今月の書評-19

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ミトコンドリア遺伝子分析(mtDNA)の続きです。

前回お話したように、縄文遺跡から発掘された人骨から直接DNA を調べることができる(確率が高い)のが、mtDNA 分析の最大の利点です。
また、母系遺伝をする点にもご注意ください。

縄文早期~前期の長野~富山~青森の遺跡から出土した人骨からの試料はN9b のハプロタイプを持つ例がほとんどで、他にはM7a のハプロタイプを持つものが数例でした。

このN9b M7a の両者が縄文人のmtDNA を代表するハプロタイプで、現在の朝鮮半島や中国大陸などにはほとんど見られないタイプです。すなわち、YDNA において縄文人を特徴づけるD2 に相当するものです。 

縄文中期になりますと、遺跡の数も増えます。特に興味深いのが北海道の礼文島から出土した例で、これにもN9b M7a の両タイプが見られます。中期の出土試料のほとんどは東北を中心とする東日本からのものですが、必ずこの両ハプロタイプが優勢に検出されます。割合としては、N9b が6 割、残りがM7a ということでした。
篠田謙一氏は、著作「DNA で語る 日本人起源論」の中で縄文人mtDNA の多様性を強調されてますが、氏が示されるデータを素直に読むと、N9b M7a の両タイプが圧倒し、寧ろ多様性に乏しい印象を受けます・・・。確かにマイナーなハプロタイプも混在してますが、N9b M7a に埋没しているカンジです。

今後アイヌや沖縄のお話もしていく予定ですが、両者とも、時代が下るにつれてドンドン多様性を増していきます。にもかかわらず、両者ともに縄文人としてのアイデンティティーをズルズル引きずって今日に至っているところが、誠に興味深い点ではあります。

さて、これもまた興味深いことに、縄文時代の沖縄からの出土例はすべてがM7a で、N9b は見られないということです。
また、シベリア沿海州周辺にはN9b を持つ先住民集団が存在することから、N9b は北方由来、M7a は南方由来のハプロタイプであると考えられます。

となりますと、南からはM7a を有した人々が列島に流入し、陸続きの樺太からN9b を有した人々が北海道から東北を経て列島を南下して、両者が列島中央で混じた、というシナリオが描けます。

残念なことに、 西日本縄文遺跡からのmtDNA 試料は現時点ではほとんど得られていないため、この点、ミッシングリンクとなっております。

一方で、次のようなシナリオも描くことができると思います。

M7a を有する南方からの集団がその後にN9b を有する集団と大陸において混じ、両者が混在する集団が朝鮮半島~樺太から流入した、というものです。
N9b は北由来、M7a は南由来ですから、朝鮮半島経路と樺太経路で両者の割合は異なっていた(樺太経由N9bM7a 、半島経由N9bM7a )はずです。
旧石器時代の細石刃文化は樺太のみならず北九州を通しても伝わったことを考えますと、可能性としてはこちらが高いように思えます。また、礼文島という日本における極北の果てから得られた試料においてもM7a が検出されている点を考えましても、こちらの説に軍配が上がるのでは?と思います。

また一方で、そもそもYDNA のD2 は南方由来と北方由来の両者ともに共通し、かつ多数派である点を考えると、N9b の人々もM7a の人々も、男性軍は共通してD2 であったと考えられるわけです。であるとすると、N9bM7a の両者が全く由来の異なる人々であったと考えるのはおかしいです。

M7a が南方由来で沖縄縄文人はほぼ100% このタイプであることは理解しやすいのですが、ならば、N9b の人たちってどこから来たのでしょうか?

篠田謙一氏の本では、少なくとも東アジアの現代人の祖先はすべて東南アジア由来であるとのことです。であるとしたら、N9b の人々もまたM7a とは別系統で古い時代に北へ向かった集団だったと思われます。そして、アイヌのご先祖様を始めとして縄文人のmtDNA の多くにN9b が優越的に見られるわけですから、形質的にもN9bM7a 共に多くの共通点を有していたと思われます。

従って、そもそも東南アジアから出発した時点において、N9bM7a 両者混在した集団として北上を開始した可能性もあると思います。
何らかの環境因子、あるいは偶然が作用して、北上に伴ってN9b が優勢になっていった、などという仮説が建てられます。例えば、「N9bM7a よりも寒冷環境に適応する能力が強かった」、などという例です。
すなわち、最も古いM7a を有する人々がまずは沖縄に達し、主流派はさらに大陸の海岸沿いを北上して朝鮮半島から列島に至り、さらに残りは沿海州を伝って陸続きの間宮海峡に至り、そこから樺太を伝って南下した、その途次において、N9b タイプが優勢となった、というシナリオです。
N9b を別グループの人々と仮定すると、かえって何かと説明に不都合な点が出てくるように思われます。

この点を明らかにするには、いずれにしましても、西日本の縄文人骨からの分析、すなわちミッシングリンクの発見が待たれます。



興味深いことに、YDNA では、縄文由来のD2 が現代日本人男性においても未だ多数派(およそ4 割)を占めますが、mtDNAではM7a は7.5%、あれほど多数派であったN9b は、わずか2.1%しか現代人には認められません。
一方で、大陸~朝鮮半島由来のD タイプのmtDNA (弥生由来であると考えられます。YDNA のD2 ではありませんので、ご注意を!)が4 割弱を占めます
これを素直に読み解くと、次のようなシナリオが描けます。

1) 弥生期になって半島から渡来したものの多くは女性であった。
2) 縄文の男はこぞって弥生系の女性を女房にした。
3) 縄文後期~晩期の人口停滞~減少と何らかの関連がある?

1 の可能性は低いと思われますが、2 と3 はあり得るかと個人的には考えてます。

縄文後期から晩期にかけては縄文人人口が停滞~減少した時期です。
気候変動による食物の減少など、何らかの原因が考えられますが、可能性の一つとして、縄文人が遺伝子レベルで均質化し(多様性の喪失)、出産の減少や乳児の死亡率が高まった、という仮説を提出しても良いかと思います。


縄文時代を特徴づける数多くの土偶や男性の生殖器を模した石棒など、これらがより多くの出産~健全な発育を望むための象徴であったのは間違いありません。

土偶.jpg
縄文のビーナス ウイキペディアより

sekibou.jpg
石棒 ネットからの頂きものです。https://www.google.co.jp/search?q=縄文+石棒&sa

また、縄文時代には「イノシシの祭り」が盛大に行われ、そもそもイノシシが住んでいない北海道にわざわざ生きたイノシシを運び、祭った証拠があるくらいです。イノシシ祭りの本体は分かりませんが、現在でもアイヌの間で行われるイヨマンテのようなもの、と考えられています。イヨマンテではヒグマが用いられるわけですが、イノシシ祭りではイノシシを用います。

では何故イノシシ?ということですが、当然、多産の象徴ということでしょう。

これらの遺物や祭祀を見る限り、当時の縄文人においては多産が強く望まれていたと思わざるを得ません。従いまして、異種の血が混ざることによる、いわゆる「雑種強勢」が、「本能的に」、縄文晩期から弥生時代を通して列島で生じた、と考えてもおかしくはないかと思われます。そしてその場合、縄文のオトコが積極的に弥生のオンナを求めたのであって縄文オンナが弥生のオトコを求めたのではない、というのがセンセの仮説であります。ことによると、弥生オンナが縄文オトコをイケメンだと思ってこぞってひっ捕まえたのかもしれません。 

・・・妄想だけど・・・。

因みに、このような「性」にまつわるお話では、「本能」と「制度~道徳」的なもの、加えて「男女平等」的な「思想」がない交ぜとなって、未だに混沌の中での妥協点が日々図られているのが現状です。・・・余談だけど・・・。

また、今後議論していく予定ですが、弥生文化がほとんど抵抗なく縄文人に受け入れられた背景の一つとして、縄文人側が弥生文化をより積極的に求めたから、という仮説は、もっとクローズアップされてしかるべきでは?と思います。


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このページは、喜源テクノさかき研究室が2018年6月 2日 10:52に書いた記事です。

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