁をなしていたのかどうかも、皆目分かりません。

中国の史書のうち、倭国に関する明確な記載の初出が「漢書・地理志」であり、紀元前およそ1 世紀くらい前の倭国の状況を記しています。

菜畠からは、およそ900 年くらい下った時代のお話です。

ここには「倭国は朝鮮半島より海を隔てた南にある列島に存在する百余国よりなる国家群であり、そこの住人が倭人である」、という記載があることから、「倭人」という民族の存在が認識されています。
また、その後の「後漢書」や「魏志倭人伝」などの有名な史書においても、当時の列島は「多くの小国に分裂して戦争ばかりしているにもかかわらず、これらの小国もまた倭人の国であり、その東には種を異にする人々が住んでおり、これらの倭人は朝鮮半島南部にも多く見られるが、韓人とは風俗を異にする」ことが明瞭に描かれています。

すなわち、紀元前1 世紀くらいにおいては、すでに「倭人」と「韓人」との民族学的な区別が明瞭に認識されていた、ということを意味します。

で、考察すべき重要な点がここで出てきます。すなわち、「韓人とはなにか?倭人とどこが違うのか?」ということです。

この時代にはすでに倭人は列島の、少なくとも西部を、版図としていたわけですが、単純に「列島を拠点としていた連中が倭人であり、半島南部を占有していた連中が韓人である」ということでしょうか?
もともとは同じ輩であったがその後に分かれた、ということなのでしょうか?
それとも元から異なっているのか??

そもそも「韓」は何を表しているのか???
民族名なのか地域名なのか???



で、ここで簡単に、考察のための基礎知識として、古代の朝鮮半島の歴史について古い順に見てみたいと思います。以下。

檀君(だんくん)朝鮮時代:神話であるのが明らかなので、省略。

箕子(きし)朝鮮時代:紀元前12 世紀頃に建国~紀元前194 年に滅亡。
商(殷)の滅亡後、商の高官であった箕子が周の配下となり、周王の命を受け、一族を伴って現在の北朝鮮一帯に建てた国。
「朝鮮」という名称は司馬遷の「史記」において(紀元前91 年頃)箕子への言及で使用されていますので、たぶん、この時代から使われ始めた言葉だと考えられます。その意味に関しては色々言われてますが、どうでもよいです。
箕子朝鮮時代の半島の状況に関しては、下図を参照のこと。

きしちょうせん.jpg
紀元前1000 年頃の半島の状況。 ウイキペディアより。


朝鮮半島初の「まっとうな」国家が箕子朝鮮であり、1000 年もの長きにわたって半島北部に一定の勢力を保っていたわけですが、その出自が中国系であることから、現在の韓国や北朝鮮ではその存在を認めたがらないようです。
また、中国系の人々の移住がこの時代から間断なく行われてきた結果、「今月の書評-70」で指摘したように、現代韓国人のポピュレーションにおけるO2 の割合は50% にものぼる結果となっています。

上図の箕子朝鮮の南に「辰国(しんこく)」というのがありますが、これの実在に関しては異論が多いようです。司馬遷の「史記」において「半島南部には数多くの小国があった」との意味の記載がその後に誤って模写された結果、あたかも辰国という一つの大国が存在したかのように流布してしまった、との説がウイキに載ってます。その通りだと思います。


衛氏朝鮮(えいし)ちょうせん: 紀元前195 年に建国 - 紀元前108 年に滅亡
箕子朝鮮が滅びたのが紀元前195 年ですが、それ以前の長きから、この地域は当時の北国の雄である「燕(えん)」の支配下にあったようです。
その後、燕は秦によって滅ぼされたりまた復活したりで色々あるわけですが、中国本土での度重なる混乱に伴って、この地には中国難民がさらに流入してきます。そんな難民の一人である衛氏によって、箕子朝鮮の当時の王はあっけなく滅ぼされ、ここに新たに衛氏一族による統治が始まります。首都は現在の平壌です。けれどもその後に漢の武帝から生意気だと言われて兵を差し向けられ、さっさと滅んでしまいます。朝鮮の歴史の中では全然面白くもなんともない時代ですので、すっ飛ばしてください。


漢四郡時代:紀元前108 年~紀元313
漢は、衛氏朝鮮を滅ぼした後、この地に楽浪(らくろう)郡、真番(しんばん)郡、臨屯(りんとん)郡、玄菟(げんと)郡の四郡を置き、実質的に朝鮮半島中北部~満州を植民地化してしまいます。
この後に半島南部は馬韓、弁韓、辰韓の三韓時代となって植民地を圧迫。紀元82 年には真番郡と臨屯郡を廃止する一方、漢朝末期には楽浪郡南部に帯方(たいほう)郡が置かれ、三韓と対峙する形となります。
その後、紀元313 年に高句麗によって帯方郡が滅ぼされ、中国王朝による植民地支配は、ここに終わりを告げることとなりました。

楽浪郡.jpg



三韓時代.jpg



三韓から三国時代:大体紀元前1 世紀から百済滅亡の7 世紀くらいまで
三韓とは漢の植民地によって分離された半島南部に鼎立(ていりつ)した馬韓、弁韓、辰韓の三国のことで、各々が多くの小国によって成り立っていました。
で、言語~風俗など、それぞれに違いがあったことが史書に記載されていますが、どれも「韓」という文字が付いている・・・。

ここに一つの手がかりがあるような気がします。

これらの小国の中から、馬韓では百済(くだら)が、辰韓では新羅(しらぎ)が台頭し、これらの地を支配することとなります。
弁韓の地では、倭国が勢力を伸ばします。
一方、半島北部では、当時の満州の大国であった扶余の流れをくむ高句麗が台頭し、中国王朝の植民地をことごとく滅ぼし、ここに高句麗、百済、新羅の三国時代を迎えることになります。
倭はこの地に任那(みまな)日本府を維持し、しばらくは比較的大きな影響力を及ぼすこととなります。

まことに簡単ながら、本日はここまで!

三国時代.jpg
紀元5世紀ごろ ウイキより




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2020年7月25日 10:13に書いた記事です。

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