中山博士の横顔: 2016年10月アーカイブ

昭和40年代:時代と音楽-10

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そもそも音楽は聴くものであって語るものではない、と言うほとんど反論の余地のない考えが頭から離れない・・・。
でも、音楽が好きな人たち同士では会話が成り立つ。
特に、あるジャンルに対して共通した興味を共有している時、会話はよりはずむ。
ならば、そののりで話していけば良いのでは?
と考えたら、少し楽になりました。

要するに、「好き放題に書いていきます!」

当時のアメリカのポップな黒人音楽(この場合ポップというのは「はやり歌」ぐらいの意味です)の世界は、ソロ歌手としては、サム・クックやジャッキー・ウイルソン、レイ・チャールズが活躍し、グループとしては、いわゆるドウワップ音楽が華やかだった時代です。
上記三人以外で当時の日本でもヒットした曲には、リトル・エヴァの「The Locomotion」、マーベレッツの「Please Mr. Postman」、アイズレー・ブラザースの「Twist & Shout」、ベン・E・キングの「Stand by Me」などがあります。チャビー・チェッカーによるツイストの流行も、この当時の雰囲気をよく表しています。一見してわかるように、初期のビートルズにも大きな影響を与えています。

サム・クック、ジャッキー・ウイルソン、レイ・チャールズなど、みな、教会でのゴスペル時代を過ごしています。ゴスペル音楽とは「黒人教会で歌われる賛美歌」のことですが、1982年のドキュメンタリー映画「Say Amen, Somebody(邦題:マザー)」が、ゴスペルの真実を余すところなく描いています。あるいは1980年の映画「The Blues Brothers」にも、牧師に扮するジェームス・ブラウンが教会で飛び跳ねながら歌うシーンがありますね!

この時代の黒人歌手の多くが、多かれ少なかれ、ゴスペルの影響を受けています。


さて、1959年、アメリカのデトロイト市に、ベリー・ゴーディ・ジュニアという名の黒人男性が、タムラという名の黒人音楽専門のレコード会社を設立しました。その後のアメリカ音楽シーンに非常に大きな影響を与えることとなる「モータウンレコード」の始まりです。

前回、「ざっくり言って、当時の黒人流行歌は、モータウン系とアトランティック系に分けられる」と書きましたが、その一方の雄がモータウンレコード。モータウン=モータータウンという名前は、もちろん、デトロイト市がGM(ゼネラルモータース)のお膝元だからです。

今でこそデトロイト市は財政破綻の都市として有名ですが、モータリゼーション華やかなりし当時、巨大自動車産業を支える労働人口の多くを占めた黒人達の間で、モータウンの音は熱狂的に受け入れられました。そして程なく、その音は白人の間にも多くのファンを生み出し、70年代から80年代にかけては、スティービー・ワンダー、ジャクソンファイブ、マービン・ゲイなどのビッグアーチストを輩出することとなるのです。

本日はここまで!



昭和40年代:時代と音楽-9

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さてボブ・ディラン、センセの呼びかけに答えてようやくお返事した。
きっと彼も陰に隠れてこのブログを読んでいるのでしょうね!

「ビックリしてしばらく言葉を失っていたんだ・・・。」
なんて言い訳してますが、たぶん、お友達からいろいろ言われて態度を変えただけだと思います。
で、ようやく表に出てきた彼に対して、「よかった~」と思うファンと、「なんだよ、がっかり・・・。」と思うファンと、両方いると思います。

でも、授賞式にホントに出席しますかね?気まぐれなヒトだから、まだまだ予断を許さないカンジがします。もしかすると、「出るつもりだったけど、猫のキャサリンが風邪をひいたので出られなくなった。グスタフ国王にはよろしく!」ぐらいは言いそうな気がします。そんで、「あ、とりあえず、俺の口座番号は伝えとくから・・・。ええ~っと、バンカメのNY支店の***ね!じゃ、よろしく!」とか・・・・。



・・・・・さて、本日は、黒人音楽についてお話したいと思います。

黒人達による音楽、一括してブラックミュージックとしますが、現代の洋楽系の軽音楽の世界で彼らの影響を全く受けていない分野を見つけるのは大変困難です。純粋なカントリーソングと初期のフォークぐらいでしょうか?それ以外はおしなべて、多かれ少なかれ、ブラックミュージックの影響を受けているのが現状です。

加えて興味深いのが、この影響が一方通行だということです。

白人プレーヤーの曲をカバーしたり、あるいは白人聴衆を取り込むための「白化現象」は時々見られますが、黒人音楽の本質に影響を与えた白人アーチストって、誰かいる?
少なくともセンセは知りません。

で、ことほど左様に影響力の強いブラックミュージックですので、これを抜きにしてこの時代の音楽シーンを語ることはできませんし、加えてセンセがブラックミュージックが大好きなもんだから「それでは行きがけの駄賃に語ってみようか」と思ったのですが、よくよく考えると新たな地雷原に足を踏み入れる気もします・・・。何しろ極めて広大、かつ奥深い分野ですので・・・。
でもブログのタイトルが「昭和40年代:時代と音楽」ですので、これに沿ってお話すれば迷宮に入り込むこともないかな?という気もします・・・。

四の五の言わずにやっつけます!

1962~63年当時、すなわちビートルズやボブ・ディランが登場した頃、米国国内では、キング牧師らが中心となった黒人公民権運動が盛んでした。そして彼らの運動を支えていたのが、白人のジョーン・バエズやPPMらの初期のフォークシンガー達でした。興味深いことに、この黒人公民権運動にフォークシンガーらと同じようなレベルで影響力を与えていた黒人音楽家を、センセは寡聞にして知りません。わずかにサム・クックぐらいですかね?
もちろんこれらフォークシンガーらが歌っていたあの有名な曲、「勝利を我等に:We Shall Overcome」は元々ゴスペルソングですし、サム・クックはボブ・ディランに触発されて「A Change Is Gonna Come」を歌ってますので、ブラックミュージックが運動に全く関与しなかったわけではありませんが、ともかくも、ジョーン・バエズに相当するようなタイプのブラックミュージシャンって、見いだせません。


ことによるとここら辺の事情って、マイケル・シュルツ監督の1976年の映画「Car Wash」の中で、黒人解放のために革命を起こすんだ!と本気で考えてる「彼」に対し、その他の洗車場の仲間たちはそんなこと全く気にもかけず、明日の「ダンスコンテスト」のための振り付けに夢中になっている、っていうような雰囲気が、当時の現実を表すものなのかもしれません。

じゃ、黒人音楽って、政治や社会に対して全く関与せず、ひたすら商業的~あるいはジャズのように「高踏的」だったのかというとそうではなく、70年頃からの「ブラックパワー」の時代には、テンプテーションズの「Papa Was A Rolling Stone」などのような曲が多く出てきます。ブラックパワーの時代は、ウッドストックの後にやってきます。

では62~63年頃のブラックミュージックシーンはどうだったのか?
と、いきなり突っ込んでいきたいのですが、その前に、一口に「ブラックミュージック」といっても、米国だけでもジャズにブルースにゴスペルにR&B、R&Bだけでもざっくり分けてアトランティック系とモータウン系、南アメリカにはマンボのようなキューバ~カリブ系音楽、ブラジルにはサンバ、そしてジャズとサンバが融合してできたボサノヴァ、さらにメキシコのヒスパニック系音楽など、これらがすべてさまざまな形で米国のポップ音楽シーンに影響を及ぼしますので、ああ~~~やっぱり地雷を踏んでしまったようだワ~~~~・・・(頭を抱えるセンセ)。


昭和40年代:時代と音楽-8

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ビーチボーイズの音楽は当時のアメリカ西海岸の若者文化を代表するもので、サーフィン+車+ガールズの「三種の神器」を日々追求しているような連中の音楽です。軽快なのりのりのリズムが特徴ですが、後々、その軽快さが「軽薄」といわれてしまうものではありました。
ベンチャーズの音はより大人向け~都会的ではありましたが、両者とも基本的に表層的であり、世界中の誰からもうらやまれていた当時のアメリカの消費文化の一角を音楽面において担うものでありました。

これらとは全く一線を画する音楽の潮流が、当初は小さなものではありましたが、花開きつつありました。フォークソングです。
アメリカのフォークソングとは、元々は各地元で歌い継がれてきたような「民謡」を、アコースティックギターやバンジョー、ハーモニカなどの伴奏を伴って引き語り形式で歌う音楽のことです。「遙かなるアラモ」などで有名なブラザース・フォアの成功によって商業ベースに乗り始め、ビルボードのトップを占めるような曲も出つつありました。
ビートルズ登場の頃には、ジョーン・バエズ、ピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)、そしてボブ・ディランらが活躍しはじめました。



フォークソングの特徴の一つは、その「優しさ」にあると思います。

やっかましいロック、荒々しいロカビリー、重すぎるブルース、難しすぎるジャズ、単調すぎるカントリー、軽佻浮薄なポップ、これらのいずれにも満足できない、どちらかといえば眼鏡をかけて図書館で静かに本を読みふけるような、そんな知的で優しいタイプの若者たちに、フォークソングはフィットしたのだと思います。
そして当時、若者を取り巻く情勢は、単に図書館にこもっている場合では無い!との想いを、彼らに抱かせつつありました。

「Dona Dona」とか「Lemon Tree」とか、この頃のフォークには、取り立てて世情に対するメッセージ性は感じられません。
けれども当時、アメリカ国内では黒人公民権運動が熱を帯び、国外ではベトナム戦争が慢性化の色を濃くしつつありました。また、環境破壊に対する告発書、レイチェル・カーソンンの「沈黙の春」が発表されたのも、丁度この頃です。
これらの危機感に触発され、フォークソングのもう一つの特徴である「メッセージ性」が、歌詞の中に付加されるようになりました。

PPMの「花はどこに行った」や、ボブ・ディランが書いてPPMがヒットさせたあの名作、「風に吹かれて」が世界中でヒットし、アメリカンフォークソングもまた、当時の世界中の若者を魅了することとなったのです。

これらのフォークソングは、その後、より音楽性を高めつつメッセージ性を薄めたタイプのものや、音楽性は二の次で、より過激なメッセージ性に重きを置いたものなど、いくつかのスタイルを生み出すこととなりますが、アコースティックギターを中心とする簡単な伴奏での引き語り形式には変わりがありません。

数年後には、「青春の光と影」のジュディ・コリンズ(作者はジョニ・ミッチェル)、「Georgy Girl」のザ・シーカーズ、California Dreamin'」のママス・アンド・パパス、「Mellow Yellow」のドノバン、「Daydream」のジョン・セバスチャン、そして70年代には「Take Me Home, Country Roads」のジョン・デンバーなど、いずれも名だたるフォーク~フォークロックシンガーを輩出することとなります。また、「花のサンフランシスコ」のスコット・マッケンジーや「君の友達(作者はキャロル・キング)」のジェームス・テイラー、アルバム「つづれ織り」のキャロル・キングなどのような、いわゆる「シンガーソングライター」と呼ばれる人たちのスタイルにも多くの影響を与えたことは論を待たないところです。

そしてさらに、ビートルズやローリングストーンズなどのロックの連中にも影響を与え、サイモンとガーファンクル登場の引き金となり、ウッドストックで一気に爆発する、いわゆる「フラワームーブメント」の時代を形作る直接の導火線となったのでした。

こうして後から冷静になって俯瞰してみますと、初期のフォークシンガーたちの影響力の大きさに驚かされてしまいます。わずか数年の間にベンチャーズ的な要素が音楽シーンから一掃されてしまうとは、「勝ち抜きエレキ合戦!」の頃には夢想だにされなかったものではあります。
確かにノーベル賞に値する影響力の強さでありました。

で、ボブよ・・・。
もういいかげんに「出てこんかい!」


昭和40年代:時代と音楽-7

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とうとうノーベル賞のお役人が腹を立て、ボブ・ディランを「礼儀知らずの無礼者!」呼ばわりしました。

でもねエ、稀代の「既存の体制への反逆者」に対してその評価はそもそも矛盾してるんじゃないの?
「既存の体制への反逆」そのものが、エスタブリッシュメントにとってはそもそも礼儀知らずで無礼な態度なんじゃないの?
それに対して世界に並ぶもの無き最大級のエスタブリッシュメントであるスウエーデン王立アカデミーがノーベル賞を与えたということにアイロニーを感じたからこそ、世界中の人々が驚いたんじゃないの?

ディラン本人はそう言われたところで、

「・・・・え?・・・・・俺、そうだけど・・・・?それがなにか?・・・・」

ぐらいなんじゃないの?

典型的、といおうか天恵喜源特濃スティックタイプ的(宣伝しつこい!)といおうか、リベラルであろうと常日頃から心がけていてもついつい本当の姿が透けてしまうアカデミック・エスタブリッシュメントの姿が垣間見えた瞬間ではありました。


さて、先日はビートルズのデビュー当時の音楽シーンについて触れましたが、本日は当時の雰囲気について、特にビーチボーイズとベンチャーズをビートルズに対比させつつ、語ってみたいと思います。

ビーチボーイズとベンチャーズ、あまりにもアメリカ的な両者ですが、当時の日本では、ビートルズに負けないほど人気のあるバンドでした。ベンチャーズなどは、ある意味、ビートルズよりも影響力があったといえます。
ファッション的には、ビートルズがマッシュルームカットで「舞台衣装」で演奏するのに対し、ビーチボーイズとベンチャーズはアイビーカット~アイビーファッションでの演奏です。ビーチボーイズは若者らしくカジュアルな服で、ベンチャーズは当時からすでに「オジサン」でしたので、よりフォーマルな服で演奏していた、という違いはありましたが。
この当時はその後のフラワームーブメントの片鱗もなかった時代ですので、おとなしいマッシュルームカットですら異端。さらにビートルズの「襟のないジャケット(たぶん、ブライアン・エプスタインのお仕着せ)」なんかカッチョワルイものでしたので、町なかでビートルズの格好をしている者はほとんどいませんでした。
また、ジャズシーンにおいても、当時の先端の連中、ジョン・コルトレーンもハービー・ハンコックもみんなExtreme Ivyに身を包んで演奏していました。

つまり、当時の若者のファッションを席巻したのはアイビーファッション!
VAN と平凡パンチの時代が到来したのです!

ベンチャーズはこの当時ビートルズよりもむしろ強い影響力があったと書きましたが、それは歌詞を持たない、いわゆるインストルメンタルの楽曲であり、しかも演奏が比較的簡単なものだったからです。彼らがきっかけとなり、日本中の若者が「エレキ」を手にしてテケテケテケ~~~~とやり始めた結果、素人バンドの大ブームが巻き起こりました。
TV番組では佐藤製薬がスポンサーの「勝ち抜きエレキ合戦!」が登場!ピカピカに若いジュディ・オングが、「すっと治るス、ト、ナ!」なんて言ってましたっけね!

当時の日本を代表するのが加山雄三。加山雄三とザ・ランチャーズの「ブラックサンドビーチ」なんぞはベンチャーズの影響をバリバリに受けまくっている曲ですが、個人的には、非常に出来の良い楽曲だと思います。センセの好きな曲の一つです。
この当時の小学生らはほぼ例外なく、放課後の掃除の時間にはギター代わりにホウキを胸に抱え、鼻の横を人差し指でなでながら、
♪ しやーせだなあ、、、ぼかあ、君のことを一生離さないぞ、いいだろ?」
なんてやっていたはずです・・・。


さて、バイクの転倒から丁度一週間たちましたが、センセの足の肉離れはまだ完治とは言い難い状況です。でも、日に日に良くはなっているので、そのうち直るでしょう。でも、その頃はもはや「バイクの季節」ではなくなっていることでしょう・・・。

ま、ブログを更新する良い機会だと思ってます。

では、一旦お開きといたします。

昭和40年代:時代と音楽-6

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それにつけてもボブ・ディラン、未だウンともスンとも言ってこないのでしょうかね?あまりにも「らしくて」、ある意味わかりやすい御仁なのかも知れません。

お話変わって、今日のThe Japan News に載ってましたが、あの「Johnny B. goode」のチャック・ベリーが先日90歳になったとのこと!「まだ生きてたんだ!」とビックリすると同時に、ナンと、来年にはアルバムを出すとのことです!
どんな声で歌うのでしょうか、興味津々ではあります。
「Johnny B. goode」といえばチャック・ベリー、 はもちろんですが、あのジミヘンのライブの「Johnny B. goode」の度肝を抜かされる凄まじさよ!!!(感嘆符の三連続)


・・・さて、いっきなりの60年代ロックシーンで始まった本日のブログです。
ビートルズの「Love Me Do」からウッドストックまで、フォーク、ロック、ポップ、R&B、すべてない交ぜにして、一気に駆け抜けてみましょうか。

ビートルズの最初のレコード、「Love Me Do」は、地元のリバプールのファンの間では評判をよんだものの、特にインパクトのある曲ではありません。EMIレコードのプロデューサー、ジョージ・マーチンに尻をたたかれて書いた次の曲が「Please Please Me」。これが大ヒットとなり、ここから彼らの大進撃が始まりました。一つ飛ばしてシングルの四作目が「She Loves You」、その次が「抱きしめたい:I Want To Hold Your Hand」です。この三つの大ヒットで、彼らは一躍世界中を興奮のるつぼに叩き込む事となりました。

センセなどは、今でも彼らの初期の大ヒット曲の代表中の代表であるこの三部作が大大々々~~~好きで、カラオケなどではこの三曲に加えて「I Saw Her Standing There」を熱唱するのが定番となっております・・・。

以来、ビートルズに続けとばかりにローリングストーンズなどのロックバンドが続々と登場することとなりますが、その多くがイギリス出身の連中です。これを日本では、ビートルズの出身都市に因み、リバプールサウンドと呼んでいました。
ビートルズはその後、徐々に変身というか進化を遂げていきますが、デビューからの数年間、すなわち世界中を飛び回ってコンサート活動をしていた間は、基本的なスタイルにはあまり変化は見られず、一種の「制服」に身を包んだマッシュルームカットスタイルで、後の長髪スタイルとは大いに異なり、むしろ「アイドル」の要素が強いものでした。音楽も万人受けのするポップなもので、歌詞も特に社会性~芸術性が強いものでもありません。ただし、その「出来」がバツグンで、彼らの曲には無条件にティーンエイジャーの心を鷲づかみにする何かがあったのが、大成功の最大の原因だと思います。

これに追随するリバプールサウンドの連中、ローリングストーンズもハーマンズハーミッツもホリーズもアニマルズも、当時はみな似たような髪型~スタイルで歌ってました。もちろん音作りにはそれぞれの個性が反映されていました。
Mercy Mercy Mercy」はジャズのキャノンボール・アダレイがオリジナルですが、これをカバーしてヒットさせたバッキンガムズなどはアメリカのバンドのくせにイギリスかぶれ。んで、歌い方はR&B風。
さらに海を飛び越えて日本に上陸して生まれたのがグループサウンド、と言うわけです。

ビートルズ出現前後のアメリカでは、ロック系ではビーチボーイズやベンチャーズ、R&B系ではタムラ・モータウンのミラクルズやマーベレッツ、そして大物中の大物、レイ・チャールズ、駆け出しのジェームズ・ブラウンらの時代です。ジャズの大御所、ルイ・アームストロングもまた、その存在を大いにアピールしていた頃でした。
一方、これらとは全く異なるフォークソングの世界があり、そこではジョーン・バエズやピーター・ポール・アンド・マリー、いわゆるPPMらが、すでにいくつかのヒットをとばしておりました。ボブ・ディランは、ある意味、ジョーン・バエズに見いだされて世に出た、という見方もできるかもしれません。

こうしてみると、「一気に駆け抜ける」なんてことは不可能でした・・・。
ナンか、まだ一合目あたりみたい・・・。
後悔・・・・・・・。



あ、そうそう。本日は、センセの誕生日です・・・。
チ~ン・・・。
合掌・・・。
ナムナム・・・。





昭和40年代:時代と音楽-5

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「その時」は突然にやってきました。

ある日、プラモデルを作っていたか本を読んでいたかは覚えていませんが、兄の部屋のラジオから、ある楽曲が流れてきました。初めて聞く曲でした。

その曲が終わったとき、センセは、天啓に打たれたかのごとく、あるいは弊社の天恵喜源特濃スティックタイプをいきなり10本飲んだかのごとく、その場もたちやらで、ワナワナと感動に打ち震えていたのです・・・。

なんて素晴らしい曲なんだと・・・。

それは、ビートルズの新曲、ポールの「Hey Jude」でした・・・。

一目惚れならぬ一耳惚れです・・・。

その時以来、プラモデルもマンガも、怒髪天を衝いた藺相如も、いままでの輝きを失ってしまいました。そしてその代わりに、ビートルズを初めとしたロックやR&Bのスター達が、センセの心を間違いなく100%、占めることとなるのでした。


このような事は誰しもが経験することかと思います。特に感受性の強い思春期においては、ある意味日常的な出来事なのではないのでしょうか?
一種の「すりこみ」現象ですね!
このような「すりこみ」が音楽で生じるヒト、絵画で生じるヒト、宗教で生じるヒト、あるいは思想哲学、スポーツ、文学、科学など、「対象」は異なると思いますが、そのヒトの将来の方向性を決定するような重要な瞬間が思春期~青年期の強い感受性を伴う時期に生じるという事実には、生物学的な、ある種の重要かつ合目的性に富んだ意義が隠されているように思えます。
このような天恵喜源、じゃなくて天啓に導かれ、そして同時に才能と環境に恵まれ、なおかつ努力を怠らず、さらには十分な冒険心を持ち得たヒトが、後に名を残すような人物となるのでしょう・・・。


さて、Hey Jude に一耳惚れしたセンセは、以来、ビートルズに夢中になりました。Hey Jude が発表されたのが1968年=昭和43年=中学2年の年です。
この年の前年、1967年にはキューバ革命の立役者の一人であるチェ・ゲバラがボリビアで射殺され、翌年の1968年には、黒人運動の指導者、キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されます。
ベトナム戦争はいよいよ盛んで、腹面側面を真っ黒に塗った大型爆撃機B-52が、連日のごとくに沖縄嘉手納基地から北ベトナムに向けて北爆を行っていた頃です。もちろん沖縄はいまだアメリカの統治下にありました。
中国では文化大革命が進行中で、TVのニュース番組では、赤いスカーフを首に巻いた紅衛兵の連中が「毛沢東語録」を片手にスローガンを叫びつつ行進し、それを壇上から毛沢東を初めとする中国共産党の幹部が拍手しながら見守っている、というような画面が連日のように報道されていました。
国内では東大紛争が勃発。これに呼応して日本全国の大学で学生によるストが頻発し、タオルで顔を隠してヘルメットをかぶり、角棒を持った「全共闘」と呼ばれる過激派が台頭してきた時代です。

ビートルズが解散するのが1970年ですので、Hey Jude はビートルズの活動のほぼ最後の局面に近いところで作られたものです。
この時までいくどとなく耳にし、目にしてきたあの有名なビートルズというものに心奪われたセンセでしたが、従いまして、彼らのデビュー曲に衝撃を受けた兄らの世代とは異なり、センセにとってビートルズを知るということ、すなわちその興味~探索の方向は、1962年の彼らの誕生に向けた、レトロスペクティブなものとならざるを得ませんでした。
また同時に、いや増す世情の雰囲気は、Hey Jude の優しいメロディーとは大いに異なる、violent かつpsychedelic な、新しいタイプのロック音楽を生み出しつつありました。
興味深いことに、ビートルズやローリングストーンズを初めとする60年代のロックのスーパースター達の多くがイギリス出身でした。一方、彼らに触発されたアメリカの若者達はこれをさらに発展させ、いまや音楽にとどまらず、ヒッピーなどに代表される「既製の文化に反逆する若者文化」が世界を席巻しつつありました。
このような当時のアメリカの若者が持っていた「怒れるエネルギー」の源の一つが、「徴兵制」のもとでのベトナム戦争にあったというのは異論のないところだと思います。そしてそのような若者達の怒れるエネルギーが音楽を通して余すところ無く発現したのが、1969年のウッドストック音楽フェスティバルでした。

次回は、1962年頃からウッドストック頃までの軽音楽シーンを振り返ってみたいと思います。


昭和40年代:時代と音楽-4

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W中学は中高一貫の私立校で、センセは足立区から新宿区まで電車で通う事となりました。小学時代の同級生たちがズックの白いカバンを肩にかけ、ズックの運動靴を履いて地元の中学に通うのを尻目に、ピカピカの黒革のバッグを手にしてこれもピカピカの黒い革靴を履いての電車通学です。このように書くのはいかにも鼻持ちならないと思われるかもしれませんが、当の本人としては、当時むしろたった一人、皆とはずいぶんと違う環境に身を置く事に対する気恥ずかしさが先に立ったものでした。

電車は毎日超満員。同級生の中でも一二を争うぐらい背の低かったセンセでしたので、電車の中で文字通り足が床に着かなくなるような状況もしばしば。つり革にも手が届きません。まだこの頃はまじめな中学生だったので、バッグの中は教科書で一杯。ちっちゃな中学一年生が重そうなバッグを手に持って、超満員の電車の中で遭難しないように一所懸命に手すりにしがみついていると、席に座っている優しいおばさんから声をかけられ、バッグを膝の上に置いてもらったりする事もありました。

教科書が詰まってパンパンにふくれあがった中学一年生のバッグでしたが、これが数年後には教科書の代わりに一冊の少年マガジンと雀荘の点数表とパチンコで取ったワンカートンのチェリーとが入っただけの、わざっとペッチャンコにつぶして持ち手のところをホータイでぐるぐる巻きにしたいわゆる***バッグとなるのも、少年から青年に向けてのお定まりの通過儀礼というところでしょう・・・。


さて、中学時代のセンセは歴史研究部に所属し、マンガを描きまくり、Uコンを飛ばし、魚釣りとプラモデル作りに夢中な、どこにでもいるような中学生でした。
また、センセは本好きで、子供の頃から色々な本を数多く読んできましたが、中学時代は歴史研究部に属していたこともあって、歴史の本を読むのが好きでした。特に中国史が好きで、中学生向けの「史記」や「三国志」、あるいはパールバックの「大地」などを夢中で読みふけっておりました。

多くのヒトが経験されていると思いますが、ある懐かしい曲を聴くと、そのとき行っていた事柄などが同時に思い起こされたりする事があります。

中学の頃、自分の部屋で読書に夢中になっていると、いつも兄の部屋からビートルズのレコードの曲が流れてきました。

従いまして、センセの場合、アビーロードのB面の一曲目、ジョージの「Something」を聴くと、今でも、藺相如(りん・しょうじょ)が和氏の璧(かしのへき)を巡って秦の王に対して怒髪天を衝く場面が思い起こされてしまいます・・・。


昭和40年代:時代と音楽-3

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ボブ・ディランは、ビートルズと同じ年、1962年=昭和37年にデビューしました。
キューバ危機が1962年、JFKがダラスで暗殺されたのが1963年、キング牧師のワシントン大行進が1963年、そしてベトナムのトンキン湾事件が1964年・・・。
昭和40年のちょい前のアメリカ~世界情勢です。

基本的に、昭和40年代とは、しばしば代理戦争の形をとって具現化した冷戦と呼ばれる米ソの覇権争いが世界に多大なる影響を与えた時代です。
政治状況にとどまらず、音楽、絵画、映画、文学などなど、あらゆる分野において、多かれ少なかれ、東西冷戦が暗い影を投げかけた時代でした。

アメリカ国内では、同時期、キング牧師らによる黒人差別撤廃を目指した公民権運動が盛り上がりを見せ、日本国内では、1960年の日米安保条約改定に反対する全学連を中心とした激しいデモ闘争の余波がいまださめやらぬ頃です。


ボブ・ディランやビートルズが登場する前の軽音楽の世界は、エルビス・プレスリー、リトル・リチャード、ビル・ヘイリーらに代表されるロックンロールや、プラターズやドリフターズなどに代表されるドウワップ音楽の全盛期でした。
この時代の音楽には「怒れる若者の情念の吐露」はゲップが出るほど見られますが、若者を取り巻く政治~社会~環境などに疑問を投げかけるような問題意識はほとんど見られません。
そんな中、アメリカではボブ・ディランが、イギリスではビートルズが突如として出現します。そして、この年、1962年を境として、世界中の若者文化が一気に革命的な変化を遂げ、それが一大潮流となって、世界を大きく揺るがす時代を迎える事となるのです。


ビートルズの華々しいデビュー時に比べれば、ボブ・ディランは、当初、一部のファンの間で話題になったに過ぎません。ビートルズは、少なくとも初期はショウビズ指向である一方で、ボブ・ディランは骨の髄からのボヘミアン芸術家タイプ。この両者が交わるのはまだ少し先の事で、ディランのあの名曲、「風に吹かれて」のヒットを待つことになります。

この時代、昭和40年のちょいと前の頃、センセは未だ小学生でしたので、音楽なんぞにはちっとも関心がありません。友人らともっぱら戦争ごっこに明け暮れていた時代でした。けれども五つ年上の兄にとってはビートルズの「Please please me」のリリースは頭に爆弾を食らったような衝撃だったそうで、その兄の影響がセンセに強く現れるようになるには未だ数年を要することになります。

東京オリンピックが昭和39年=1964年、センセが東京新宿区のW中学に入学するのが昭和42年=1967年、大阪万博が昭和45年=1970年。

ビートルズが衛星中継でイギリスを代表して「All you need is love」を流したのが1967年の時で、中学1年生だったセンセも白黒TVでリアルタイムでこれを見ておりました。ナンか、サンドイッチマンみたいなヒト達が風船の舞う中を「めちゃくちゃ」なカンジで適当に歌っているなア、と、子供心にも「正直に」思ったのを覚えています・・・。



昭和40年代:時代と音楽-2

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さて、ボブ・ディランです。
ノーベル文学賞の発表時、リアルタイムでTVを見てました。
ニュース速報の字幕が出たと思った次の瞬間には画面が変わり、白いブラウスのオバハンが現れて、「blablabla・・・・・Bob Dylan!」と宣もうた。

今年はすでに大隅良典氏が医学生理学賞を受賞していますが、ここ数年は日本人が2~3人くらい一遍に受賞したりするのが結構ふつうだったので、センセを含めた多くの平均的日本人としては、毎年候補に挙がっている村上春樹氏も今年は取れるかも・・・取ったら嬉しいな!なんて程度に考えていたのじゃないでしょうか?
よっぽど世界文学に詳しいヒトは別として、ノーベル文学賞って、自国の候補は例外として、よその国のヒトにとっては、多くの場合、「見たことも聞いたことも、ましてや読んだこともなく今後もまず読まないであろう作品を書いた知らないヒト」が取るのがフツーですので、ま、村上氏が取れなくても、ナントカスキーとかナントカビッチとかナントカドミンゴなんていう名前のヒトがとるんだろ?なんて思っていたんじゃないのでしょうか?

それがいきなりボブ・ディランということですので、これはビックリ仰天、たまげました!
ノーベル賞実行委員会のみなさん、相当な癖玉を投げましたね!
でも、驚きはしたものの、ジワジワと、んんん、なんとなく、それもありかなア・・・、とは感じます。
個人的には好きでも嫌いでもないのですけど、1960年代から現在に至るまで、音楽家を中心とした多くの人々に強い影響を及ぼしてきたヒトであることに間違いはありません。でも文学かなア。。。という一抹のわだかまりもありますが、そもそもノーベル文学賞とノーベル平和賞って、その、ええっと、モゴモゴ・・・・・だから、あんましこだわらなくってもいいんじゃない?

で、せっかくボブ・ディランの名前がいきなり世界中を駆けめぐっていますので、1960年代から1970年代の音楽シーンに関して、世界情勢~国内情勢を縦軸に、当時のセンセの日常生活を横軸にからめ、語ってみようと考えました。それは確かに革命の予兆に満ちあふれた時代だったのです。

今日はここまで!




昭和40年代:時代と音楽-1

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みなさんコンニチワ!お元気ですか?私はお元気ではありません・・・。

昨日、バイクでコケました・・・。
左足の大腿二頭筋~半腱様筋、いわゆるハムストリングが断裂。歩行もままならぬ状況です・・・。

実は6月にオフロードバイクのセロー250ツーリングタイプの新車を現金一括払いで買いました。ところがヘルメット(モトクロス系のカッチョイイやつ)の納品が遅いため、納車は8月。ようやく来たヘルメットをかぶってバイクにまたがろうとしたところ、メットが頭に入らない!Lサイズを注文したにもかかわらず、来たのはSサイズ!

入るわけないじゃん!!!

頭に入らないメットに頭に来て、注文しなおすと同時に代わりのメットを持ってこさせた(ロードタイプのカッチョワルイやつ)。
本来ならば、メットが来た時点でセンセがセローにまたがったカッチョイイ姿をブログでお披露目する予定でしたが、肝心のメットが未だに届いていないので、ナカナカご紹介できません。

とはいえ、以来、カッチョわるいロードタイプのメットをかぶって試運転~練習を行ってきました。で、8月の試運転の当日、いきなりコケました。

ここ坂城は文字通り坂の町なので、主道路への合流点で停止する場合、右左のどちらかに傾いて停止する状況が多いです。
そのため、例えば左上がりの主道路への合流点で右折する場合、一旦左に足を置いて停止する形になりますが、ギヤをローに入れるために右足でバイクを支えようとすると、あるべきはずの地面に右足が届かず、いきなりバランスを崩して右サイドにコテン、という結果となります。
座高の高いオフ車だから、という事情もあると思います。

センセの座高はカンケーネーと思います。

停止前にあらかじめギヤをローに入れておくなどして気をつけていれば防げる事故ですが、フット気を抜くとフットまわりがやばくなる、という坂道でのお話です。

で、右下がりの状況で右に倒れたバイクを引き起こすわけですが、平地に比べて重力に逆らう程度が増すわけです。何とか引き起こせましたが、この時は右腰の筋肉を痛めました。下手さ加減とトシと、両者が関与しています。

二回目の転倒は、近くの林道を走っていた時です。

研究所の裏山は舗装~未舗装あわせて細い林道だらけですが、数百メートルも走ればダートオンリーの林道もあります。全長3km程度の短いダートですが、カモシカ、クマ、イノシシがごろごろいるようなところです。道が細いうえにガードレールも無く、すぐ脇には細い渓流が流れてますので、バランスを崩せば一気に川底へ真っ逆さま!入り口は比較的整ってますが、程なくガレるようになり、アップダウンもあるなど、短い割には起伏に富んだダートです。

で、ここでちょくちょく練習する訳ですが、9月の長雨で相当ぬかるんだ状況でした。
スタンディングポジションでガンガン走っていると、「なんだ、おれって結構うまいジャン!」とかの妄想がにょきにょき生じてきますが、比較的勾配のある坂道を「ヒルクライム~!」とか調子に乗って登ったところ、いきなり「ここより進入禁止!」の看板が・・・。この時期はマツタケ収穫の時期なので、入山禁止と言うことです。

で、仕方がないので登り坂の途中でUターン、という事となりますが、道幅も狭いので、一旦切り返して右にハンドルを切る形となります。
登り坂からバックで切り返して道に向かって直角となった場合、右サイドは相当に下りとなる訳ですが、この時すでに「おれってうまいっ!」とかいう妄想に支配されていますので、バランスを崩してコテン・・・。

誠に古典的な転倒状況だといえるでしょう。

この時も右に倒れたものを登り側に立て直すという形となりますので、苦労はしましたが、ナンとか起こすことができました。体が悲鳴を上げる事もありませんでした。

で、9月の長雨も終わり、昨日~今日と長野はまさに秋晴れ!風もなく、まさに絶好のバイク日和です!天気予報も前日から調べ、和平キャンプ場から五里ヶ峰に抜ける林道を探索してやろうと満を持しておりました。
で、オフ用のブーツとギヤレバーがちょいと合いませんので、チョンチョンとアジャストさせて、「これでどうじゃろ」と研究所のまわりを一周してアジャストぐあいを確かめようとしました。

ローで発進してセカンドに入れ、研究所の駐車場から公道に出るために左折しようとしたその瞬間、いきなりエンスト!

研究所の駐車場もまた結構傾斜しているところに加えて左折のためにハンドルを左に切った状態。一旦停止してギアをローに入れかえておけば全然OKな状況ですが、停止せずにセカンドのまま進入しようとしたところにも原因があります。つまり、上り坂+左折によるハンドルの抵抗+低速セカンド=エンスト、という簡単な足し算です。
登り坂の左折でいきなりバランスを崩したわけですが、ナンとかこらえようと左足を踏ん張った次の瞬間、「ブチッ!」という音までは聞こえませんでしたが、左足太もも裏側に激痛が走り、バイクはそのままコテン・・・。
給油口からはジャージャーガソリンがこぼれてきますので、まずはエンジンを切ってバイクを起こそうとしましたが、左足の激痛がものすごく、とてもじゃないけど今回は起こせそうもない・・・。

足を引きずって一旦退き、太もも裏側をさすってナンとかだましだまし言うことを聞かそうとしましたが、創傷~火傷~打撲~ねんざ~骨折などによる痛みとは明らかに異なり、どちらかといえば「こむら返りの強烈なヤツ」のような痛みでしたので、「ハハア、これは世に言う肉離れだな!?生まれて初めて経験したワイ」などと変に感心しているセンセでしたが、ガソリンがこぼれ続けますので、ぴょこたんぴょこたんバイクに駆け寄り、左足一本失っても構わない勢いでナンとか一気に持ち上げました・・・。
おそらくこのとき、半腱様筋はさらにブチブチちぎれたかと思います・・・。

その後ナンとかバイクを収容し、ぴょこたんぴょこたん左足を引きずりながらねぐらへけえったセンセでしたが、昨日に引き続き今日もまたバイク日和のお天気・・・。
足の具合もさることながら、せっかくの秋晴れの日々、部屋に閉じこもっている事の方が悲しくなります・・・。

つくづく思いましたが、オフロードバイクの場合、低速での取り扱いには十分すぎるほどの注意が必要だ、という結論に達しました。特に坂道は当然の事、多少の傾斜のある場所での停止~発進~ターンをボヤ~ッと行ってはいけない!と思いました。なにしろアメ車などと違って足つきが悪く、重心が高いためにバランスを失うとアッと言う間に倒れます。走り出すとジャイロが働くので問題ありませんが、ジャイロが働かなくなる低速時~停止時は本当に注意が必要です。

従いまして、ダートをガンガン走る前に、半クラッチの使い方~Uターンの仕方~車体の向きと重心の位置などをベクトル感覚で意識する事など、傾斜地~坂道での低速~停止時でのバイクの扱い方を徹底して練習しなくてはならないナ、と感じました。また、あえてバイクから降り、手回しでスイスイ扱えるようになる事も重要だナ、とも思いました。
加えてトシによる体の固さを克服すべく、柔軟運動をより積極的に日常生活に取り入れる事の必要性も痛感した昨日でありました・・・。
ある意味、「ブチッ!」ときたのが出発前であったのは不幸中の幸いかも知れませぬ。これが深山幽谷のまっただ中に一人で入山した後に生じたならば、相当にやばい状況となったわけであります。とりわけ深山のまっただ中ではスマホも携帯も通じません。

どうしますかね?伝書鳩でも連れて行くかな・・・。

というわけでお出かけできませんので、久方ぶりにブログを書きます。
ナンか、タイトルと全く関係ない出だしとなりましたが、バイクに関しましては、この先メットが届いた時点で写真を加えて本格的に書いていこうと考えてます。

今回のタイトルは、先だって、あのボブ・ディランがノーベル賞をとった時の驚きに因んで書こうと思い立ったものです。

では一旦、お開きといたします。

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