今月の書評-39

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さて、アンダマン諸島の諸部族について少し調べてみました。

ウイキによると、アンダマン諸島の部族は大アンダマン系とオンガン系の2 グループに大別され、D* のYDNA を持つのはオンガン系のみだそうです。また、彼ら のD* の保有率は100% に達するとのことでした。
ということから、出アフリカ後、大アンダマン系の人々はインド亜大陸南岸沿いに到達したのに対し、オンガン系の人々は、「今月の書評-37」で示したように、チベットから南下して渡航してきた可能性があります。
一方で、mtDNA を見てみると両者共に南経路のハプロタイプに属するとのことですので、これはセンセが先に考えた説を大いに補強する結果となっています。

なんだ、やっぱし東南アジアで女房を乗り換えたんじゃん!

ま、それはさておき、残された写真などを見ても、アンダマン諸島住民は部族ごとに顔立ちもナカナカ異なっています。これは台湾のいわゆる「高砂族」などと呼ばれていた先住民にも当てはまることで、明治時代頃に撮られた台湾先住民の写真を見ると、顔立ちなども各部族ごとに特徴があります。当然、言語的にも単なる方言以上の違いがあったかと思われます。で、このような特徴は、当然ながら、縄文時代のご先祖さまたちにも、ある程度、当てはまると思われます。(アンダマン諸島住民の写真、ここにいくつか掲載したいのはヤマヤマなんですが、その~、NHK とは違って皮や草のブラジャーしてないので、涙を呑んで載せません。どうぞ各自でググってください。)

と、いうことから、YDNA のD を有する連中は東南アジアあたりで女房を乗り換えた後、南に向かった一派はオンガン族に、北に向かった一派は日本列島に到達後に縄文人になったと考えられます。

では、アイヌ人は何処から来た?樺太経由か?朝鮮半島から渡来した連中が津軽海峡を渡ってそのままアイヌ人となったのか?
もしも旧石器時代の人骨が日本列島~樺太~シベリア~朝鮮半島などから出土し、DNA 分析が可能なほどに状態が良かったならば、恐らくは、決定的な確証が得られるでしょうが、残念ながら全く得られていないので、石器その他の状況証拠だけで推測していかなくてはなりません。で、整合性~可能性~合理性がより高い推論をもって結論付けたい、と思います。

本州と北海道、どっちが古い?
日本列島にたどり着いた旧石器時代人ですが、北海道とその他の列島と、まずはどちらに先に到達したのか?これを知るには、これまでに全国から出土した旧石器時代(当然ホモサピエンス)の遺跡の年代を調べれば分かりそうです。

で、長野県の野尻湖畔から出土したナウマンゾウの殺戮現場が最も古そうで、これはおよそ4 万年前と見積もられています。
他にも3 万5000 年前の遺跡がいくつか発見されていますが、全て北海道以外の場所であり、加えて、これらの古い遺跡から出土する石器類はすべて南方系の特徴を有するものだそうです。

北海道で最も古いと考えられている遺跡は帯広市の「若葉の森遺跡」で、ここから出土した黒曜石でできた石器類はおよそ3 万年前と見積もられました。また、これらの石器は全て黒曜石から得られた剥片ばかりで、二次加工もなく、単純な形式のものが大部分であるとのことです(下の写真)。

若葉の森遺跡-2.jpg
「帯広の遺跡」より http://www.octv.ne.jp/~hyakunen/iseki-guide.htm#wakaba

現在までのところ、北海道から出土した旧石器時代の遺跡の多くは古くて2 万5000 ~3000 年くらいのものであり、3 万年と見積もられる若葉の森遺跡は例外的だと思われます。

で、この項の結論。

「旧石器時代人は、東南アジアで培った石器文化を伴ったまま、まずは朝鮮半島から九州に上陸、その後に本州全体に広がった。その後、少数の連中が津軽海峡を渡って北海道に到達した可能性は、ある。」

石器の形式と旧石器時代の文化圏
少数の旧石器時代人が津軽海峡を渡って北海道に到達し、そこで人口を増やして後のアイヌ人となったとするならば、この時代の本州、特に東北地方と北海道の間で文化の連続性が見いだせるはずです。
で、この時代の文化と言ったって「石器」とか「狩猟わなの跡」とか「石焼料理の跡」とかで判断せざるを得ないわけですが、石器の分析がずいぶん進んでいるので、これに基づいて推論してみたいと思います。

先に述べたように、3 万年前の遺跡が一点見つかっているとはいえ、北海道の旧石器時代の遺跡の多くは2 万5~3000 年前以降のものが大部分です。
その一方で、その他の列島各地では、3 万4000 年から2 万7~9000 年前の時代において、すでに「日本独自」とも考えられている特有の形式をもった石器が作られるようになりました。いわゆる「ナイフ形石器」です。

ナイフ形石器-2.jpg
「カチカチ石器づくり」より https://blogs.yahoo.co.jp/hard_6shale_7collector_8/38842854.html


ナイフ形石器はいわゆる「石刃(せきじん)」技法で作られた石器で、日本列島の周囲からはあまり出土しないため、列島独自に発達した石器と考えられています。石刃技法とは、これまでの石器が破片を捨てて残った核を主体に使用していたのに対し、捨てていた鋭利な破片を石器として利用しようと考えだされた技法です。これをさらに進化させたものが「今月の書評-11」でご紹介した「細石刃」技法で、マリタ遺跡に住んでいたマンモスハンターの連中を通して列島に伝わったと考えられています。

で、今月の書評-10」でもご紹介した今からおよそ2 万7~9000 年頃前の「姶良カルデラの大噴火」以前の時代には、北海道ではナイフ形石器は未だ作られておりません。

姶良カルデラの大噴火によって西南日本は壊滅的な状況となるわけですが、これを境にして、日本列島の旧石器時代は大きな変化を迎えるように思えます。
まず初めに、ナイフ形石器がさらに進化すると同時に、この時代も後半期になると、尖頭器(せんとうき、ポイント)と呼ばれる新しいタイプの石器が登場するようになりました。両者共に棒の先端に取り付け、大型獣を狩る際に用いられたと考えられています。

尖頭器-2.jpg
こういうカンジです。「旧石器時代の教科書」より http://palaeolithic.jp/primer/4/index.htm 


また、この時代から石器の形式に地方色が見られるようになり、特に東日本と西日本で明白な差が生じるようになりました。このことから、現代に至るまで続く日本列島の東西文化の違いというものが、実に旧石器時代にさかのぼる可能性が指摘されています。

なぜこの時代に東西文化の差が生じたのか定かではありませんが、姶良カルデラの大噴火による植生や動物相の変化~西南日本の人口希薄化~旧石器時代人の移動、東日本への人口集中~植生が回復するにつれての朝鮮半島からの旧石器時代人の新たな流入、などが考えられます。
また、この時代の北海道では、広郷型(ひろさとがた)と呼ばれる独自の形式をもったナイフ形石器が作られるようになりました。

で、この項の結論。

「姶良カルデラ大噴火以前の北海道は人跡まばらの状況。出土する石器にも先進的なナイフ形は未だ見られない。噴火以降、独自性の強い広郷型と呼ばれるナイフ形石器が見られるようになるが、この頃までは、北海道は他と比べ、むしろ人跡未踏の地のイメージが強い。」




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このページは、喜源テクノさかき研究室が2018年11月24日 17:46に書いた記事です。

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