昭和40年代:足立区の移り変わり-5

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当時の足立区の川や池、田んぼに住んでいた水生生物のお話をします。

毛長川での釣り目的は、これはフナです。大部分が銀ブナ。池などでは時折金ブナを釣り上げる事もありましたが、毛長川では99%が銀ブナ。

ヘラブナは、居るのかも知れませんが、釣ったことはありません。ヘラブナは植物質の餌しか食べないので、赤虫では釣れませんでした。

稀にコイが釣れる時もありましたが、コイを釣るときはミミズを餌にしますので、赤虫オンリーの小学生達がコイを釣り上げる事は殆どありませんでした。

クチボソも良く釣れましたが、これは毛長川よりも、水深の浅い周りの池に多く住んでおりました。

タナゴも居たようですが、これはタナゴ専門の釣り方でないと釣れませんので、センセは一度も釣り上げた事はありませんでした。一度友人がセル瓶(せるびん)を使ってたくさん獲ったのを見せて貰った事がありますが、タナゴの美しさに見とれた記憶があります。仕事をリタイアしたらタナゴ釣りに挑戦するのも良いなア、と時々考える程です。

ドジョウも時々釣れました。ぬるぬるしてるので針を外す時がやっかいでしたが、釣るのでは無く「釣れてしまう」ので、致し方有りません。

毛長川でウナギを釣ったことはありません。一つにはコイと同じく赤虫ではまず釣れない事もありますし、基本的にウナギは夜釣りですし、或いは毛長川にはウナギは居なかったのかも知れません。

メダカもたくさん居りました。もちろんオレンジ色のヒメダカでは無く、野生のメダカです。フナ釣りの足下にちょろちょろと群れておりました。ナカナカ釣果が上がらないときなどは退屈しのぎにメダカ釣りに挑戦する事もありましたが、フナ釣り用の針でメダカを釣り上げる事は困難でした。それでも時々メダカの体に針が引っかかって釣れる事もありましたが、、、。

田んぼや池には夥しい数のトノサマガエルが居りましたが、毛長川にはウシガエル、いわゆる食用ガエルがおりました。夜になるとモ~モ~鳴く、あれです。食用ガエルのでっかいオタマジャクシもちょろちょろ泳いでおりました。

タニシも川底にたくさん居りました。釣りの仕掛けが少し長すぎると餌が底を這う事になりますが、その様な時にしばしばタニシが食いつくのでした。これも釣れると針を飲み込んでフタを閉じてしまうので、その後がやっかいな連中でした。

ハヤ(ウグイ)、ヤマベ(オイカワ)の類は全く居りません。手長エビも見たことありません。殆どはマッカチン(アメリカザリガニ)でした。

時代は下ってセンセが20代半ばの頃、オフロードタイプのバイク(ヤマハXT-200)にキャンプ用品を積みこみ、キャンプしながら色々な所に釣りに出かけていた時期がありました。千葉と埼玉と茨城の三県が交差する所に関宿(せきやど)と言う場所がありますが、関宿の近くに菅生沼(すがおいぬま)と言う名前の沼地があります。一帯は間違い無く関東沖積平野の原風景を残す所で、鬱蒼とした芦原が生い茂る沼地が南北に延び、そこかしこにハンノキが生い茂り、センセのお気に入りの場所でした。要するに、田んぼが無ければ関東平野はこんな風になるのだよ、と言う事を示している場所です。
菅生沼で糸を垂らすと、専らコイ、フナ、クチボソの類が釣れますので、基本的には毛長川と変わる事は有りません。ところが一度、ハスを釣り上げた事があり、びっくり仰天致しました。
ハスは琵琶湖水系に住む肉食魚で、少なくとも当時の関東にはまず居りません。成長すると30cm以上にもなりますが、センセが釣り上げたものは10cm程度のハスの子でした。何かの見間違いかと思いましたが、特徴的な下あごに間違いはありません。
アユ釣りの名所では、昔から琵琶湖で捕れた稚アユを放流する事が行われ、その為に関東にオイカワが広がったそうですが、菅生沼にアユが居るはずも無く、どうにも合点がいきません。事によると、ルアー釣りの連中が菅生沼に放流したのかも知れません。

先日、ふとしたことで、浜松町の浜離宮を散策する事がありましたが、美しい日本庭園の池を泳ぐニシキゴイに混じってブルーギルがうじゃうじゃと泳いで居るではありませぬか!それに加えてカメと言うカメは全てミドリガメ(ミシシッピーアカミミガメ)!!!日本を代表する庭園の池が外来種に完全に浸食されております。庭園の管理者、何してますかね?
今では関東のどこの川や池や沼でもブルーギル、ブラックバス、ミドリガメがうじゃうじゃ繁殖して居ますが、これ、ルアー釣りの連中が所構わず放流した結果です。ミドリガメは違うけど。連中、生態系の破壊者であるのみならず、日本文化の破壊者でもあります。超強力な法的措置を断固とるべきだと思いますが、どうでしょうか?日本人、この様な状況を見て何も感じないのですかね?理解出来ませぬ・・・。

さて、話を戻します。

要するに、昭和40年代初頭の足立区は田んぼが広がる田園地帯でした。これが急速に変化して行き、昭和50年頃ともなると、現在と余り変わらないDQNな光景が延々と広がる地域となりました。毛長川は急速にドブ化し、これが流れ込む綾瀬川は毎年毎年連続して日本ワーストワンの栄誉に輝く悪臭を放つドブ川と成り果てたのは、皆様も良くご存じの事かと思います。
今後、日本の人口は減少の一途を辿る事となりますが、かといって足立区が元の田園に戻る事は無いでしょう。地方の田園地帯には未だ懐かしい風景も残っては居りますが、稲作そのものが大きく改良され、冬場に水を張るような田んぼは姿を消し、水路もコンクリートで固められ、化学肥料を多く使用する様になりましたので、春先にレンゲを播く必要も無く、あれだけうじゃうじゃ居たトノサマガエルも、今では日本全国で姿を見かけることが殆ど無くなってしまいました。メダカに至っては、絶滅危惧種に指定されると言う信じられない有様です。
コンクリートで固められた農水路では、タニシの代わりにアフリカマイマイが大繁殖し、イシガメやクサガメの代わりにミドリガメが我が物顔に伸し歩いて居ります。

もちろん農業は「産業」であり、生産性が大事であるのは百も承知ではありますが、この様な時代の流れに寂しさを感じるのもまた、自然な心の動きと言うべきではあるかと思います。


昔の田んぼのあぜの隅には「肥溜め(こえだめ)」が必ずありました。金肥(きんぴ)と言いますが、水洗トイレと化学肥料の普及により、肥溜めの役割も終わりました。
センセが小学生の頃には既に役目を終えつつあった肥溜めですが、ここには必ずたくさんのトノサマガエルが、丁度お風呂に入っている様に、気持ちよさそうに浸かっておりました。
田んぼの「かいぼり」でフナやコイ獲りに夢中になったり、或いは遊びの最中に肥溜めの中に足をドプンと漬けてしまった経験を持っているのは、たぶん、センセの世代が最後かも知れません。

下の図は、例によって、フォトショップで描いた「肥溜めの図」です。

肥だめの図-2.jpg
ハンノキの枝に留まっているスズメと肥溜め風呂に気持ちよく浸かっているトノサマガエルの図・・・。
赤い点々はヘビイチゴ、緑の葉っぱはオオバコのつもり、、、。

気がつくと本日は平成27年1月4日。昭和40年からは今年で丁度50年!振り返るとホンノ少し前の気がしますが、よくよく考えると相当な時が経っているのですよね。ナルホド足立区も、良くも悪くも変わる訳です。今後の人口減少で日本はどの様に変化して行くのでしょうね?これも興味津々な所ではあります。

明日から新たな仕事の日々が始まります。坂城のセンセも、相変わらずの忙しい年を迎える事でしょう。

それでは皆様、今年もどうぞ宜しくお願い致します!!!

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2015年1月 4日 16:03に書いた記事です。

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