中山博士の横顔 その-3 世田谷区上馬時代

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センセが2歳の時、家族総出で東京に移住致しました。まず始めに落ち着いた場所は、世田谷区上馬。本日は、この頃の思い出をお話したいと思います。このような個人的な思い出などは「年賀状の子供の写真」と同じで自己満足の所行かとも思いますが、この時代の雰囲気を書き記すことで、少なくとも同世代の皆様方からは、「ああ、そうだった、そうだった!」との共感も得られるかとも思いますので、臆面する事無く書き連ねていこうかと思います。

さて、時は昭和30年から35年ぐらいの時代です。木造モルタル作りの二階建て。お隣は薬屋さん。その隣はパーマ屋さん。その先が、お風呂屋さん。お向かいは、床屋さん。家のすぐ後ろは烏山川が流れておりました。今では暗渠になっているようですけど。西の方角には、砧浄水場の「おどろおどろしい」建物が遙か彼方にそびえておりました。たぶん、現在の上馬四丁目周辺だと思います。道路もまだ舗装されておらず、小田急のバスも、いわゆるボンネットタイプのものでした。今の世田谷上馬の雰囲気とは全く異なる、昭和30年代特有の雰囲気に充ち満ちておりました。当時の思い出のいくつかを書いてみたいと思います。

パーマ屋には、同い年のミヨちゃんがおりました。ミヨちゃん、パーマ屋さんだけに頭も天然系で御座いました。で、センセは典型的ないたずら小僧だったので、よくミヨちゃんをからかっておりました。

ある時我が家にテレビが入りました。当時のテレビは貴重品も良いとこで、滅多にお目にかかれるものではござりませぬ。でも放送は途切れ途切れで、ヘッケルジャッケルを見終わると、しばらくは画面はジャ~~~となって、放送終了となるのでございました。ミヨちゃんのうちには当然テレビはまだ無いので、いつも我が家に来てはテレビを見ておりました。でもヘッケルジャッケルが終わって画面がジャ~~~となっても、まだ画面から離れようとはしません。センセが「ミヨちゃん、テレビはもう終わったよ!」と言っても、ミヨちゃんは「まだついてる!」と主張して、決して画面から離れようとはしませんでした。そのうちミヨちゃんのお母さんが夕飯の支度が出来たヨ、と呼びにくるまで、結局ミヨちゃんは、ジャ~~~~~~~となってる画面に釘付けなのでした、、、、。

この当時、車も貴重なものでした。まだ国産車は珍しく、時折外車が通るぐらいです。当時の外車は典型的なアメ車で、ゴテゴテのウイング、やたらと飛び出たライトなどなど、たぶん、燃費もリッター2~3kmぐらいだったのでは無いでしょうか?中からは、必ず、トニー谷の様なおじさんが出てきたものでした。同じ頃に子供時代を過ごした方々には共通した性行だと思いますが、「あ、自動車が通る!」と気がついたら急いで道に出て、車が過ぎた後に排気ガスを胸一杯吸い込んで、「気持ちイイ~~!」、なんてね!

ミヨちゃんのお話をもう一つ。周りはまだまだ空き地が一杯で、向かいの床屋さん(一回50円でした。穴あきの菊の模様のニッケル玉)の隣の原っぱで、テントウムシを捕りに行きました。センセは採ったテントウムシをミヨちゃんに見せてあげました。テントウムシの表をミヨちゃんに見せると喜ぶのですが、裏側を見せると嫌がります。何でかな?と思って聞いてみると、ミヨちゃん曰く、「だって裏側はテントウムシじゃないもん!」との事でござりました、、、、。

ある時大水が世田谷を襲いました。今から考えると、伊勢湾台風です。裏の烏山川から水があふれ出て、センセの家の一階も浸水!センセのお兄さんが竹の定規を持ち出して、一階の水位を測っていたのを覚えています。

裸電球、ちゃぶ台、かっぽう着、爆弾あられ、金だらい、洗濯板、カネヨの洗濯石けん、親父のどてら姿、お釜、チリ紙、風呂屋の番台、ヤンボーニンボートンボー、特急「こだま」号、杉浦茂の猿飛佐助、大友朗の日の丸君、前谷惟光のロボット三等兵などなど、、、。

最後に印象深い思い出を一つ。センセは裏庭でスコップ遊びをしておりました。センセのお母さんは洗濯をしており、洗い終えたものを物干し竿にかけておりました。センセはスコップで庭土を掘るのに無我夢中でした。フト気がつくと、センセのお母さんが洗い終わって物干し竿につるした洗濯物は、センセが掘った土で泥まみれになっておりました。センセは驚愕し、「これは駄目だ!私は、死んで母にお詫びをしなくてはならない!でもまだ三歳児だから、どうやって死んだらよいのか分からない、、、。そうだ!とりあえず、家出をしよう!」と考え、スコップをその場において、そのままとぼとぼと、家の前の道を三軒茶屋方向に向かって歩き出しました。既にミヨちゃんのパーマ屋も、その隣のお風呂屋さんも過ぎ、これまでの人生で経験したことのない長距離を、あてもなく歩き続けました。たぶん100mも歩いたことかと思います。すると、センセのお母さんが追いついてきて、そのまま何も言わずにセンセの手を引いて、家に戻りました。帰り道も、その後も、何の言葉もありませんでした。

母はまだ存命です。いつかこのときの気持ちを聞いてみよう聞いてみようと思っているのですが、会うときにはそれを忘れてしまいます。彼女耳が遠いので、もう無理かな?とも思うのですが、、、。

 

 

 

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このページは、喜源テクノさかき研究室が2011年4月17日 18:33に書いた記事です。

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