今月の書評-27

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そうなりますと、旧石器時代から縄文時代にかけて先島諸島に住んでいた人々は、以降の先島諸島人の直接の祖先ではない!と、ほぼ断言できます。
一方で、縄文時代に沖縄本島に住んでいた人々は、九州から南下してきた縄文人が主体を成していたと思われます。下図のカンジです。



東アジア 縄文中期-2.jpg
白保から出土した4000 年前の人骨のmtDNA 分析からはM7a が検出されており、これは南方縄文人の標識みたいなものですから、少数の縄文人は先島諸島に到達した可能性があります。
また、東南アジア由来のB4 は沖縄本島から日本列島まで(マイナーではありますが)見られることから、やはり黒潮ルートも存在したのでしょう。

大変興味深いのが、前回紹介した曽畑式土器(そばたしきどき)に関するお話です。
曽畑式土器は喜界カルデラの大噴火のほとぼりが冷めた後に九州熊本で生まれ、その後に沖縄本島に伝わりました。そしてこの形式の土器は、朝鮮半島南部の櫛目文土器(くしめもんどき)の影響を受けて作られたと考えられています。こう書きますと、朝鮮半島に住んでいた「当時の朝鮮縄文人」の陶工のような人々の文化が伝来したかのような印象を受けますが、それはその後の弥生文化伝来の印象に引きずられたものです。
今月の書評-20」でも示したように、喜界カルデラの大噴火後、九州の縄文人は朝鮮半島に逃げた可能性があります。そしてその後、朝鮮南部と北九州は一つの文化圏を形成した可能性が強いのです。
これは土器の形式だけでなく漁労文化などにも顕著に表れ、加えて朝鮮南部から出土した当時の人骨は縄文人特有の形質を色濃く反映し、抜歯(ばっし)なども見られるそうです。
となりますと、少なくともこの時代においては、北九州と朝鮮南岸地方は一つの文化圏として捉えるのが合理的だと思います。
さらに、この時代ともなりますと、航海術もより発達し、旧石器時代にはナカナカ通行困難だった沖縄本島~宮古島~石垣島航路も、一応は渡航可能となったようです。北九州~朝鮮南岸~五島列島~長崎半島あたりを頻繁に行き来していたと考えられる連中ですから、結果、渡航術も大いに鍛えられたのでしょうね!

このような縄文人の渡航術と漁労術ですが、時代が下っての弥生人にも大いに引き継がれた可能性があります。これはまた後ほど・・・。

いずれにしましても、縄文時代の沖縄本島には九州由来の縄文人が主体となって住んでいた一方で、同時代の先島諸島には、少数の縄文系の人々が渡来した気配はあるものの、主体としては全く別系統の人々が住まわっていたと考えられます。
また一方で、沖縄本島といえども日本の縄文文化に特有な「土偶」などは見つからず、これはこれで沖縄特有の縄文文化を形成していたようです。

因みに、考古学の世界では、日本列島の縄文時代に相当する沖縄の時代を「貝塚時代前期」と呼んでます。ここでは時代の流れを分かりやすくするために、文脈次第で使い分けます。

次回は日本列島の縄文文化を一通り紹介して、ひとまず縄文を終わりたいと思います。
その後は弥生時代となりますが、これがまた難問ぞろいの時代でして、一筋縄ではいきませぬ・・・。
けれどもそこがまたセンセの「妄想」が遺憾なく発揮される場となりますので、いまから楽しみではあります。



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このページは、喜源テクノさかき研究室が2018年7月 7日 17:59に書いた記事です。

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