2018年3月アーカイブ

今月の書評-12

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スゴイニュースが飛び込んできました!
ナント、御年88歳になられる女性が博士号を授与されたということです!!
それも縄文時代の布の研究で!!!

彼女の名前は尾関清子さん。
報道によれば、縄文時代の土偶表面の模様から縄文時代の衣服に興味を持ち、研究を始めたのが昭和から平成に変わった年。
以来、積極的に日本全国の縄文遺跡を飛び回り、およそ800点以上にものぼる遺品を調べた結果、すでに縄文時代には様々な織り方が存在し、豊かな服飾文化を有していたことを明らかにしました。

いやあ~、素晴らしいですね!こういうニュースを聞くと、ナンカ、センセの場合、お尻をけ飛ばされたような気がします。60ン歳なんて、まだまだ鼻タレ小僧でござりまする・・・。


さて、こちらは未だ旧石器時代。
でも、縄文の夜明けも間近なころです。

細石刃文化を北から持ち込んだアイヌのご先祖さまが北海道から南下し、在来の東北系旧石器時代人と混合。中部地方に至ります。
一方で、同じく細石刃文化を有する新規旧石器時代人が朝鮮半島を経て姶良カルデラの大爆発の粉塵すでに収まった九州に至り、徐々に東進して行きます。
両者とも、細石刃文化を大陸ですでに習得していた人々が移住したのか、あるいは文化そのものが伝播しただけなのかは分かりません。
いずれにしましても、この北方由来の人々と、東北地方の生き残りの人々、そして半島から新たに渡ってきた人々とは、遺伝子的にも文化的にも、共通する点もあったと同時に異なる点もあった、と考えるのが自然です。
そしてその異なる点が、後々、今の時代に至るまでに連綿として続く、日本列島で認められる東西文化の微妙な違いに反映されている、というのが、センセの妄想でございます。

さて、そのように優れた細石刃文化もほどなく終焉を迎えます。そしてそれとほぼ同時期に、あの縄文文化が生まれました。両者を隔つ(へだつ)もの、そこには一体何があったのでせうか???


そもそも細石刃文化を頂点とする旧石器時代の文化は、大型獣に生活の基盤を負う、非定住性の文化でした。細石刃技術を用いた鋭利な武器も、分厚い皮膚を有する大型獣を効率よく倒すために生み出された方法です。
マンモスやオオツノジカの生態などは皆目分かっておりませんが、現代のアフリカサバンナの大型獣の行動などから推測して、彼らは広い縄張り内で季節的な移動を繰り返していたと考えられます。従いまして、ハンターである旧石器時代人はこれらの大型獣と行動を共にする必要上、定住は不可能でした。その結果、重くて割れやすい土器のような「家財道具」は、無用の長物であったと思われます。

当時の旧石器時代人の生活状況は、ちょうど昔の北米インディアンの生活によく似たものであったと思います。
北米インディアンにも色んな連中が居りまして、森林に住んでいたもの、湖畔に住んでいたもの、北西海岸で漁労を中心とした生活を送っていたもの、南西部で農業を行っていた連中、南部沼沢地で生活していた連中など様々ですので、一概には言えませんが、いまここで想起するのは、いわゆる草原インディアン、西部劇でおなじみのスー族とかシャイアン族とかコマンチ族とかの連中です。
彼らは広い草原(プレイリー)におびただしく生息していたバイソン(アメリカバッファロー)にほぼ完全に依存した生活を送っておりました。有名なティピーと呼ばれる折り畳み式のテントに住み、部族間での小競り合いを繰り返しながら、移動生活を送っておりました。
主食はバイソンの肉ですが、草原で採れる野生のカブなどもよく食べていたそうです。カブなどを食べる時は煮炊きをする必要がありますが、その場合はバイソンの皮で作った「皮の鍋」に水を入れ、下から火をくべて煮ておりました。

こんな感じです。

皮の鍋.jpg
近くで農耕を営み、定住生活を送っていたプエブロインディアンなどはアナサジ文化と呼ばれる優れた文化を発達させ、美しい文様が施された土器などを多く使用していたわけですから、草原インディアンが土器を知らなかったはずがありません。ただ単に彼らの生活スタイルには不適格であったため、採用されなかっただけの話です。

では、我が国の旧石器時代人はなぜ細石刃技術を捨て、土器を作り始めたのか。おおよそ見当がつくかと思います。

本日はここまで!

今月の書評-11

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続きです。

小学校や中学校の段階で習うと思いますが、石器は打製石器と磨製石器に大別できます。石を打ち砕く方法で作られたものが打製石器、磨いて作るのが磨製石器ですね。
一般的に打製石器の方が原始的で磨製石器の方が進化した形と言えますが、非常に古い年代の磨製石器も発掘されますし、また、何を主として食べていたかによっても違ってきますので、そう単純ではありません。
けれども、石器の形から製造工程が分かり、そこから人類の文化的進化の過程をたどることができます。

人類最初の石器はオーストラロピテクスの時代に発明されました。今からおよそ330万年も前の頃です。
この当時の石器は単に握りこぶしくらいの大きさの石の片面を打ち砕き、鈍い「刃」を付けたものでした。

こんな感じです。 

礫器.jpg
写真はウイキペディアからの頂きものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%AB%E5%99%A8


それが段々と進化していきますと、さらに細かく打ち砕いてより鋭利な刃を付けるようになり、現代のナイフのような形にまで進化します。

こんな感じです。

ナイフ形石器.jpg
写真はネットからの頂きものです。
http://www.ao-maibun.jp/tokubetu/2004-houkokukaikara/naihugata/naihugata.htm


握りこぶし大の石を打ち付けて刃を付ける
より細かく砕いてナイフのような形にする


という流れは、自然な発想だと思います。当時にセンセが居たとしても、「こうすればいいんじゃね?」とか言って、ナイフ形石器を発明することは可能だと思います。
けれども旧石器時代も終わりごろになって、全く新らしい発想による石器が生じました。それが「細石刃」です。

細石刃(さいせきじん)石器とは、石ころを砕いて生じる破片を利用したもので、「発想の転換」と言っても過言ではない石器です。
旧石器時代に東京特許許可局(とうきょうとっきょきょきゃきょ、、、きょく)があったなら、これを発明したヒトはパテントをとって大儲け(マンモスの肉10年分とか!)できたかもしれません。

基本的に従来の石器は、目的にもよりますが、石ころの核そのものを利用するものでした。核をそいでそいで最終的に鋭利な形を作る、というのが基本です。その後、そぎ落とした破片をナイフやスクレーパーなどとして利用するようになりますが、細石刃はこれをさらに発展させ、細かく鋭利にそぎ落とした剥片を寄せ集め、動物の骨や木片にアスファルトなどで接着して、一つの非常に鋭利な槍やナイフを作ったのが、細石刃の技術でした。

こんな感じです。

細石刃.jpg
ウイキペディアからの頂きもの。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8


写真じゃ大きさが分かりませんが、だいたい一片の長辺が3 cm程度の小さなものです。以下のようにして使います。

細石刃の槍-3.jpg
この方法でしたら一つの石ころから非常に多くの刃が採取できますし、また、原石の質にもよりますが、例えば黒曜石のようなガラス質の石を用いた場合などは一つ一つの細片が極めて鋭利なものとなりますので、例えて言えば、現代のカミソリの替え刃のような発想です。
でも、上の絵から創造できますが、これを食らったら相当に「痛そう~・・」。

・・・マンモスさん、かわいそう・・・

で、前回も述べましたように、これを発明したヒトはおよそ2万年くらい前のシベリアでマンモスを追ってた方らしく、欧州系のヒトでした。マンモスを追っていたエジソンおじさんのようなヒトだったのかも知れません。

で、当時の旧石器時代人は部族を問わずこの優れた方法に魅了され、たちまち世界中(正確には大型動物の狩りを主体としていた人たち)に広まることとなりました。


今月の書評-10

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みなさまこんにちは!
本日は春分の日ですが、ここ坂城では朝から雪です。
でも、典型的な春の牡丹雪(ぼたんゆき)なので、積もったとしてもすぐに溶けてしまうことでしょう。

さて、前回、日本列島には縄文時代の前に旧石器人が流入し、彼らが後に縄文人となった、というお話をしました。そして、現在の日本で見られるような「東西文化の差」がすでに旧石器時代にも認められることも述べました。
本日は、旧石器時代に生じたある出来事によってそのような東西文化の違いが生じたのでは?という、センセの仮説というか妄想というか、を開陳してみたく思います。

旧石器-1-1.jpg
上の図は、およそ4~3万5千年くらい前に朝鮮半島から九州を経て日本列島全体に旧石器時代人が拡散していったことを示す図です。一応、九州~四国~本州が陸続きだったと仮定して描いてます。いいかげんだけど。

これを見て分かるとおり、だいたい数千年かけて青森あたりまで到達したと思われますが、いまだ北海道にはヒトは居ません。
この時代、旧石器のオジサンたちは、手作りの石器を武器に、ナウマン象やオオツノジカを追って、列島各地を駆け回っておりました。




ちょうどこのような時、南九州でとんでもない事件が発生しました。
現在の鹿児島湾付近に存在した火山の大大大爆発です!!!

姶良カルデラ-3.jpg
この火山が爆発したのが今からおよそ2万9千年前くらい、と見積もられています。そしてそのときに吹き飛んだ跡=噴火口がカルデラとなり、ここに海水が流入してカルデラ湖のような形になったのが、現在の鹿児島湾=錦江湾です。今でも噴煙をあげている桜島はカルデラの外輪山、というわけです。
このカルデラ地形を、地元の名前をとって「姶良(あいら)カルデラ」と呼びます。

この前のブラタモリでも紹介されていましたね!

ちょいと想像しただけで分かると思いますが、鹿児島湾が形成されるほどの噴火でしたので、巻き散らかした火山灰の量たるや半端じゃない!空高く舞い上がった火山灰は地元九州は言うに及ばず、四国~中国~近畿を埋め尽くし、遠く東北や朝鮮半島にまで運ばれていきました。現在の地層は圧縮されていますので、これを考慮に入れて計算すると、当時の鹿児島でおよそ30 m、京都でも4 mくらいは積もったと考えられています。
また、同時に発生した火砕流も凄まじく、鹿児島県の至る所に見られるいわゆるシラス台地はその時の火砕流が堆積したもので、現在でも高さ100 mくらいの場所が見られるそうです。

姶良カルデラ-2.jpg
上の図は桜島観光ポータルサイト 「みんなの桜島」からの頂きものです。http://www.sakurajima.gr.jp/sakurajima/001323.html

上の図で黒く記されているところがシラス台地です。

姶良カルデラ-1-1.jpg
上の図はウイキペディアからです。火山灰の飛散距離と堆積量を示しています。

実際に徳之島からはシラス層の下から旧石器時代の遺物が発見されていますので、容易に想像できますが、当時西南日本に住み着いていた旧石器時代人は、ほぼ絶滅の憂き目にあったと考えられます。
また、この噴火がきっかけとなって地球規模の気候変動が生じ、一気に寒冷化が進んだと考えられていますので、直接火山灰を浴びずとも、列島の動植物の多くに多大な被害をもたらしたのは間違いのないところです。
当然ながら、当時の旧石器時代の人口は極端な東高西低となったと思われます(下の図)。

旧石器時代-2-2.jpg
東高西低というよりもむしろ、西南日本は無人~無生物地帯となったのでは?と思われますので、2~3千年くらいは無人~極端な人口減少の時代が続いた可能性があります。が、植生~動物相が徐々に戻るにつれ、東日本からは生き残りの旧石器時代人が、そして半島からは再び新規参入の旧石器時代人が移入してきました。
そしてその頃、およそ2万年くらい前から、地続きの樺太を通って、大陸から北海道へアイヌの人々のご先祖さまが渡ってきました。以下の図です。

旧石器時代-3.jpg
このような動きが安定化すると、以下のような状況に。

旧石器時代-4.jpg
縄文時代の幕開け目前の旧石器時代晩年は、おおよそこのような状況であったと考えられます。
細石刃(さいせきじん)文化は当時の最先端の文化ですが、マンモスを追って大陸を東に移動してきた欧州系の一派が、東シベリアに到達していたアジア系の人々に伝えた技術だと考えられています。この技術を持った一団が北海道に渡り、さらに列島を南下して、細石刃技術は列島深く浸透していくこととなります。
その後、別経路でシベリアから朝鮮半島に伝わった細石刃の技術は、半島から九州へと移入した旧石器人によって北海道経路とは異なるルートで列島にもたらされることとなります。

従いまして、以上のように考えますと、東西の文化が列島中央で接するのは、ある意味必然であるかと思われます。

因みに、前回も少し話しましたが、最近のDNA分析から、この細石刃技術をもたらした欧州系の人々と、東南アジアから北上してきたアメリカインディアンのご先祖さまたちとが、シベリアにおいて、相当程度に混血した可能性が指摘されています。

アメリカインディアンの鷲鼻って、そのなごりなのかも知れませんね!

次回は細石刃を中心とした石器に関して少しお話をしたあと、旧石器文化から縄文文化への移行をもたらした原因は何か、という問題について考えます。さらに、縄文人の身に再度生じた大悲劇についてもお話していきたいと思います。

本日はこれまで!

今月の書評-9

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続きです。

南からの経路としましては、沖縄列島を北上する経路と朝鮮半島から対馬を経由して北九州に上陸する経路とが考えられます。
現在ですら快晴時には朝鮮半島南岸から対馬の一部を垣間見ることができるとのことですので、海水面が低下した寒冷期においては朝鮮半島から対馬~壱岐~北九州のルートは比較的たやすく渡ることができたかと思われます。

一方の沖縄ルートですが、大陸~台湾~先島諸島までが一つとなった時期があったことを考えますと、ここまでは比較的容易に到達できた可能性があります。

つい近年、石垣島の白保海岸に作られた新石垣空港の建設現場から多くの古代人の人骨が見つかりました。年代測定から、ナント、2万年くらい前のものだそうです。従いまして、先島諸島には本土における縄文時代の前からヒトが住んでいたことは明らかですが、はたして先島諸島の旧石器時代住民がその先の沖縄本島を経て奄美大島~屋久島や種子島を通り現在の鹿児島にまで到達したのか、疑問を呈する向きもあります。

と申しますのは、黒潮が流れているので一見簡単~自然な経路にも見えますが、宮古島から沖縄本島は肉眼で見えず、また、海水面が最低になった時代でも宮古島と沖縄本島が陸続きにはなることはなかったので、仮に先島諸島から沖縄本島にヒトが移住したとしても、意図的なものではなく、遭難事故などによるものであった可能性もあります。
沖縄本島からは「港川人」と呼ばれるおよそ2万年前のヒトの人骨が発掘されていますが、彼らが日本列島の直接のご先祖さまなのかも未解決の問題です。

さらに、先年、旧石器時代人による黒潮経路を立証すべく、日本版コンチキ号とでもいうべき草船を作り、与那国島から西表島を目指して手漕ぎで到達せんとする実験が行われましたが、全くダメダメだったことも記憶に新しいところです。

個人的には「草船、ってえのは、いくらなんでも旧石器時代人に対して失礼なんじゃないのか?」と思いますが・・・。

これらを考えますと、その後の弥生人と同じく、やはり朝鮮半島からの移住経路が最も自然であると思われます。


で、およそ3万5千年前ころに北九州に到達したご先祖ですが、恐らくはスンダランドからの第一陣であった可能性があります。要するに、彼らの目の前には、少なくとも「新人」は居なかった。いわゆる「デニソワ人」と呼ばれるアジア系旧人は点在し、彼らと交わった可能性はありますが、ホモ・サピエンス・サピエンスとしては先頭集団だったと思われます。

因みに先年、台湾海峡の海底から旧人の下顎骨が発見され、比較的新しい年代のものである可能性が指摘されています。DNAの採取は難しいと思いますが、デニソワ系の方なのかも知れません。

で、先頭集団の一派が朝鮮半島から列島に移住しつつあるのと同時に、他の一派(あるいは主流派だったかも知れませんが)はさらに大陸を北上し、マンモスを追って満州から沿海州に至り、樺太北部に到達します。
大陸~樺太~北海道間は当時は陸続きでしたので、彼らはその後北海道に拡散し、津軽海峡まで到達することとなります。たぶん、その後に「アイヌ人」と呼ばれることになる人々のご先祖で、北九州に旧石器時代人が到達してからおよそ1万年くらい経ってからの出来事です。

因みに、樺太に渡らなかった他の一派はさらに北上し、その後にベーリング海峡を渡って現在のアメリカインディアンのご先祖となるのですが、その途次、マンモスを追って西方からバイカル湖周辺にまで到達していた欧州系の人々と混血した可能性が、近年のDNA分析から、指摘されています。

因みに、ちなみって言うとどうしてもカーリング女子の吉田知那美ちゃんを思い出してしまうセンセは、いまだにカーリングロスに悩まされておるようです・・・。


さて、お話は戻りまして、先に九州に到達したご先祖さまとアイヌのご先祖さまとの間には、分かれてからの1万年の間に、遺伝子的にも文化的にも幾ばくかの違いが生じたと考えられますが、この間に生じた両者の遺伝子~文化の幾ばくかの違いが現在まで続く東日本と西日本の文化の違いにつながる可能性が、指摘されています。

やっぱり、ルーツを探る作業というのは面白いですね!ワクワクします!

本日はここまで!


今月の書評-8

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みなさまこんにちは。温かくなってきましたね!
この季節になりますと例年のごとくにスギ花粉に悩まされることとなりますが、どういうわけか、ここ坂城では、今のところさほどひどくない。センセの鼻も、いまだ上下線ともにスムーズな開通状況を保っております。ま、この先どうなるか、予断を許しませんが・・・。

さて、クロボク土に端を発した古代シリーズですが、縄文人のお話です。まず初めに、1月と2月に購入した書籍をご紹介いたします。

1月分
今月の書評 180203.jpg
イモムシハンドブックを除き、日本の古代史に関する本を搔き集めてみました。
これに加え、本棚にもとからあった関連書籍を表にしました。

もとからあった関連書籍
今月の書評 180203 sp.jpgさらに2月分を加えると、
今月の書評 2月分.jpg
アイヌから沖縄まで網羅しましたので、ま、一応のお話はできるかな?

さて、縄文人を語るには、まずは日本列島に住み着いた旧石器時代人からお話する必要があるようです。
旧石器時代人と申しましても、我々の直接のご先祖さまであるホモ・サピエンス・サピエンス、いわゆるクロマニヨン人とかに代表される「新人」のお話です。

現代の我々が住んでいる日本列島にはおよそ1万年くらい前から縄文人が住み着いていたことは数多くの遺跡や人骨などから疑いのない事実でありますが、いきなり彼らが出現したはずもなく、さらに昔の時代に縄文人のご先祖さまたちが大陸から渡ってきました。
これらの旧石器時代人の人骨はほとんど残っていないので、その他の手がかりから推測していかなくてはなりませんが、その第一の候補が石器です。
で、1980~90年代には驚くべき古さの石器が日本列島各地から続々と発見されまして、「日本列島にもネアンデルタール人のような「旧人」が住んでいたのは間違いない!」などと喧伝されましたが、これがまあ驚くことに某氏によるインチキであることが2000年に判明しまして、このような単純なインチキに対する検証も出来ないような考古学の非科学性に対する批判にまで発展(ま、例の割烹着のお姉さんのお話からも分かるように、生物学も似たようなモンですが・・・)。みなさまもTVの映像などで良くご記憶のことかと思います。

で、その後に徹底した再検証が行われまして、現在では、ホモ・サピエンスとしての旧石器時代人が列島に住み着くようになったのは、おおよそ4万~3万5千年前くらいから、と考えられるようになりました。

で、3万年前くらいの最も古い旧石器時代の遺跡が、九州から東北まで、列島くまなく発見されておりますが、北海道からはこの時代の遺跡はいまだ見つかっていない。北海道で最古の旧石器時代遺跡はおよそ2万年前のものですので、旧石器時代人は、まずは南からやってきた、と考えてよさそうです。
従いまして、「今月の書評-4」で「スンダランドからスンダララッタ~とやって来たご先祖さまが何もわざわざ船を駆って危険な海を渡る必要性はなかったんじゃない?」などというのは単なる「妄想」かと思われますので、この場で訂正いたします。



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