今月の書評-54

| | トラックバック(0)
中部電力前髪チームは初戦の連勝後に連敗し、予選突破なるかどうか、ハラハラドキドキの今日この頃でしたが、昨日の中国戦に大勝利!
みごとに決勝トーナメントに勝ち進んで、今日もルンルンのセンセです(その後にロシアに大差で勝ち、ルンルン倍増のセンセでしたが、今さっき三位決定戦でK 国に最終エンドで敗れた!・・・だから早い段階で左横の2 個の石を抜いておけ!とTV の前であれほどひとりほざいていたのに・・・いうことを聞かないもんだから・・・)。

さて、「今月の書評-48」でもご紹介したように、現在の東アジアを彩る住民の多くは過去に東南アジアのスンダランドに端を発し、その後に北上して勢力を伸ばした連中です。
始めにYDNAD が、次にC が、その後にON が拡張しましたが、中でもON は、その後に現代文明の礎ともなる古代文明を大陸に築き上げた連中です。
長江文明と黄河文明については「今月の書評-5051」で述べましたが、本日は「遼河(りょうが)文明」についてお話します。知ってる人は知ってると思いますが、知らない人は知らないという、驚くべき事実が満載です!



およそ今から2 万5000 年くらい前に中国内陸部四川省あたりから北上を開始したと思われるN 連ですが、その後、現在の遼東半島の西、遼河(りょうが)流域に定着。ここに、後の世に遼河文明として知られることとなる古代文明を築き上げました。場所は下図の赤丸あたりです

遼河-3.jpg
遼河文明の遺跡を最初に発見したのは、戦前の日本の人類学者、鳥居龍蔵です。
現在の遼寧省西部~内モンゴル自治区に属する紅山後(こうざんご)遺跡の発見により、その後に紅山文化と呼ばれる文化の存在が確認されました。今からおよそ6700 年くらい前(紀元前4700 ~紀元前2900 年頃)に登場したと目される文化です。

その後、戦後に精力的に発掘調査が行われた結果、この地域における最古の古代文明遺跡とみなされる興隆窪文化(こうりゅうわぶんか: 紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)、新楽文化(しんらくぶんか:紀元前5200年頃-紀元前4800年頃)、趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか:紀元前5400年頃-紀元前4500年頃)が続々と発見され、まとめて遼河文明と呼ばれるようになりました。

現在のこの地域は、日露戦争での203 高地の映画などでもおなじみのように、冷涼乾燥の荒涼とした地域ですが、当時は温暖湿潤であったらしく、畑作とブタやヒツジを中心とした畜産が経済活動の主体であったようです。

日本列島は縄文の時代です。

中でも紅山文化の時代が最盛期であったようで、紅山文化を代表する遺跡からは墳墓や祭壇と共に神殿と目されるものが数多く見つかり、そこからはヒスイでできた動物型の飾り物や、これもヒスイの目を持つ陶器製の女性の面、長さ5 m近くにも及ぶ陶器の人物像などが見つかりました。
さらに、これらの神殿は、後の世でいういわゆる「風水」に従って建てられている事も分かりました。

こうざんぶんか-1.jpg
ヒスイの目を持つ女性 https://ameblo.jp/dzf999tea-party/entry-12339524165.html


特筆すべきは、中国の象徴でもある想像上の生き物、龍 をモチーフとした飾り物が数多く出土したことで、風水思想と共に、中国文化の核が紅山文化において生まれた可能性があることです。
およそ同時代の黄河流域では、黄河文明の一つである仰韶文化(ぎょうしょうぶんか:今月の書評-51 を参照)が隆盛を迎えた頃ですので、両者大いに影響を及ぼしあった可能性は想像するに難くありません。当然、諍い(いさかい)もあったことでしょうが・・・。

これらの遼河文明は縄文人にも影響を及ぼしています。

今月の書評-20」で述べたように、7000 年くらい前の喜界カルデラの大噴火により、九州の縄文人の一部が半島に避難した可能性があります。紅山文化に先立つ興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)の時代です。
で、当時の遼河文明域で用いられていた土器が櫛目文(くしめもん)土器と呼ばれるもので、興味深いことに、シベリア各地から果てはバルト海沿岸~フィンランドに至るまで見いだせる形式の土器です。そして、その最古のタイプのものが、ここ遼河流域で発掘されています。

この櫛目文土器ですが、「今月の書評-26」で紹介した、当時の縄文土器の一形式である曽畑式土器(そばたしきどき)に大きな影響を及ぼした土器であることが指摘されています。
すなわち、半島に渡った縄文人と遼河流域のハプロタイプN の連中とが、当時、会遇した可能性が大いにあるのです!
加えて、その後の三内丸山や亀ヶ岡文化にも当時の大陸文明の影響が見られますので、「縄文文化は列島内に限局した閉ざされた文化であった」、というわけでは決してない!と考えられます。


さて、そのような遼河文明を築いたN 連ですが、彼らの軌跡を調べると、実に驚きの結果となりました↓。

YDNA Nと遼河文明-4.jpg
東南アジアのスンダランドに端を発したNO から分岐したN 連ですが、遼河流域に古代文明を築いたのち、その後の環境の変化(冷涼乾燥化:縄文文化衰退の要因の一つ)に加え、恐らくは周囲のツングース系(C) や黄河文明の O 連との争いに敗れ、四散していきます。
一部は山東半島周辺に、一部はモンゴル高原に、そして一部はシベリアを北上後に西方に向かい、なんと、現在のフィンランドを形作る住民となるのです!

もう5 年も前に「お焦げとガンについて」というタイトルのブログのシリーズを書きましたが、その中の「お焦げとガンについて-11」でフィンランドの特異性を示しました。スウエーデンやノルウェー、デンマークなどと似たような国旗ですし、顔つきなども日本人には到底区別できませんけど、言語は全く異なります。

ケッコネンやカッコネン、ナンヤネン?なんつー名前でおなじみですね!

で、彼らはいわゆるウラル語族に属する人々ですが、同語族に属する民族には極北の遊牧民であるサモエードなどがいます。フィンもサモエードもYDNAN が優勢ですので、遼河流域からシベリアを渡り、スカンジナビアにたどり着いた人々と考えられます。
先に述べた櫛目文土器の分布も、この流れを裏付けます。

で、も一つのウラル語族としてはハンガリーを構成する主要民族のマジャール人がおりますが、実は彼らにはN の要素が少ない。
世界史で必ず習う「匈奴(きょうど)」ですが、当時は「フンヌ~ヒュンヌ」とか発音されていた可能性が指摘されています。
で、フンヌからフン族が連想され、「フン族の土地=フンガリア=ハンガリー」となるわけですが(フィンランドのフィンも同じ連想)、先に述べたようにマジャール人にはN が少ない・・・。

中央アジア~シベリアの広大な原野では、石器時代から現代に至るまで、数多くの民族~文化~言語の接触~拡散~消滅があります。
これに関して調べていくとめちゃくちゃ面白いのですが、このシリーズは日本人の起源に関するものですので、あんまり話が広がりすぎるのもナンでして、マジャール人の謎に関しては、このレベルでオシマイにしたいと思います。
マジャール人のマジャール(Magyarok)という言葉はモンゴール(Mongol)に関連する、という説もありまして、個人的には遼河文明とも何らかの関連があるのでは?と考えていますが、さて・・・。





トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 今月の書評-54

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.kigen-technosakaki.jp/mt/mt-tb.cgi/230

この記事について

このページは、喜源テクノさかき研究室が2019年3月23日 10:52に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「今月の書評-53」です。

次の記事は「今月の書評-55」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。