今月の書評-33

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縄文時代の人口は、発掘される時代時代の住居跡の数に仮定の居住人数を掛けて見積もられます。
最盛期には日本全国で26 万人にも達したと考えられる縄文人口ですが、縄文後期(3300 年前)になると減り始め、晩期(2900 年前)では7 万5000 人程度にまで減少してしまいます。いったい何があったのでしょうか?

● 縄文後期、なんで急激に人口が減少した?
特に長野を中心とする中部地方で、極端な人口減少が生じました。

大局的には、気候変動による植生の変化で説明されています。
環境考古学者の安田喜憲氏によれば、4000 年くらい前に温暖な時代は終了し、さらに3000 年前になると寒冷~乾燥した時代に突入した、とのことです。
実際、三内丸山遺跡から得られる花粉情報(鼻炎とは関係ありませぬ)によれば、あれだけ豊富だったクリの花粉が一気に影を潜め、代わってトチノキの花粉が増えてきます。同時期に海水面も大きく下降しているので、この当時、寒冷~乾燥化が進んだのは確かなようです。

興味深い点は、常識的には寒冷化が最も影響すると考えられる東北地方の人口はあまり減らず、中部地方、特に長野県で激しく減少している点です。
長野の諏訪~伊那谷~八ヶ岳山麓辺りは縄文中期には日本有数の人口稠密地帯であったにもかかわらず、後期から晩期にかけてゴーストタウン化してしまいます。縄文後期、関東もまた人口を減らしますが、どういうわけか貝塚の数は増加し、貝塚の規模も拡大するという摩訶不思議な現象が生じます。さらに、これまで人口が希薄だった西日本では、後期から晩期にかけて、逆に人口が増加に転じます。

但し、西日本の人口増加の程度は大きなものではありません。従いまして、日本列島の総人口は激減することとなります。

これらのことをどのように見ていけば良いのでしょうか?

まず、三内丸山の花粉情報から、クリへの依存が断ち切られたことは明らかです。クリ花粉に代わって登場するトチの実ですが、普通のドングリとは異なり、アク抜きの際に木灰(アルカリ)による処理を必要とするなど、デンプン採取に手間がかかるそうです。その結果、この時代になってようやくトチの実の利用が可能となったと考えられています。必要は発明の母ということで、生き抜くために一所懸命工夫をこらした結果なのかも知れません。

そうなりますと、東北のトチのアク抜き技術が長野に伝わらなかったのでしょうか?いやいや、縄文の情報伝達を考えると、それは考えられないでしょう。

また、落葉広葉樹の中でも比較的暖かな環境を好むと言われるクリですが、寒冷化が進んだと言っても再び氷河期に逆戻りしたわけではないのですから、普通に考えればクリの至適生息域が青森から南下するだけ、とも言えます。

一つの考え方として、クリがクローン化していた、というのも面白い仮説だと思います。仮に三内丸山の栗林が接ぎ木によって作られたものだとしたら、大いに可能性があります。
環境が適する場合、クローン生物はあっという間に生息数を拡大しますが、わずかな環境の変化でこれまたあっという間に数を減らしてしまいます。1000 年も続いた東北の栗林ですが、直接的には病害虫が関連しているのでしょう。けれどもそのような病害虫によって一気呵成に絶滅がもたらされたとするならば、その事実そのものが、三内丸山のクリの遺伝的多様性の喪失を示唆するものです。このような出来事は人類の歴史の中で良く起きることで、19 世紀のアイルランドで生じたジャガイモ飢饉が有名ですね。

日本人の好きなソメイヨシノも、ことによると、ちょっとした環境の変化で一気にやられてしまう可能性、無きにしも非ずです。

でも東北の縄文人口はあまり減らずになぜ長野で激減したのか、これだけでは説明がつきません。
晩期になると大陸から系統の異なる人々(弥生系など)の流入があったから、彼らを通じて縄文人が未だ免疫を持たない疫病が伝わった、という説もありますが、それならば西日本で逆に人口が増加した現象の説明がつきません。弥生系の人々、北九州から広がりますので・・・。

三内丸山は別として、東北は広い地域に比較的分散して住んでいたので食料圧が高まってもナントカ耐えることができたけれど、長野は諏訪~伊那~八ヶ岳山麓など、比較的狭い地域に当時最高の人口が密集していたので、圧がもろにかかってしまった。加えて飢饉に疫病はつきものですので、それで一気にやられてしまった。疫病の種類は分かりませんが、それほど伝染性が強いものではなかったので、東北地方に至ることはなかった。・・・などと考えてみてはいかがでしょうか・・・。
クリやジャガイモと同じく、ハプロタイプからみても遺伝的多様性に富んでいたとは思えない縄文人ですし、土偶や石棒、イノシシ祭りなどを見ても出産率の低下に悩んでいたと考えられますので、現代から見ればつまらない伝染病でも、彼らを壊滅させるのには十分な力を持っていたのかも知れません。

また、長野で人口崩壊が始まっている最中に、なぜ関東では貝塚数が最大化し、規模も大きくなったのか?

恐らくは、長野からの難民が流入し、一時的に人口が増加したのではないのでしょうか?加えて海面が下降してしまいましたので、良い漁場も失われていった。そうなりますと海に対する単位面積当たりの収奪圧力はかえって高まりますので、貝塚の数も規模も逆に増加する。けれどもそれは長続きしないので、最終的に関東地方の人口も激減した・・・。

要するに、縄文バブルが弾けた!ということです。

面白いことに、東北地方ではこれ以降、亀ヶ岡文化という縄文の最後を飾る高度な文化が花開きます。火星人説で有名な「遮光器土偶」が代表ですが、その他にも酒器や漆細工など、独特の魅力に富んだ遺物が多く出土するようになります。
クリが失われても知恵と工夫でナントかバブルの崩壊を乗り切った東北ですが、このような亀ヶ岡文化は東日本の縄文難民と共に列島を南下し、果ては沖縄にまで到達することとなります(今月の書評-31)。

遮光器土偶.jpg
遮光器土偶 ウイキペディアより 


そしてまさにそのような頃、海の彼方から新たな文化を持つ人々がやってきました。弥生人の到来です!


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このページは、喜源テクノさかき研究室が2018年8月15日 10:36に書いた記事です。

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